【西遊旅譚/司馬江漢】(9)長府から大宰府を経て長崎に至る
『西遊旅譚』は、江戸時代後期、蘭学者で絵師の司馬江漢が記した長崎旅行記。行く先々の史跡名所、風土、なかでも長崎で見聞する支那船、オランダ船、出島、まぐろ漁、くじら漁などは挿絵も多くとても楽しい読み物です。天明八年(1788年)四月二十三日に芝門を出発。全五巻。
📖

扨、長府を過て壇浦より赤間ヶ関に至(下ノ関と云)。長崎の方より玄界灘を渡りて、此港に船をかける。人家一里餘有。瀬戸口山上に阿弥陀寺寶物多し。古法眼の画、土佐光信 壇浦合戦の圖、其外能登守の太刀、安徳天皇の御太刀、異形故に圖す。
※ 「扨」は、さて。
※ 「寶物」は、宝物。
※ 「古法眼」は、父子ともに法眼であるときに、父側を指していう呼び方。狩野元信を指していることが多いようです。
※ 「法眼」は、僧に準じて医師や絵師などに与えられた称号。
※ 「圖」は、図。

唐銅 水牛の角 全圖長さ三尺余 木
十月三日、下関より九州の地に渡る時に大風吹出し、波涛髙し。皆、人色をうしなふ。漸、無難にして大裡に着(此渡、大裡へ一理半、小倉へ三里なり)。此海中に与次兵衛塚といへるあり(秀吉の船頭なり)。引島見る。田ノ|《くび》首とも云(平家の一門、引退きたる島なり)。
※ 「大裡」は、内裏。北九州市門司の大里のことと思われます。


阿弥陀寺、引しま、小倉、豊前山、大裡、かんりう嶋、瀬戸

長州山、がんりう嶋、与治兵衛塚

大裡、人家二三町有。小倉まで一里半。初て海を左の方に見る。小倉の城見ゆる。則、小笠原■(■は厃+天)十萬石の城下にて、市街縦横に有。夫より筑前の地、黒崎の驛に着。此地より長崎の方、冬月より春まで時雨とて風多し。東方は十月の小六月とて、東西風土に違ひあればなり。
小屋の瀬、飯塚の間、五里あり。田邊川邊に鶴多し。真鶴、白鶴(白鶴は全體白し、はしとあしうす赤し)、黒鶴(小にして黒く、頭赤し)、筑前の地、惣て平野田畑に鶴おほし。飯塚と内野の間、右の方に入、田畑をすぎて山路をゆく事 四里、太宰府なり。此路甚の山名にして、大石道路を塞ぎ、十間、又は、五六間なるものあり。
※ 「小笠原■」は、小笠原矦(侯)。小倉藩の藩主。
※ 「夫より」は、それより。
※ 「小六月」は、陰暦十月の別名。ころくがつ。
※ 「小屋の瀬」は、木屋瀬のことと思われます。
※ 「はしとあし」は、觜と足。
※ 「惣て」は、すべて。
※ 「甚の」は、はなはだの。
天満宮、大鳥居(旅館多し)、門を入て池あり。橋三つかゝる(過現来の三橋と云)。山門を過て、本社左右廻廊にして神さびたる地なり。池の邊、大楠多し。毎年、八月廿一日より廿六日まで祭禮(まつり)。近郷より参詣多し。天原山安楽寺と云(寺にあらず、地名なり)。岩踏川社の北の方三里に在。思川宰府町西へ流る川也。
※ 「神さびたる」は、古びて神々しく見えること。
愛染川社の南にあり。
哥に
今宵より 又ぬらすべき袂かな
あひそめ川の 末のしらなみ
白川は宰府町西南にあり。
哥に
むば玉の わが黒髪は しら川の
みつわくむ迄 老にける哉
※ 「みつわくむ」は、瑞歯ぐむでしょうか。瑞歯が出るという意味から、非常に年老いること。瑞歯《みづは》は年老いて歯が抜け落ちたあとに再び生える歯。参考:『好色一代女:西鶴輪講 巻の1-6』(国立国会図書館デジタルコレクション)

観世音寺(清水山普門院)、博多へゆく路なり(博多へ四里)。戒壇院、観世音寺より近し。都府樓の跡也。又、安徳天皇の殿のあと有。先年、此寺本堂の下より瓦二枚を堀出す。生焼にして赤色、伊部やきの如しと土人の物かたり也。是、都府の古瓦なり。
菅丞相の詩あり。
僅見 瓦色
此寺より六七町を過て、田の中に礎あり。方五六尺、央に丸柱の象あり。總て此邊、缺瓦多し。表にしますぢ、裏布目あり。陸奥多賀城の瓦の如し。二日市、針すりの邊まで見る。
幸橋の哥あり。
たのもしき名にも有 かな道ゆけば
先幸のはしをわたらん
※ 「都府樓」は、太宰府政庁のこと。
※ 「伊部やき」は、伊部焼き。備前焼きのこと。
※ 「菅丞相」は、菅原道真のこと。
※ 「缺瓦《かけかはら》」の「缺」は、「欠」の異体字。
※ 「先幸の」は、まずさいわいの。
四方寺山、高橋■(■は彳+召)運が城跡と云。天拜天神の祠は温泉町の上、天拜山の中程にあり。
漆川哥に
名にはいへど 黒くも見えず うるし川
さすがにわたる 人はぬるめり
※ 「高橋■(■は彳+召)運」は、高橋紹運。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
※ 「天拜山」は、天拝山。菅原道真が無実を訴えるためにこの山に登り天を拝したという伝承に由来するそうです。
※ 「ぬるめり」は、漆を塗ると水に濡れるの掛詞になっています。
其外、刈萱の関の古跡、水城の関の古跡有。扨、宰府は四面山続て、海は福岡のかたに隔れり。故に寒月、雪深しといふ。夫より原田へ出て田代へゆく間、筑後の高良山見ゆる。中原より彦山へ行路有。是より十六里、又、久留米の城見る(有馬■の城下)。中春より神崎の間、喜鵲多し。此所にては高麗烏と云。
※ 「喜鵲」は、カササギ(鳥)のこと。

又、此邊にて索麪をつくる。作賀(鍋島■の城下)町、二里餘人家つゝけり。冨商おほし。婦人の髪の風、江戸に似たり。境原と云所にて、銭一文を一まい、二文を二枚と呼。言語はなはだ異なり。此邊、辻々に石のゑびすをたてる。中春は寒月雪を積事、二三尺。小田に至る。此間、農人の家ごとに暖簾を見るに、鹿布なり。此もの支那より荷物を包来る筵なり。圖の如し。
※ 「作賀」は、佐賀。
※ 「有馬■」は、有馬侯。久留米藩の藩主。
※ 「鍋島■」は、鍋島侯。佐賀藩の藩主。


夫より成瀬に至る。又、塚崎へ行路あり。嬉野(茶を出す)より彼木、此間大山坂あり。程なく、大村にいる。十町ばかり、左右家中路の半に桜を植。爰を過れば大村城下、人家続く。十月九日、市街 戸毎に注連を張、香を焚、怪てこれを問に、此地疱瘡をきらふ。此節、其國流行(はやる)す。故に除んがためにと。
町のはづれより舟に乗。海湾にて小島多し。景又佳。長井といへる所迄 七理。舟よりあがり行事 十餘町、時津に至る(大村の領地)。自是、長崎へ三里。鯖腐石、道端に望。中野村、平野村など過て、その路、常の犬を見ず。皆、狆なり。小童多くは筒袖を着(唐人風にうつる)。
※ 「彼木」は、彼杵。

鯖腐石、数丈に聳て、上の石危く懸る。土民の曰、サバといへる魚を荷てとをりけるに、石のあやうく落ん事を畏居うち、鯖のくさりければ、それを名とすと。
※ 「懸る」は、ここでは宙に浮いているという意。

亦、石階多し。大石に佛を刻。それを過て村上と云所、胡羊、豚、雞を畜て、長崎市中、唐人、阿蘭に售。
西坂より長崎を見る。坂を下りて長崎に入て、数日留る。長崎市中、海岸に家を作る。故に石階多し。又、橋も石にて作。婦人は生涯 眉を剃ず。脂にかな輪をいれ(唐人のまねなり)、言語いろ/\放言あり。左に一二を載。
兄を「バボウ」、姉或は娘を「ゴゞ」、人の妻を「ヲカツサン」、色情を「相思(唐韻なり)」、踏檀石を「キンバ」、皿を「バセウ」、游里などを散歩を「スネフリ」、蕃椒を「コシヤウ」、物を與るを「シケンカアジイ」、是ほどを「コレシネ」、餘程を「ヤツト」、親父を「チヤン」と云。又、言の中に「バツテン」と云事有。
※ 「脂」は、指と思われます。
※ 「かな輪」は、金輪。
※ 「放言」は、方言のことと思われます。
其外数々茲にもらす。風土暖にして、寒月雪ふらず。園中に橙を植(酢に用ゆ)。琉球芋多し(赤白の二品あり)。赤蕪有。大根は短し。ケラノ尾といふ。
※ 「茲にもらす」は、ここにもらず。ここでは略す、という意味と思われます。

長崎へ入道なり
参考:『西遊日記』(国立国会図書館デジタルコレクション)
● は解読できなかった文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖
