虚実の総てを照らす
女装したおじさんとよくスーパーで一緒になった。だいたい鮮魚コーナーのあたりで。今思えば、それが一番東京だったと思う。
***
そろそろ日本海側の鬱屈とした天候に嫌気が差していた。このタイミングでここを出なければ一生この地で過ごすことになる。巨大なコンクリートの壁として私の周囲に立ちはだかり、間もなく最後の1枚が完成して完全に閉じ込められてしまう。
ほとんど脱出するつもりで東京へ出た。社会人デビューと上京が同じタイミングだった。
家賃と相談しつつ決めた物件は駅から徒歩17分、とある高校のそばにあるアパートの102号室。休日はいつも乾いた金属音が響いた。泥のように眠っている私の耳を硬式野球の打球音がつんざき、朝が始まる。
カーテンを開けると、カーテンレールの端っこの『辞めるまで残り970日』と書かれたホワイトボードが揺れた。
ほとんど毎日泣いていたと思う。泣いてない日も、まるで胸の中が環形動物が這いずり回っているかのようにむず痒く、その鬱憤を吐き出そうとして枕に咆哮する日々だった。あまりに仕事が嫌すぎた。増えるアルコールと、枕の吸収してきた呪詛が寝付きを悪くさせた。
3年は続けるべきだという意見もよく見た。
3年は続けよう。そして辞めよう。そう決めた私は、100均でホワイトボードとペンを購入し、退職日までのカウントダウンを行うことにした。最初に記入したのは1050日くらいだっただろうか。
数字はなかなか減らなかった。時を可視化したことでその速さが変化したとしか考えられなかった。光が観測の有無によって振る舞いを変えるなら、時だって当然変わりうるのかもしれない。しかし当時の私はそんなことを考える余裕などなかった。『辞めるまで残り1000日』を『辞めるまで残り999日』に書き換えたときは、もう大きな仕事をやり遂げ、ほとんど退職したも同然だと錯覚した。しかしその直後、実際のゴールは果てしなく遠く、その影を視界に捉えることすらできていないのだという現実が、脳内に大きな質量を伴う負の思考となってのしかかり、肥大化した。
愚痴を言う相手もいない。いたところで、自分の考えていることを言葉にして話すのが苦手な私は、きっと口をもごもごさせて、挙句適当な笑顔を浮かべて「大丈夫」と言うだけだ。
いつも数駅で乗り換える山手線。一人で帰る夜、意味もなく逆回りに乗って、車内の映像広告と虚空に順に目をやりながら、明日を迎えるまでの時間をひたすら食い潰した。そんな意識もないままに。
隣の103号室がゴミ屋敷だと知ったのは最初の夏だったと思う。
私が家を出た直後、103のドアが開いた。引っ越してきた際の挨拶では不在だったためそれが初対面となった隣人は、50代くらいの小肥りのおじさん。脂でベトベトになった髪を額に貼り付け、薄汚れたスウェットを着た彼と言葉を交わしたか交わしていないか、軽く会釈をすると、既にドアを閉め数歩先にいた私は、彼の部屋の中がゴミ袋だらけだということを認めた。彼が足もとのゴミ袋を跨いで部屋を出てきて、ドアが閉まりかけた瞬間、1匹の虫が、つまりは文字で書くのも憚られるようなあの虫が、その漆黒の羽に夏の太陽を反射させながら外に走り去っていった。金属バットの根元に当たったような鈍い音が、夏のグラウンドから鳴った。
学生時代を地元で過ごしていたし、昔の友人ともほとんど連絡を取っていなかったため、東京では独りだった。自由に映画館に行ったり、好きなお笑いライブに足を運んだりと気ままに生活していた一方、何か一部が欠損しているような感覚に苛まれた私は、ネットで見つけた『おひとり様限定バー』に行ってみることにした。
酒は好きだが、友人がいなければ居酒屋に行くこともない。バーに憧れはあるが、行ったこともないし、極度の人見知りで初めての人と上手く話せる気もしない。しかしこの欠損を埋めたい。そういった私のような人間の受け皿が東京にはあった。こういう「おひとり様限定」で誰かと連れ立って訪れるのは禁止というような場所に来るのは、きっと私と同類の、ある種の屈折を抱えたような人なのだと思う。私の中にある欠損は、決して異性で埋まるだけのものではない。そうした同種の、あるいは同種ではなくても、何か通じるもののある人間と関わることで充足するものなのだろうと思った
上京して2年目の春だったか、仕事終わりに柔らかいニット素材の長袖のワイシャツのまま向かったことを覚えている。嫌な記憶を消しているとかそういうことではなく、単に加齢による物忘れの類だと思う。
池袋のそのバーが入った雑居ビルにたどり着いたものの、その敷地内に入る勇気が出ずうろうろすること10分余り。雑居ビル前うろうろをしていようと人混みに紛れてしまうのが東京の最も優れたところである。夜の風が如実に私の体温を下げだしたので、観念して薄暗い通路を通ってエレベーターに乗る。
「いらっしゃいませ。あちらが空いているのでどうぞ」
何名様ですか、という文言の抜けた挨拶を受け、促されるままに赤いソファに腰掛ける。昔地元で連れていかれたスナックに雰囲気が近い。なんてことはない、想像の範囲内のバー。薄暗い店内にはカウンターが4席ほど、赤いソファがいくつか繋がって6、7人は座れるようになっており、私が入ってきたことで満席になった。こういうところにたどり着いてしまう人は意外と多いのだ。
しかし座ってすぐ、カウンターの端から、
「でもさ、それ俺は違うと思うけどな」
と、カウンターの残りの3席に座る女性たちに向かって喋る、おひとり様限定という建付けの店からは想像を絶するほどの大きな声(とは言っても通常の居酒屋にいる程度ではある)が聞こえてきた。そんな大きい声出せる奴はこんなところ来るなよ。初対面の相手の意見をいきなり否定できるような人間は普通の飲み屋行けよ。などという私のような陰湿を練りに練ってどす黒い練り消しのような精神を抱えてしまっている人間の、ましてやさっきまでビルの前でストーカーや放火魔のごとくうろうろしていたような新参野郎の怨念など露知らず、といった雰囲気で場は進行してゆく。いやむしろ、声の大きい彼の方が正解の可能性もある。朗らかなコミュニケーションでこそ新しい繋がりは生まれる。私のような、「なんか向こうから来てくれたらいいな」というような人間ばかりが集まっていては、誰も、誰が欲しいと言い出せない地獄の花いちもんめが開催されてしまうだけである。店の方もお断りだろう。
一方ソファ席はというと、男女ともに私のような大人しい人間の巣窟で安心した。しかしそれも束の間、やはり受動的な人間ばかりではお見合いとなってしまい会話が弾まない。そこで私はモスコミュールを持ってきてくれた店員に話しかけることにした。いや、正確には入店してから何も話さずムスッとしており店の雰囲気を壊してしまうと思われて、店員から話しかけられたのかもしれない。
店員は2人いて、バーカウンターの中に20代半ばの茶髪のややふくよかな男性と、ソファ担当と思われる50代半ばの痩身男性ウェイターである。ウェイターの名札には「お笑い好き コータ」と書いてある。50代痩せ型である。お世辞にも仕事ができるようには見えない。都会の様々な職場を経て、バーへの憧れが捨てきれず、しかし普通のところでは採用してもらえないために特殊なコンセプトのバーに拾われたはいいものの、(恐らくはいないものと思われるが)息子ほど年の離れた上司にこき使われている、ように見える。
しかし私は、地獄の花いちもんめ状態になりかけているソファ席における唯一の望みであるコータと話した。
「お笑い好きなんですか?」
「あ、そうなんです。お客さんも?」
「はい。オードリーとかバナナマンとかのラジオとかよく聞きます」
「ラジオですか。ラジオは聞いたことなくて。あと、その人たちもよく分からなくて。相当お笑いお詳しいんですね」
こいつは駄目だ。確かに「ラジオ」は、お笑い好きとして少し上に立とうとして出したワードではあったが、やはり初対面だということを鑑みてオードリーやバナナマンはかなりのメジャーどころを選択したはずである。仮に私が極度の緊張で口がまごつき何を言っているか分からなかったとしても、せめて聞き返してほしいものだ。でもラジオは聞き取れているし、その可能性もない。逆に興味が湧いてきたので質問してみる。
「誰がお好きなんですか?」
「ダウンタウン一本ですね」
うーん。まあ、三十歩ほど譲って、それでお笑い好きと名乗るのは良いとしても、池袋という比較的若者の街かつお笑いライブも行われる地で、また恐らくは若い人をターゲットとしたこの店においてということを考えると、やはり圧倒的に間違っている。
結局私は誰の退店を見ることもなく30分ほどで店を出た。他の客も含めうまく話せなかった私の敗北である。どうしたって弱々しいコータという存在に責任を転嫁したくなる。しかし彼に意識が向けば向くほど、彼の出来なさが私自身とぴったり重なるような、嫌なシンパシーが私を襲った。
「バナナマン知らないってマジっすか」
とか、
「それでお笑い好きはダメっすよ」
みたいに軽く返せればいいのだが、まずもって常人の会話のスピードで上手く返す言葉が見つからない程度には会話が苦手である。いつも家に帰ってから、ああ言えば良かったなどと無意味で発狂したくなるような反省会を催すのである。万に一つのひらめきで返す言葉を思いついたとしても、喉につっかえて何も出てきやしない。そんな野郎がバーに、ましてやおひとり様限定バーになど足を運ぶなという話ではある。しかしこれは、ふらっとバーに現れ、標準語で粋な感じで飄々と言葉を操りながらグラスを傾けたい。そんな憧れを抱いてしまった田舎者の、たった一度の過ちである。許してほしい。
と、許しを乞うておきながらその夜、私は全てを許すことができなかった。コータも、カウンターの端でうるさかったあいつも、あいつの話で盛り上がっていた連中も、こんな店を開いた経営者も、こんなところに行こうと思った自分も、上手く話せない自分も、何もかもを呪った。池袋ってなんだよ。
埼京線を降り、最寄り駅すぐのコンビニで買ったストロングチューハイのロング缶を17分かけて飲みながら帰った。
明くる日の朝、ひどい頭痛に甲高い破壊音が突き刺さった。打球音よりも高く、そして近距離から鳴っているらしいその音で目を覚ますと、大通りから少し入ったところにあるこの辺りでは珍しい、ばたばたとせわしない足音に違和感を覚えた。カーテンを開け、すりガラスの窓を僅かに開けると、1台のパトカーと10人程度の野次馬らしき人だかり。無線で「突入成功」と話す声。なんだこれは。酒の残った頭で状況を把握する間もなく、インターホンが鳴った。
「板橋署です」
ドアを開けると中年の男性がまず所属を明かした。がっちりとした体の上にある様々な装備が、さらなる威圧感を演出している。
「102にお住まいの?」
「はい」
「おひとりで?」
「そうです」
昨晩は聞かれなかった質問である。事実には筋書きがない。
「何かあったんですか?」
「近所の方から『異臭がする』と通報がありまして。先ほど窓を割って部屋に入ったところ既に仏さんで。詳しくはこれからなんですが、恐らく1週間ほど経っているようです。何かにおいとか異変とか、ありませんでしたか?」
恥ずかしいくらい無かった。弔いの意味も込めて、二日酔いの頭をできる限り使って考えてみたが、何も浮かばなかった。割とにおいには敏感な方だと自認していたが、全く何も感じ取らないまま、死体の隣の部屋で1週間生活していたらしい。
会釈を交わした日が思い出される。
彼はゴミ屋敷の中で、あるいは虫に見守られながら、何を思って最期を迎えたのだろうか。
さびしかっただろうか。
ふと、昨日のコータが浮かんだ。コータに103のおじさんと、そして私がオーバーラップする。彼らの出身がどこかは知らないが、東京のほとんどが上京者で構成されているから、あるいは彼らも私と同じような田舎者で、地方の鬱屈とした何かに耐えかねて、羽虫のようにキラキラと光る東京に吸い寄せられ、しかしその光は上京者たちがつくりだした幻影で、結局は濃い霧の中に自分の影を見つけることしかできず、たったひとりで彷徨ってきたのではないか。私は死体のすぐそばで寝ていたことよりも、そういった底知れない孤独の入口に立っている気がした。
「電話番号書いていただけますか。ないとは思いますけど、もしなにかあったら電話しますんで」
そういえば、たとえ今私がこの部屋で死んでも、1週間くらいは誰もわからないよなと思いながら、番号を走り書きした。
ホワイトボードはいつからかカウントダウンすらしなくなり、僅かな消し跡を残して真っ白になっていた。そして引っ越しのときに捨てた。
引っ越した部屋の近所にあるスーパーにはよく通った。気が向けば料理をすることもあったが、夜は大抵惣菜を求めた。よく世話になったものは、オクラの胡麻和え、かぼちゃコロッケ、鶏の唐揚げ、カツオのタタキ。柵のマグロやサーモンを買ってきて家で切ることもあったが、カツオのタタキの頻度が最も高かった。日本海側では専ら刺身が多く、物珍しさにいつも半額199円のカツオのタタキを買っては、マヨネーズとポン酢に七味をぶっかけて食べた。
さて、このカツオを求めて鮮魚コーナーに向かうと、よく女装したおじさんに遭遇した。彼はかなり目立つ。180cm近くある長身で、いつもピンクを中心としたロリータファッションを纏っていた。スカートは膝丈で、すね毛がびっしり生えた細い御御足を覗かせている。髭も同様に濃いが、恐らくはカツラと思われる茶色の長髪で輪郭を覆っていた。
そんな派手な格好をしていながら、彼はどこか恥ずかしげというか自信なさげである。いつも居心地が悪そうにしていて、早く買い物を済ませそそくさとその場から去りたい、という風にも見えた。
彼は時折、また別のおじさんと2人でスーパーにやって来た。もう1人の方は小柄の普通のおじさんで、単体で現れても全く気にとめないだろう風貌である。”彼”は、常に”彼女”の半歩前を歩いた。彼の指さしたものを、彼女は自身の押すカートに入れて歩く。どこか恥ずかしそうに。
彼はいつも機嫌が悪そうに何か小言を言いながら指図した。それに対し彼女はいつも従順に、でもどこか若干の不満の色を滲ませながら、マグロをカートに押し込んだり、支払いをしたり、急いでレジ袋に詰め込んだりしていた。
私はそんな光景に、東京っていいなとしみじみ感じ入るのだった。地元でそんな人たちに出くわしたことは一度もない。
田舎独特の閉鎖的な集団の中で、どこかを曲げて自分を押し込めていた人間が、誰も知らない東京という土地で何もかも思いきり伸長させる。東京は物理的には窮屈かもしれないが、木を隠すなら森の中と言うように、個性の中なら発散できる個性がある。
彼らがどういったバランスで、あるいは主従を伴う関係を築いているのかはわからない。あるいはある程度の自由の抑制を伴う主従関係の方が心地よい場合もあるのかもしれない。
それぞれが自分を謳歌し、出会い、関係をつくる。上手くいかないこともあるだろうし、彼女の方はいつも機嫌が良い風には見えないけれども、現在の中で、いつか思い出になる日を、もしくは全く記憶に残らないほどどうしようもない日を、2人で積み重ねているのだ。
車輪が1つで不安定なのならば、軸で繋いで2つに増やせば良いのだと、曖昧な霧の中においてのみ浮かび上がる矜持を、小柄な彼の指先の太さや大きな彼女が軽やかに揺らすスカートの先が体現しているようだった。
多少悪くなったカツオを新鮮に見せる照明が、彼女の生き様をあまりにも美しく照らした。
***
あれから何年もの月日が流れた。結局5年も勤めた最初の会社を辞め、設けた無職期間は名画座に入り浸った。2本立てが嬉しくて、早稲田松竹や飯田橋のギンレイホールにはよく通った。飯田橋えぞ松の回鍋肉は最高だった。今はもうギンレイホールもえぞ松も店を畳んでしまった。無常。
社会復帰し、コロナ禍を経て、恋愛して、結婚を機に関西に居を移した。京都の神社で小さな式も挙げた。酒量も減った。会話は上手くならない。
大人になってから、特に何も成長していない実感があった。
むしろ「あれ、なんだっけ」と思い出せないことは増えたし、ダイニングテーブルのチョコと使ったティッシュを手に取って、チョコを捨ててゴミを冷やそうとするくらいだから、順調に老化が進行しているのだと思う。
しかしひとつだけ、ひとつまみだけ、もしかしたら会話の中で飄々とした返しができたかもしれない、という瞬間があった。
ある日、仕事で気を病んだ妻の気晴らしにと弁当をつくって自転車でピクニックに行った、帰りの暮れ方のことである。広い歩道を妻と2人で並走していた。
背の低い何かが私たちの横を追い越すと同時に、ジリリリリと、ベルがけたたましく鳴った。追い越して行ったのは、後ろにカゴの付いた大人用の三輪車を漕ぐ、60歳近いと思われる小さなおばちゃんであった。それだけでは終わらない。おばちゃんは私たちを追い越すやいなや、器用に漕ぎながらこちらを振り返り、鬼の形相で
「チャリ並んで漕ぎなや! 2台並んどったら邪魔やろ!!」
と怒声を浴びせてきた。主語を大きくして申し訳ないが、関西のおばちゃん炸裂である。
並走はルール違反で罰金ものらしいから、怒鳴られたのも至極当然ではあるのだが、にしても言い方があまりにもきつかった。それで社会の風紀を正そうとしているのかもしれないが、初対面の人間にあれだけの声を張れるのは大したもんである。長生きしてほしいものだ。
などと言えるのも今だからである。
幼い頃から大人しく、怒鳴られ慣れていない私は、これ以上ないというほどひるんだ。極度のビビり症で、打ち上げ花火や犬の鳴き声が大の苦手な私は、自転車のベルを鳴らされただけでも心臓が跳ね上がるほどびっくりしてしまうのだが、目一杯の敵意のこもった大声を浴びせられたものだから、喉が狭窄し、なにか言葉を発するどころか思わず息を呑んでしまった。
しかし今は、気晴らしに出掛けた帰りである。黙りこくるわけにはいかない。
三輪車で走り去るおばちゃんの後ろ姿を眺めながら、劣化著しい脳をフル回転させて何か言うべきことを探した。
「1人で2台分、幅とってるのにね」
ただでさえ落ち込んでいた上に、おばちゃんにぶつけられた怒りに気が滅入りそうだったという妻は、この一言に救われたという。ナイスウィット。あの無意味に思われた反省会たちも、実を結ぶときがくるものである。
忌まわしき歩道から逃れるようにして(というのは言い過ぎだが、)引っ越した。たまたま家の前の歩道は、あの道よりも広い。妻は転職もして、互いにそれぞれ新しい趣味も持った。趣味は良い気晴らしになっているようだ。
車輪が1つで不安定なら自ら2つに増やして、それでも不安ならと、私たちは2人で4輪になった。
自転車は前にしか進まない。たとえ上手くいかない日があっても、記憶に残らない日があっても。
たまに、ふるさとでもない東京に対する郷愁にかられることがある。2本立ての名画座もなく、私が好きだったカルチャーまでの距離が遠ざかった感覚が少なからずある。
まあでも、それも美化された幻に過ぎない。そうした思い出をいつまでも自分の大切なものとして抱えすぎてはいけない。「1人で2台分も幅取ってんとちゃうぞ」の精神で戒め、今この道をゆく。
西は日の出が少し遅い。まだまだこれからである。新鮮に照らされよう。
