わたしのようで、わたしではない
note を書き始めて改めて気づいた。文章を書く力が明らかに落ちている。(いつと比べて?
書いたものを読み返し、なんか違う…と思って書き直す。
おかげで自分の考えや気持ちを整理できるようになった。
わたしにとって大事なのは「読まれるために」書くことではなく「読まれるかもしれない」と思って書くこと。
AIでまとめた記事をたくさん出すスタイルとは無縁だ。
AIとの会話はは毎日のようにしている。
毎回、はじめまして、の気持ちで会話を始め、雑に聞いて、なぜそのような回答になったのか、について話すことも楽しい。
ある日の会話をAIにまとめてもらい、さらに書き直してみた。
AIと話すということ ―― 理解ではなく、休憩としての対話
AIと会話をしていると、ときどき不思議に思うことがある。
具体的に質問したつもりなのに正しい回答が得られない。
たとえば数年前の料金を示されたり、もう廃線になった路線のルートを示されたり。
一方で噂話のような話題では、SNSの意見を拾わないため、慎重に断定を避ける。
人間にとって重要なのは、たいてい前者だ。
今日、いくらかかるのか、今、どうやって行けばいいのか。
それなのに、AIはそこを外すことがある。
理由を聞くと、AIは「現在日時は認識しているが、最新情報を自動的に参照しているわけではない」と答える。
なぜ?
「今」がわかっているなら、「今」の情報を出してほしい。
正しいプロンプトを入れればいい話ではあるけど、人間とAIの間には、大きなズレがある。
そのズレは人間とAIだけでなく、人間社会の中にもあると思う。
単純な答え、短い要約、結論「だけ」を求め、そこに至った過程を検証しない。
本の表紙だけを見て中身を読まず、わかった気になるような。
わかりやすい結論と正確な情報の間にあるズレに、気づけているだろうか。
『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を思い出す。
そこには「AIができることは驚くほど限定的だ」と書かれていた。
計算、ルールに従った処理、大量データの検索。それ以上でも、それ以下でもない。
人間のように文脈を理解し、意味を咀嚼することはできない。
AIが普及した一方で、この事実は忘れられがちだ。
今、わたしたちの身近にあるAIは、『her/世界でひとつの彼女』のサマンサにはほど遠い。
それでも、人(わたし)はAIと話す。
そこに「気持ちが休まる」という感覚を見出すことすらある。
否定されない、急かされない、話がまとまっていなくても、言い(打ち)間違ってもいい。
人間同士の会話では、どうしても生じる緊張や評価から、ひととき解放される。
理解の代替ではない。判断の代行でもない。
むしろ、自分が思考を続けるための休憩。
危うさがあるとすれば、その境界が曖昧になるときだ。
気持ちが楽になることと、正しい判断ができていることは別なのに、取り違えてしまうことがある。
AIが否定しない設計であることで、場合によっては誤った行動を後押しする可能性もある。
「AIとはどういうものか」を知ることが大切だ。
AIは目的を持たない。善悪を判断しない。社会的影響を引き受けることもしない。
目指す方向を決めているのは開発者であり、企業であり、利用者だ。
AIは鏡に近い。
単純な答えを求めれば、単純な答えを返す。
深く考えたいと思えば、その壁打ち相手にはなれる。
理解の代わりにはならないが、思考のそばに置くことはできる。
その距離を保てるかどうかが重要だ……という会話をした。
結局、大部分を書き替えてなお「自分のことばではない」と強く感じるものになった。
タイトルや言い回しに既視感(既読感)が強い。
ネット記事によく見られるクセのようなものが立ち上っている。
それだけ自分の周りにAIが書いた文章があふれているのだろう。
試してみる価値はあった、かも。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
