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やっぱねやっぱね

読んでから観るか、観てから読むか。わたしは後者。
原作小説と映画の話だ。
おもしろかった小説が「映画化決定!」と報じられると「えー、もう読んじゃったよー」となる。
映画化は映像化ではなく原作を元に別作品を作ること。
映画を楽しんで原作に興味を持ち、読んでみて「まだこんなにすごいところがあったのか!」「ここを、あんなふうにしたんだ!」となると最高。

最近、原作からがいい? 映画から? ていうか、どっちでもいい?と話題になっていた『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

大評判、大人気の原作を、わたしは「わー!」とか「えー?」とか、声が出るほど夢中になって読んだ。映画化前提?作品とは知らず、発表後は「読んじゃった…でも楽しみ」という気持ちで待っていた。

予告編。
ロッキー見せちゃうんだ…まぁ映画館に来てもらうには、そうなるか。

本編。
過去と現在を行き来する作りがうまいし、笑いのシーンが多く、映像も音も音楽も「映画館で観る」醍醐味を楽しめた。
ロッキーは親しみやすくするためか多少E.T.風味?が足され、問題解決のプロセスはひかえめ。意思疎通の感動も薄かった。

グレース、ていうかライアン・ゴズリングを魅力的に見せる作品になっていいて、わたしのように科学の知識やSFの素養がない人にも楽しめる作品になっていたと思う。
これは、玉手箱を開けずに幸せに暮らした浦島太郎の物語(違う

あー、観てから読む、の人は幸せだなぁ。


今回書きたかったのは、同じく、異星生物とのコミュニケーションが描かれる映画『メッセージ』について。
先日、『ゆる言語学ラジオ』で取り上げられ、予想通り「言語学的には~」と、盛り上がっていた。
ただ、原作にない映画の設定や登場人物について「テッド・チャンは~」と話していた気が。
あと、わかりやすく「未来を予知できるようになる」と表現していたのは「過去、現在、未来を同時に把握する」とは微妙に違う気がした。


ここまで書いてから、かなり時間がたってしまい…その後、YouTubeのコメント欄に注釈、訂正がたくさん足されたのは読んだ。
(視聴者のコメントは多すぎて、そっ閉じ)


原作は『あなたの人生の物語』テッド・チャン。短編集の中の一作だ。
わたしは、観てから読んだ。映画に感動し、原作もその前提で、読んだ。

巨大な宇宙船と異星生物ヘプタポッドは、なぜ地球にやって来たのか。
理由を知るべく意思疎通の手段を探す研究者が招集される。その一人が主人公の言語学者、ルイーズだ。
彼女は、音声、動作、物、書き文字を使って、お互いの言語をすり合わせようとする。
映画では宇宙船とヘプタポッドの圧倒的な大きさが強調され、攻撃?侵略?それとも?という緊張感を演出、調査機関は米軍になっていた。

その過程で「サピア=ウォーフ仮説」について、さらっと説明される。
新しい言語を取得すると時間認識や思考が変わる、と。
映画では完全に変わってしまい、不可逆とされていた。
あくまでもSF世界へ誘導するための設定で、この説明があったおかげで、後にルイーズが変わる展開を受け入れることができた。

実際に発想の元になったのは言語学ではなく「変分原理」とのことだった。


映画では、ばかうけ宇宙船やヘプタポッドはもちろん、円環文字のデザインと描かれ方に感動した。
書き始めと終わりが同時に存在する、時間を「直線ではなく全体として把握する」という思考を視覚からイメージすることができた。

未来を知ったうえでなお選択する、そして受容する、人生を肯定する物語であり、ものごとは結果ではなく過程にこそ意味がある、というメッセージを受け止め、わたしは感動した。

ところが。

ChatGPTに感想を語り、映画の邦題を『メッセージ』とした意味、自分だったらどうするか、など、いろいろな会話をしていたある日、まったく違う考え方を提示された。(そのくらい何度も会話していた)

未来を知った後、同じ選択をする、そこに自由意志はないというものだ。
決定論。哲学。
選んでいるわけではない、選んだと錯覚しているだけで決まっている。
人間の自由意志が静かに侵食されていく怖さを描いている、と。

え。そんな。

映画では、ヘプタポッドは未来で人類に助けられる(ことを把握している)ので自身の言語(と思考)を伝えにきた、となっていた。
国家間の危機を回避するための選択(今、まさに必要なこと!)や、将来失われる命と知ってなお家族になるという個人的な選択が、ドラマチックに描かれ、感情の要素が強い。
ドラマ、物語に感動したのは自然の流れだ。

改めて設定を確認。

未来を把握する、世界はすべて「決まって」いると知ると「選択する」はなくなり「選択したと思っている」になる?
その後の考え方も「決まって」いる?
「決まった」世界を受容することも、肯定することも「決まって」いる?
あぁ、もうループ&ループ(違う

ヘプタポッドは人類の言語を理解した状態でやって来たんだ。
ルイーズが自身を指して「ルイーズ」と言ったとき、個体名?だということも理解していたんだ。ていうかルイーズが来ることも、その後の展開も知っていたんだ。
発語や表記ができないので、人間がヘプタポッドの言語を解析できるまで待っていたんだ。


テッド・チャンの別の作品『理解』は、主人公がすべてを把握した結果、人間ではいられなくなるというバッド・エンドだった。
すべてを「理解」すると「世界」も「他者」も、つまり「自分」もなくなる。人間ではいられなくなる。
やだ怖い。

でも、この作品では(映画も小説も)ルイーズは「それでも選ぶ、そして受け入れ、肯定する」という部分が残っているかのように描かれていた。
それが可能かどうかは曖昧なまま終わった、と思う。

混乱しながら考えて考えて、やっぱり最初の感想「未来を知ったうえでなお選択する、そして受容する、自分の人生を肯定する」に戻った。


『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、異なる知性や言語でも、翻訳やコミュニケーションを通して「同じ理解」に到達するという世界を、
『メッセージ』は、言語を通じて知覚や思考が変わり「別の理解」になってしまう世界を描いた。

SF作品で描かれる言語や理解の可能性の幅はとても広いけど、SFに限ったことではない。
人間同士でも、わかりあえないというのは大前提だ。
だからこそ少しでもわかりあえる物語、わかりあえなくても共存できる物語に出会ったとき、わたしは感動すると思う。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます!


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