待ち合わせは森の入り口
昼寝をした。たくさんの犬や猫におそわれる夢を見た。最初は猫で、1匹しかいないと思って覗いたら台所の暗がりにたくさんいた。そこに犬も混ざってきて、しかもみんな細い足の、ひょろひょろの黒っぽい犬。網戸をばりばりと引っかいて、部屋に入ってこようとする。ボートで逃げても、陸に戻れば気づいて追ってくる。床の上で眠ってしまったせいだろうか。カーペットの床とはいえ、ベッドに比べたら間違いなくかたいから。それであんな夢を見たのだろうか。
遅めの昼寝から抜け出し、映画を観に行った。「くまをまつ」、ポレポレ東中野にて。
もともとこの映画を観る日と決めていたから、ハーフパンツをはいた。予告編で、森を歩く少年を見たのだ。玄関にあった姉のキャップをちょっと迷って拝借。帽子なんて普段はかぶらないけど、今日は違う。気分はまぶしく勇敢で強がりな、夏の日の少年だ。
⚠️以下、「くまをまつ」のネタバレを含む考えの連想ゲームです。まだ観ていない人は、読まなくていいので映画館に行ってください。もし続けて読んでくれた人がいたら、ありがとうございます、ぜひ映画館に行ってください。この映画に関わった方がもし読んでくださっていたら、素敵な映画体験をありがとうございます。
なんというか、不思議な映画だった。とにかく、なんかすごいぞということしか正直言えない。体験みたいな、観察みたいな、昔話みたいな、景色みたいな、記録みたいな、その全部みたいな、全部違うみたいな、映画体験だった。
脚本家のややこは、亡き祖父の家で映画の脚本の執筆をしている。その家に、タケシという少年が預けられ、ふたりはひと夏を共に過ごすことになる。共に、と言っても、その夏はきっとそれぞれの夏で、一緒に過ごした時間もまた、たぶんそれぞれの時間なんだと思う。タケシはいわゆる「子どもらしい」子どもとはどこか違って、ややこにも必要以上に干渉してこない。さほど興味すらもっていないのかな、と思うくらい。ややこの方は、新しく自分の生活に現れたこの少年を観察するように日々を重ねる。脚本に使える要素を半ば無意識に探しながら。
庭の木に登る黒い影を目撃した日から、タケシはひとり、くまを探し始める。ややこの日常は、タケシに感化されたりされなかったりしながら続き、祖父の影とか、物語とか、彼女は彼女で何かを追いかけたり、待ったり、手放したり、離れていったり。合間に様々な人(ひょっとすると、人だけではないのかも?)がその家を訪れ、去っていく。やがて母がタケシを迎えに来るまでの、数日間のお話だ。
私はたまに、幽霊のことを考える。私の「たまに」は、まあまあよく、くらいの頻度である。特定の故人について考えることもあるし、漠然と「幽霊」について考えることもある。いるのか、とか、今どこに、とか、あの時あのひとは、とか、こうすれば、とか。でもその「考える」ということが次第に、ポーズなんじゃないかと思えてくることがあって、どきりとする。なんというか、考えようと思って考えている感がすごいのだ。考えれば考えるほど。たぶん、幽霊について考えることは死について(あるいは生について)考えることと隣り合っていて、それは私にとっては今日の夜ごはんを考えるくらいのさりげなさでは考えられないから、ちょっと構えて、考えようとして考えているんだと思う。それに気づくのは大抵、忘れることが怖くなってきたときで、それはつまりたぶん、忘れはじめているときなのだ。死にしがみついている、と言ったら乱暴だけれど、たぶんそういうとき。覚えていようとしないと、忘れちゃうとき。その入り口。
ふと、私が幽霊について考えるみたいに、幽霊も私のことを考えたりするんだろうか、と思う。するとして、それもやっぱりポーズみたいなんだろうか。それとも、夜ごはんは豚汁にしようと考えるくらいするりと、日々のすき間に入り込むくらい何気ない「考える」なんだろうか。幽霊はどのくらいのことを忘れるんだろうか。どのくらいのことを覚えているのだろうか。覚えているとして、その事々を考えるんだろうか。お盆の火に思う、私があなたを待っているみたいに、あなたも何かを待っているの?
たぶん私たちは、見ているし見られている。
あらゆるものから。
本当の暗闇が隣にあったあの頃、静かすぎて眠れなくなる夜、青空の下の森の入り口で、何かに呼ばれたことはなかったか。ひと夏の冒険譚は、いつだって私だけの物語。こわいものとは、未知なるものとは、ひとりで対峙しなくてはならない。1人で、呼ばれて行って、あるいは迷い込んで、そして帰って来る。ことができたらいいけれど、もちろん保証はないよ。
くまはどこにでもいた。私たちの遊び場だったかたくりの咲く山にも、学校の裏にも、友だちの家の庭にも、くまは出た。くまは危険な動物だと、大人たちは言った。「小熊の近くには、親熊がいます。小熊だけ見かけても、安心してはいけません。警戒した親熊が襲ってくることがあります」
山に入るときは熊鈴をつけたし、目撃情報があった日の帰り道はいつもより大きな声で歌を歌った。くまが危ないことは、ちゃんと知っていた。
でも、「危険」は時に、魅惑的に呼んでくることがあることも知っている。そして子どもは、その呼び声をきちんと聞きつけられることが多い。
タイトルの「くまをまつ」のくまはきっと、具体的なくまのことだけじゃないと思う。
タケシはなぜあんなに熱心に、くまを待っていたんだろうか。本当にくまを待っていたんだろうか。パンフレットに渋谷いる汰くんは、「早くお母さんに迎えに来てほしいなって」と書いていた。
誰かとの時間、瞬間のなかに、ややこはなにを待っていたんだろうか。
あの人は、あの人は、あの人は、
みんな、何かを待っている。
日めくりカレンダーをめくりながら、石の穴を見つめながら、待ち続けているものがある。その全てを言葉にはできないししたくないけれど、「待つ」ことの「気配」みたいなものが、映像の端々に感じられた。
終わりかけ、家の中ををぐるりと見回すようなカットがあった。途中、卓球をするややこが映ったりするあのカット、私は、人ならざるものの視点のようにも思えて、ぞくりとした。幽霊かもしれないし、くまかもしれないし、家そのものかもしれないし、なんか、時間、みたいなものかもしれない。あの静かなカットのなかにひたひたと流れる何かの気配を、掴もうとしたが掴みきれなかった。
たぶん私たちは、見ているし見られている。
あらゆるものから。
私たちのなかにある恐怖と好奇心は隣り合わせだ。だから人は暗い森にも足を踏み入れるし、人の死にも足を踏み入れたりする。たぶん、もはや本能的なものだから、そう変わることはない。でも、変わらないのに失ったみたいになることはある。忘れることはできるからだ。
映画を観て、ふと、文章について考えた。
私は、忘れないようにしたいことはよく文章にしたためる。自信がないから。今のこの衝撃とか、思ったこととかを、色あせさせずにいられるか分からないから。私にとって書くことは、これが真実だった、と言い切る行為に近い。真実にした、と言ってもいい。忘れるかもしれないことを、忘れないために刻みつける。金槌を振り上げるように、キーボードを叩くように。記憶に鈴をつけて、目印にする。呼ぶために、離れるために、まもるために。
私は、誰かの生前のすがたを、具体的な文章にしすぎないように気をつけている。文章にした先から忘れてしまう気がして。書くことで覚えていられることもあるけれど、書くことで忘却を許せてしまうこともある気がする。それは時に救いにもなるのだろうが、刻み込んだから大丈夫、と、記憶のねじが緩んてしまうことがいまはこわい。死として、今はないものとして、記憶のふたを閉じるのがこわい。言葉にすることは、ときにそのくらい強い力を持つ。文章は、私の体力の先にある。だって、私が死んでも文章は残るのだから。書いたことを私が忘れても、書いた私のことを誰かが忘れても、文章は残り得る。肉体よりまちがいなく長生きをする。私は私の記憶という体力のぎりぎりまで、生きていた人たちのことを文章に預けきることはしないだろうなと思う。思い出話を綴るのではなく、できるだけいまは、いまの話を書いていたい(このあたりのこと、言葉にするのがまだすごく難しい。たぶん矛盾だらけで読みにくいと思います。ごめんなさい)。
逆に、漠然とした「幽霊」については、待つために言葉にしてみている。生きていた人たちのことではない。死んだ人たちのことでもない。今いるかもしれない人たちのことだ。熊鈴でくまは呼べないけれど、私はここにいるよ、と合図をするつもりで書いている。書いて、合図して、待ってみて、いつか真実にしようとしている。あの頃の暗い夜を、青空の下の暗がりを、何かの気配を、言葉に紡ぎながら私は待っている。待つって願うことに似ているのかもしれないなと、ふと思った。すがるんじゃなく、さりげないかたちで、願うみたいに待っていたいと思った。
今年の夏は、森に出かけてみたいと思う。
あの夏の帰り道、こわいのに見つめてしまった森の入り口。
あの夏みたいに呼んでくれるだろうか。待っていてくれるだろうか。あるいは、こんなふうに思ったことも忘れて、私はやっぱり出かけないのだろうか。忘れかけていた、待たなかった私は、もしかしたら、あの森でくまに出会うことになるかもしれない。

