泥に沈む職場、都市を守る森 ~シエラレオネ、マングローブ減少が映す「見えない防波堤」の危機~
大西洋の潮が引いたぬかるみの中、マチェーテ(山刀)と手袋を握りしめたミリセント・トゥレイさん(50)が、生い茂る木の根に向かって泥水へ足を踏み入れます。
彼女がこの過酷な仕事で家族を支えてきて、ちょうど20年になります。彼女たちが探しているのは、水面下に隠された野生のカキです。
西アフリカ・シエラレオネの首都フリータウン沿岸で今、このカキを育むマングローブ林の減少が深刻な問題となっています。
フリータウン沿岸で失われているのは日々の糧を得る女性たちの「職場」であり、同時に水害から都市を守る「自然の防波堤」です。
生態系、都市開発、貧困、そして食文化が複雑に絡み合う、極めて複雑な社会問題なのです。
🇸🇱 Mangrove loss threatens Sierra Leone's oyster harvesters
— AFP News Agency (@AFP) May 26, 2026
Along the coastline of Freetown, the gradual disappearance of mangroves directly threatens the communities that depend on oyster farming to make a living. pic.twitter.com/C3yynd04RN
フリータウンで今、何が起きているのか?
フリータウンは、大西洋に突き出す半島に位置し、すぐ背後には急な丘陵地が迫る、シエラレオネ川河口域に隣接した港湾都市です。

半島の北側に広がる河口域の約29万5000haがラムサール条約湿地として登録されています。ここは天然の良港を形成し、都市の発展と生態系が直接隣り合う場所です。

この河口域の泥地やマングローブ林で、トゥレイさんのような地元の人々、特に女性たちは「西アフリカ沿岸で見られるマングローブガキ」を採取して生計を立てています。
日本のようないかだを使った本格的な養殖ではなく、潮の満ち引きで水没するマングローブの根や幹、岩に付着した野生のカキを、干潮時に手作業で採る過酷な労働です。
採れたカキは、蒸して殻を外し、煮込み料理や焼き物、乾燥スナックとして地域の食卓に並びます。これが家族の食費や子どもたちの学費を支える貴重な現金収入源となっています。
しかし現在、このカキのすみかであるマングローブ林が伐採や埋め立てによって急速に痩せ細り、カキの収穫量が激減しています。トゥレイさんが「人々がなぜ木を切り倒すのか分からない。私たちの生計の道なのに」と語る通り、女性たちはより深い泥の中へ、より遠くへと足を踏み入れざるを得なくなり、生計の維持が困難になりつつあるのです。
なぜ、この「危機」が起きているのか?
① 急激な都市拡大と「平地不足」の圧力
最大の要因は、首都フリータウンの爆発的な人口増加と無秩序な都市化です。国際環境開発研究所(IIED)によれば、フリータウンの人口は過去50年間で実に10倍に膨れ上がりました。
平地が少ないこの都市では、行き場を失った人々による非公式・低所得居住区が、土砂災害のリスクが高い急斜面や、洪水リスクの高い沿岸の低湿地へと拡大しています。
AFPがシエラレオネ当局の公式推計として伝えるところによれば、1990年以降、フリータウン周辺のマングローブ被覆は実に25%以上が消失しました。ESAやCopernicusの衛星画像解説でも、シエラレオネ川河口域では無許可の住宅開発により過去5年間で約20haのマングローブ植生が除去された事例が取り上げられています。これは最新の全国統計ではないものの、都市の拡大が湿地を蝕んできた象徴的な具体例です。
この「山と海に挟まれた都市」の脆弱性が現実の悲劇となったのが、2017年8月のフリータウン土砂災害です。集中豪雨で急斜面に建てられた非公式居住地が崩落し、死者・行方不明者は1,100人を超えました。
マングローブを埋め立てることと、急斜面を切り拓くことが、同じ「平地不足」という地理的圧力から派生した避けがたい都市の悲劇として現れている構図です。
② 貧困と直結する「食文化と燃料材」のジレンマ
マングローブの減少は、都市化という外部からの圧力だけでなく、沿岸住民自身の生活の糧とも結びついています。シエラレオネの沿岸部では漁業への依存度が非常に高く、特に魚介類の加工は女性たちの重要な仕事です。
冷蔵庫などの低温保存インフラが乏しい熱帯の沿岸地域では、獲れた魚や貝を煙で燻して(燻製にして)保存する食文化が根付いています。そして、その燻製用の燃料や日々の煮炊きの薪として、手に入りやすく乾燥時の燃焼効率が高いマングローブの木が日常的に伐採されているのです。
「守るべき自然」は、貧しい沿岸世帯にとっては「生きていくための必須の燃料」でもあり、ここに根深いジレンマが存在します。
③ カキの命綱である「根」の喪失
マングローブは、カキにとって「近くにある森」ではありません。複雑に絡み合った水中の根そのものが、カキの稚貝が定着し成長するための「足場」であり、豊かな栄養分を供給するフィルターです。
したがって、燃料のための伐採や宅地開発による埋め立てで根が切り取られたり、林が薄くなったりすることは、カキの生息基盤が物理的に消滅することを意味します。環境の悪化は、単なる漁獲量の減少にとどまらず、女性たちの職場そのものを奪い去っているのです。
地理・地政学的な視点 マングローブという「多機能インフラ」
① 局地的に進行する開発圧力
シエラレオネ全体では、マングローブ面積は地域差を伴いながら増減してきました。報告によれば、全国のマングローブ被覆は2000年前後に低下した後、2020年ごろにはわずかな回復も見られます。
一方で、シェルブロ川河口のように2000年から2020年にかけて約20%を失ったとされる地域もあります。
フリータウン周辺では都市開発や燃料利用による局地的な劣化が激しく、北部のスカシーズ川河口では水田(稲作)への転換が主因となるなど、地理的条件によってマングローブを脅かす経済活動の性質が異なるのです。
② 「緑の防波堤」を失う都市の脆弱性と再生への動き
マングローブは、地域経済を支えるだけでなく、都市を守る極めて優秀な「生きたインフラ」です。複雑な根のネットワークは、海からの波のエネルギーを吸収し、高潮や海岸浸食から陸地を守る天然の防波堤として機能します。
さらに、マングローブは陸上の熱帯林の何倍もの速度で土壌に炭素を蓄える「ブルーカーボン」の巨大な貯蔵庫でもあり、その喪失は地球温暖化を加速させる要因にもなります。
こうした危機感から、フリータウン市は「Freetown the Treetown(植樹都市フリータウン)」という気候レジリエンス戦略を立ち上げ、市内に100万本の樹木を植え、マングローブを再生する取り組みを始めています。
都市が失った自然インフラを取り戻そうとする動きも、ようやく動き出しているのです。
今回のニュースが問いかけること
マングローブの森は、魚やカキを育むゆりかごであり、女性たちに現金をもたらす職場であり、日々の煮炊きを支える燃料供給源であり、そして高潮から人命を守る防波堤でもあります。

今回の問いは、
「都市の拡大や日々の貧困などの現実を前に、私たちは自然環境をインフラとしてどう再設計できるか」
ということではないでしょうか。
今日の地理ワード
「生態系サービス(Ecosystem Services)」
人類が自然環境(生態系)から得ているさまざまな恵みのこと。食料や木材などの「供給サービス」、気候の安定や水質浄化・防災などの「調整サービス」、動植物の生息環境を守る「基盤サービス」、そして観光やレクリエーション、精神的充足をもたらす「文化的サービス」の4つに大きく分類されます。
マングローブは、この生態系サービスのすべてを極めて高いレベルで提供する、世界でも稀有な自然環境です。
気軽に深く知るためのヒント
地図帳でシエラレオネの「フリータウン」を探し、山が海に突き出す半島の地形を確認してみる
日本で行われている「カキの養殖(いかだなど)」と、熱帯のマングローブガキの育ち方にどのような違いがあるか調べてみる
魚や肉を「燻製」にして保存する文化が、なぜ冷蔵庫のない地域で昔から発達してきたのか考えてみる
「ブルーカーボン」という概念を調べ、マングローブが陸上の森と比べて炭素を蓄える効率がなぜ高いのか、その仕組みを探ってみる
世界のマングローブ林が、どのような理由で減少(または保護・増加)しているのか、東南アジアや中南米の国と比較してみる
お知らせ
新刊・既刊・著書
『世界の「なぜ?」がまるわかり! 面白すぎる地理の話』(産業編集センター)(2026年3月13日刊行)
※おかげさまで第3刷となっております!
世界各地、70項目の「なぜ?」を、地理的・歴史的背景を詳述しつつ紐解いています。
私の目指す「地理の物語(ナラティブ)化」を形にした一冊です。
今日の話のネタに、雑学の蓄積に最適ですが、それらの背景分析から未来の読み解きやビジネスへのヒントも拾えるよう執筆しています。
また、地理用語も丁寧に解説しているので、地理初心者の方も安心してお読みいただけます。
『ゼロから学びなおす 知らないことだらけの日本地理』(WAVE出版)
※2026年は、夏にも新刊を刊行予定です。
【個別サービスのご案内】
地理について話す入口(地理教養ダイアログ)から、出版企画書の 赤入れ、授業設計レビュー、ファンタジー世界観の地理診断、 観光導線レビューまで、5つの個別サービスをお受けしています。
詳細・お申込みは公式サイトをご覧ください。
【その他のリンク】
各プラットフォームへのリンクはこちら
【組織としてのご相談について】
学校・出版社・自治体・観光協会・観光企業など、組織としての ご相談・ご依頼は、私が代表理事を務める一般社団法人 日本地域地理研究所でお受けしています。
【引用・転載について】
SNS等でのシェアは大歓迎です(URLと著者名の明記をお願いします)。
動画やメディアでの「無断転載」や「台本としての利用」は固くお断りいたします。
© 2026 Issei Takinami / (社)日本地域地理研究所
いいなと思ったら応援しよう!
サポートは、資料収集や取材など、より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。
また、スキやフォロー、コメントという形の応援もとても嬉しく、励みになります。ありがとうございます。