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君たちはどう死ぬのか「私の場合」

山根あきらさんの企画に参加させて頂きます。
素敵なイラストもありがとうございます。

二年前の肌寒い三月のことだった。
仕事中の母から「連絡が付かないから見に行って」とLINEが届いた。裏にある実家を訪ねると父がリビングで横たわっていた。
「父さん!」
と叫ぶと一瞬、目を見開いたがその目はどこか遠くを見たまま「驚いた」表情をした。すぐに救急車を呼んだ私はこの時、覚悟をした。
間もなくサイレンと共にやって来た救急隊員は、土足にカバーを付けて、ドカドカと実家へ上がって行った。

玄関付近に、雨に濡れたまたの作業着がかかっていた。定年なく電器店の仕事を続けていた父は、今日も大雨の中、外で仕事をして帰って来たのだ。恐らく映りの悪いテレビのアンテナ修理をしたのだろう。

救急隊員は、AEDをする許可が欲しいという。AEDは、心臓がけいれんし血液を流すポンプ機能を失った状態になった心臓に対して、電気ショックを与え、正常なリズムに戻すためのものだ。

そういえば父は、心臓弁膜症で人工の弁を付ける手術をして5年になろうかとしていた。その人工弁の寿命は5年と聞いていた。

バチン!

大きな音と同時に父の体に電気ショックが与えられた。

状況は思わしくない。
そのまま救急車に乗せられて、救急病院へ搬送された。
私も同乗した。
救急病院に到着して、診療台に乗せられた父は、既に動かなかった。大動脈解離だった。

八十才になって、おぼつかない運転をしていた父は、何度勧めても運転免許証を返納しようとしなかった。外出する度に心配だった。
その頃は耳も遠くなっていた。補聴器を作るため耳鼻科にかかった父は、何か気に要らないことがあったのだろう。耳鼻科の先生と口論になり危うく出禁になるところで、通院するなら私の付き添いが必要だった。


元々、職人気質で円滑なコミュニケーションが苦手だったが、年老いた父は、一層、周囲と折り合いを付けることが難しくなっていた。今でいう「モラハラ夫」に母は苦しみ、喧嘩の絶えない夫婦だった。その争う様子が苦手だった。

五十代の頃には、町の議員として、道路に歩道を付ける申請をしたり、防災センターがなかった町に拠点となる場所を造ったり、人のためになる仕事もした。感謝されることもあったが、次の人にポストを譲らなかったため敵も多かったようだ。


だがそんな父も、孫が誕生すると、とてもいいおじいちゃんになった。
仕事をしている私は、単身赴任で家にいない夫の代わりに、子育てを父と一緒にしたようなものだった。自分が間に合わない時、快く保育園や学童に迎えに行ってくれた。その時、初めて父に素直に感謝することができた。そして、父のもつ温かさに気付いた。


あの日、父が動かなくなって、哀しい気持ちの隣に、安堵の気持ちがあったことは否めない。
高齢ドライバーとして、命と引き換えにようやく運転免許証を返納できたのだ。
最期のその日まで、元気に仕事をしていた父の生き様は、私に「死ぬまで仕事をしたい」という目標を新たに与えた。
DNAに刻まれているのかもしれない。

母も70代後半で3月まで仕事をしていた。これから、まだ仕事を探そうとしている。

私も、最期のその日まで仕事をしていたいと思う。そして元気なままこの世を颯爽と去っていきたい。



今の仕事は体力も気力も使うため、別の仕事をしたい。😅💦