【小説】「騙される快楽」第二話
第二話【全六話】
七月になったばかりの空は積乱雲が我が物顔で鎮座して、太陽でぎらついている。容赦ない日差しで私の肌を照らしてきた。白いカットソーブラウスは、汗でじっとり濡れていた。フラワーアレンジメント教室に出会ったのは、うだるような暑い日の午後だった。
九月号用の「日の出保険」取材を終えて自宅に直帰しようと街を歩いていると、蜃気楼のように、ヨーロッパの街並みから浮かび上がってきたかのような美しい建物に遭遇した。
レンガ造りの壁に、ドアや窓枠の空色が馴染んで心地良い。その店先のターコイズブルーの花が、盛夏の熱気を和らげているようで、思わず立ち止まった。切り花の他に、アレンジした作品を売っている様子だった。
花の香りに誘われて店内に入っていくと、内側は白い珪藻土の造りで、花がより引き立つように見えた。店内の花は色とりどりで、夏に咲く薔薇も美しく妖艶な雰囲気を漂わせている。ここがカフェならば、ゆっくり珈琲でも飲んで過ごしてみたいと思わせる居心地の良さだった。
「お客様、もしよろしければ、フラワーアレンジメントの体験ができますけど、いかがでしょう?」
白いワンピースに薄桃色のエプロンを付けたスタッフが、月下美人の花弁のように柔らかい笑顔で案内をしてくれた。この場所で過ごせるならばと、即、体験を受けることにしたのだ。
青系のトルコキキョウ三本、白いリンドウが二本、チョコレートグラス五本が、レジ横のテーブルの上に用意された。花を刺す土台となるオアシスを使わずに、簡単なアレンジ方法を教えてくれた。即席で花束を作るのだという。
まずトルコキキョウとリンドウの下葉を取り除く。トルコキキョウが罰点に交わるようにして茎が集まったところを左手で持ち、そこに残りのリンドウやら、チョコレートグラスを差し込んでいく。慎重に一本ずつ加えていく。
一本、また一本と増える度に、花束が華やいでいく。思わず鼻歌を歌いたくなる。最後に、ラフィアという紐でくくった。この紐はラフィア椰子が原料になっていて、花束の表に見えてもむしろお洒落に感じる紐だった。スタッフのお手本には程遠いけれど、満足のいく花束が完成した。完成した花束を飾り眺めていると、スタッフが珈琲とクッキーを用意してくれた。
フラワーアレンジメント教室では、毎回、終わった後に珈琲を囲みながらお喋りをするのだそう。私は、珈琲を飲みながら、既に入会を心に決めていた。最近、味わったことのないような優しい充実感で満たされたのだ。これは、仕事の達成感とは全く異なる種類のものだった。初めて自分一人で作ったパンケーキを頬張っているかのような充実感。とても新鮮な気持ちを思い出していた。
クラフトペーパーで花束を包んで大切に持ち帰った。満員電車の中で、守るべきものがあるというのは誇らし気でもあった。行き交う人が、花束を覗いていく様子も心地が良かった。練馬区にある1Kのマンションに戻ると、しまい込んでいた透明の花瓶を出してきて、そこに花束を挿した。途端に部屋全体が華やいだ。
私は夕食作りも忘れ、写真撮影をしてSNSに上げた。何度か撮り直したベストな写真だった。簡単に夕食を作り食べていると、「ピロン」携帯に通知が入った。これが「蓮おじ」からの最初のコメントだった。
《美しい花のアレンジですね。癒されます》
翌朝、リンドウの清々しい香りのおかげで目覚めが良かった。それでも満員電車に乗ると、編集長の顔が浮かんで憂鬱になった。車内のつり皮に掴まって、右に左に必死に倒れないようにしている姿は、まるで社内の自分と重なってしまい苦笑いした。案の定、会社に到着すると編集長から書き直しの指令が届いていた。
しかも直接ではなく、編集さんからの伝言だった。こんな時、私に対する情はもうヒトカケラも残っていないのだと実感する。彼の無関心に改めて落胆する。私は渋々その指示に従って、記事に大幅な修正を施すことにした。修正内容を覆えすことなどできなかった。それが、上司と部下の関係である。
週末のフラワーアレンジメント教室だけが生きる希望だった。本来であれば、待ち望むものは、恋人との密会や親友とのランチなのだろうけれど、今の私にはそんな心を許せる人がいなかった。
二年前、霧島君が編集チーフになった頃、私たちは長い関係を終わりにしたのだ。彼の体温を、激しい逢瀬を忘れられなくて、時折、子宮がうずいてしまう。かつて彼は、仕事と同じくらいの情熱で、私の性を開発し続けていった。その激しい腰の動きが、指先の繊細な動きが、私の体の中心を捉えて離さなかった。
固いものが奥へ奥へと突き刺さる度に、二人の下半身は一体となって交わり、ねっとりと溶け合った。新しい快楽をおねだりする私に、彼は優しくて意地悪だった。私には彼を憎むことも、嫌いになることもできないのだ。体が覚えている。それに、今では考えられないような優しい笑顔で「ずっと一緒にいよう」と微笑んでくれていたのだから。
週末のフラワーアレンジメント教室の花材は、ガーベラだった。様々な種類の色とりどりのガーベラが用意されていた。この日は、もう一人参加者がいた。とても感じの良い、三十代ぐらいの松井さんという女性だ。
ガーベラには様々な種類があることをこの日初めて知った。よく見かけるものはひと重咲きと呼ばれるものだ。それ以外にも、八重咲や、スパイダー咲きと呼ばれるものがあった。もう一つ、この花のどこがガーベラなのだろう? と思ってしまう変わり咲きというものがあり、緑色の球状で、まるで葉物のようだった。迷わずオレンジ系の花を選んだ。中心には、八重咲の濃いオレンジ色の花を置き、その周囲を同系色でグラデーションするようにひと重咲きのオレンジ色の花を配した。
そして最後に、代わり咲きと呼ばれる緑色の葉物のようなガーベラをアクセントとした。今回はフラワーボールに花をアレンジしたのだが、このフラワーボールごと持ち帰る訳にはいかず、最終的にはやはり花束の形状となった。
花束にして持ち帰ると、もう一度アレンジし直すことなく美しいバランスのまま花瓶に挿すことができてとても良い。出来上がったお互いの作品に感想を述べ合いながら、松井さんとのお喋りを楽しんだ。
「フラワーアレンジメントを始めたきっかけってありますか?」
まるでインタビューのような私の問いに、その女性は少し頬を赤らめた。
「実は、小さな雑貨屋を昨年オープンしまして、その店に飾るお花を作りに来ているんです」
仕事上のつきあいもなく、知り合いでもない相手とお喋りをすることは気持ちが楽だった。彼女は、夫に内緒でこの習い事を始めたのだという。この教室の前は料理教室に通っていたらしい。前回は突然、料理が上手になってサプライズが成功したのだと嬉しそうだった。会社員をしている夫は、彼女の仕事をとても応援しているのだと話していた。
夫を自分の判断の中心として暮らしている松井さんの様子が伝わってきた。「そういう生き方もあるのだな」と思いながらも、私はできないと感じた。「孤独」には慣れることができる。でも、誰かに尽くしたり、束縛されたりするのは、たぶん今でも苦手なままだ。
スタッフの方が珈琲とマドレーヌを用意してくれた。素敵なお茶菓子に一層、気持ちが和んだ。無意識に選んでいたオレンジ色のガーベラの花言葉は「冒険心」「我慢強さ」だった。「我慢強さ」は私に当てはまるけれど、「冒険心」は随分前に忘れてしまった。
帰宅すると、私はまた花のアレンジを撮影し、SNSにアップした。以前より少し慣れてきた私は、ガーベラの種類と花言葉も載せることにした。間もなく「蓮おじ」から「いいね」が送られて来た。いつものようにコメントは添えられていなかった。
自宅で一人分の料理をし、テーブルのガーベラの花を見ながら食事をしていると、「ピロン」と通知が鳴った。「蓮おじ」から初のダイレクトメールが届いたのだ。男性から仕事以外でDMが届いたのは、いつ以来だろう? 指先が震える。
《あなたの花の写真は、私に歓びを与えます。ありがとうございます。もっと花のことを知りたい。教えてください》
どことなくぎこちないそのメッセージに心がざわついた。
《蓮さん、はじめまして。いつも私のつたない花のアレンジメントに元気の出るメッセージをありがとうございます。花のこと、お伝えできるほど詳しくないんですよ》
《私は、ソフトウエアエンジニアをしている。二年前、日本にやってきました》
ぎこちない日本語は、来日二年目だからと知って納得した。
《専門的な仕事をされているのですね》
《毎日、機械を相手にしている。あなたの花の写真、素敵だ。特に、ガーベラの写真と記事が素晴らしい!》
《ありがとうございます》
《あなたと、DMでつながって嬉しい。また明日》
迷惑そうな人とつながってしまった後悔と、少しだけ楽しみな気持ちとが交錯した不思議な気持ちに包まれた。でもこの日は、とてもよく眠ることができた。
翌朝、突風で傘の軸が折れてしまいそうな雨道を、私は最寄り駅に向かった。満員電車に揺られていると、DMが届いた。「蓮おじ」からだった。写真が添付されている。何の写真だろうと思いながら開くと、どうやら今朝撮った写真のようだった。雨降りの東京タワーを真下から撮った写真は美しかった。赤い鉄骨が、幾何学的に写されている。きっと雨に濡れながら撮影したことを思うと、私への特別な気持ちを感じ取ることができた。
《今日は、雨降りです。自分のお世話をしてください》
つまり「テイクケアーユアセルフ」的な英語表現を日本語に置き換えているのだろう。英語話者にありがちな微笑ましい日本語に気持ちが緩んだ。
《御心配ありがとうございます。蓮さんもお気を付けて》
ここ数年、人から心配されたことなどあっただろうか? SNSでつながっただけの人間に対して、最上級の心遣いではないだろうか? そこから「蓮おじ」は、朝と夜にDMを送ってくるようになった。
朝は、だいたい自分の居場所の写真と短いコメントが送られてきた。
《今から、自社製品の説明がてら商談に行ってきます》
通勤時の駅のホームで自撮りしている写真が添えられていた。
《今日は、自作のアプリケーションのテストをします》
PCと一緒に、社内デスクが一緒に写り込んでいた。机上はきちんと整理されていて、オレンジの花の写真が飾られていた。拡大してみると、私がSNSに上げたガーベラの写真のようだった。信じられない。プリントアウトしたのだろうか?
どんな仕事をやっているのか、こちらに伝えようとしている。それと同時に、私への好意を抱いていることが伝わってきた。
夜は、自分で作った夕食の写真が送信されてきた。奥さんとは離婚したようで、娘の分と二人分の夕食がテーブルに並んでいる。鶏胸肉の棒棒鶏は、きれいに切り揃えられたキュウリの上に並べられ、美味しそうな手作りごまだれがかかっている。そこへ糸唐辛子がぱらぱらとアクセントとして添えられている。付け合わせの人参のナムルがあり、お吸い物まであるのだ。
毎回、手が込んでいる。色鮮やかなところが、美味しさを演出している。料理をどこかで習ったことがあるのだろうか? 自分の夕食とは比べ物にならなかった。蓮さんは、私の夕食も写真で送って欲しいと伝えてきたのだが、幻滅されそうだったので断っていた。
そして時折、朝のメッセージで「子供食堂に行って来ます」と送られてきた。そういう日の夜には、笑顔の子供たちと夕食を食べている蓮さんの写真が添えられていた。蓮さんは、目鼻立ちが整っていて、少し日に焼けていた。そのはにかんだ笑顔から、人の良さが伝わってきた。
子供食堂とどんな関係があるのか尋ねたことがある。自分も小さい頃に苦労をしたことがあるので「寄付をしている」のだという。子供食堂には、食事に困っている子供たちが集まってくる。その子供たちのために寄付をしているという人に初めて出会った。まだ、ネットでしか交流していないのに、自分の気持ちが蓮さんに傾いていくのが分かった。
職場で仕事をしている時にも、自分が無意識に笑顔になっているのに気付く。以前はいつも眉間にしわを寄せて、何かに挑んでいた。それは、発行部数だったのかもれず、編集長に対してだったのかもしれない。今は、自然体で仕事に臨むことができている。フラワーアレンジメントを始めたからなのか、蓮さんとの交流が始まったからなのか分からなかった。
いつしか彼に会ってみたいと思うようになっていた。蓮さんから「会いませんか?」と誘われたなら、きっと迷わずに会ってしまうだろう。でも言い出す勇気は持ち合わせていなかった。いつかそんな日が来たらと待ち望んでいる自分に気付いた。
尚、この物語は「詐欺行為」を肯定するものではありません。
