【小説】「騙される快楽」第六話・エピローグ
第六話[最終話]
蓮さんから連絡が途絶えて一か月が経つ頃、私は休職願いを出した。退職する決意も固めていた。体重はみるみるうちに減り続け、スエットパンツのウエストは見たことがないほど緩かった。鏡を見るのが嫌になるくらい生気のない表情は、まるで自分ではないみたいだ。
日中はベッドから起き上がることができず、夜になるとようやく部屋の中を動いて食料を口にした。
「莉子さん、差し入れ持って来たわよ」
インターホン越しに聞こえる懐かしい声は溝口さんだった。仕事帰りに、調理なしで食べられる食料を届けてくれたのだ。いつもと変わらない溝口さんの表情や声に触れると体の底から安心を感じることができた。玄関での立ち話中、私を気遣って座るように勧めてくれる彼女の優しさに、つい涙が頬を伝った。
「やだ私、最近、涙もろくて」
「木村さん、そのくらいの方がいいですよ。女子力アップです」
「もう、溝口さんたら! 女子力なんて一ミリもないわよ」
私は思いがけず笑った。
「溝口さん、またお礼させてくださいね」
彼女は微笑んで、苺味のドロップスを私の掌に乗せた。
「また来ます!」
後ろ姿がエレベーターホールへ見えなくなるまで手を振った。
蓮さんからの連絡が途絶えて三ヶ月が経つ頃、見知らぬアドレスから一通のメールが届いた。
莉子さん お元気ですか? 蓮です。
僕は今、会社の大きな損失を埋めるため海外で重要な仕事を任されています。あの日、夜逃げ同然に社長と一緒にフィリピンに渡りました。莉子さんに連絡もできずごめん。
もうひとつ謝らないといけない。
僕はもう日本に戻ることができない。会社と共に生きるよう言われた。僕は社長に恩があるね。莉子さん、幸せになってください。
君の夕食アイズは遠くから見ています。最近、夕食の写真がアップされていないようだけどちゃんと食べてる? バランス良く栄養を取るんだよ。
親愛を込めて 蓮
一緒に過ごした僅かニヶ月の間に、彼は特別な人になっていた。蓮さんが会社の損失を埋めるために日本を離れていたと知った私は、無事であることに安堵した。裏切られて許せない気持ちと、哀しい気持ちが交錯していた私に、「仕方がない」という気持ちが芽生えた。蓮さんが一番困っているに違いないのだから。彼からの一通のメールが「生きる意味」を私に与えた。
自分の居場所なんて、もうないかもしれない。三か月ぶりの出社は、誰とも顔を合わせずに部署まで辿り着きたかった。うつむき加減に廊下の端を歩いていると背後から懐かしい声が聞こえた。それが誰の声なのか、細胞が記憶していた。
「『老後に住みたい場所ランキング』は、莉子さんが復帰した時のためにそのままにしてありますよ」
霧島編集長の言葉に、我慢していた涙がこぼれそうになった。ハンカチで目頭を押さえても止まらない涙に戸惑った。気の毒に見えるのだろうか? 編集長が私の背中を優しくさすった。大きな掌から「昔、愛した人」のぬくもりが伝わってきた。
「君が仕事に生きる覚悟だったから僕達は別れたんだ。しっかりしてくれよ」
初耳だった。耳元で聞こえる彼の声は、その当時の記憶を蘇らせた。はっとして、霧島君を見つめると、優しい眼差しを返してきた。
「莉子ちゃんはね、仕事に気を取られ過ぎていつも肝心なことを逃すんだよな」
走馬灯のように次々にあの頃の記憶が蘇ってきた。気分転換にと計画してくれた旅行を断ってから、彼がよそよそしくなったことを思い出した。あの頃の霧島君はなんだか淋しそうだった。胸の奥に痛みを感じた。
「がんばれよ!」
編集長の顔に戻った彼は、颯爽と編集長室の方へと歩いて行った。彼の小さくなっていく後ろ姿を見ながら確信した。あの頃、確かに二人の間に「愛情」があって、それは「情」に変わり今も密やかに横たわっているのだと。
「木村さん、大丈夫ですか? 復帰できて良かったです」
溝口さんはそう言いながら、みかんの実に似せたオレンジ色のソフトキャンディーを掌に乗せてくれた。一口食べると、まるで柑橘果汁のような甘酸っぱい味が広がり、微炭酸がシュワっと舌に残る。
「溝口さん、お見舞いありがとうございます。御迷惑をおかけして申し訳なかったです」
私は用意した快気祝いを手渡した。仕事上交流のあった工藤君が他部署から私の顔を覗きに来ていた。
「オンライン取引のことなら、今度は僕に相談してくださいよ」
「ありがとう。是非、お願いします」
快気祝いを手渡す握手に、力がこもった。
この日は、久しぶりの出社だったにも関わらず仕事が捗った。「老後に住みたい場所ランキング」について、以前取材したことを手早く記事にまとめ、提出できる形に修正した。なんとか次号に間に合い、三ヶ月ほど遅れて雑誌に掲載することができた。
「夕食アイズ」を始めてから2年の月日が流れる間に、私は少しずつ変わっていった。
「木村さん、先月号の新企画も絶好調ですね」
溝口さんの言葉に顔がほころぶ。
「ありがとう」
「あの記事を見て長期休暇の行き先に予約したって反響が多かったですよ」
古くからの温泉地に出来た新しいリゾートホテルのおかげで、地域が活性化している。霧島編集長も褒めていたと聞き、一気に嬉しさが加速した。
「実は私もあのホテルを予約したのよ。親友とお子さんの三人で旅行するの」
「あら、素敵です」
独り身の私を案じていた彼女は、安心したように笑顔を浮かべた。
「溝口さんは?」
「うちは箱根の宿あたりを予約したいと思ってるんですよ」
溝口さんが、珍しいグミを私の掌に乗せた。水色の星形をしたグミにカラフルな飾りが付いている。お子さんの成長に合わせて、職場で配るお菓子も変わるのらしい。口に入れると、ソーダ味がぷちぷちと弾けた。
「ウーマンズアイ」オンライン版で夕食投稿を始めてから、新しい購読者層が広がり、雑誌の売れ行きが少しずつではあるが着実に伸びている。喪失感に塞いでいた私も、蓮さんからのメールがきっかけで仕事に復帰することができた。今も、蓮さんを心の中に住まわせたまま仕事に精を出し、数本の新しい企画も順調に軌道に乗せることができた。
もう会えないけれど、彼が未だに私を励ましてくれているのだ。時々、私の上げた「夕食アイズ」に蓮さんと思われる「イイネ」が付く。それは私の誕生日だったり、雑誌創刊記念日だったりする。彼が社運を掛けてがんばっているのなら、私もそれに恥ずかしくない生き方をしたい。
今の私は、老後に対する心配も、独り身でいることの寂しさも消し去ることができた。今を充実させることに注力しながら、資産運用を活用して老後にも備え始めている。
「莉子ちゃん、つみきで遊ぼう」
私の顔を覗き込んできた。
「そうね、仁君。おうちを作ってみましょうか?」
今日は午後から仕事をお休みして、親友の子供を預かっている。フラワーアレンジメント教室で一緒になった松井さんのお子さんだ。仁君は、時折見せるふとした表情がとても柔らかで、私を癒やしてくれる。
彼女は出産したものの旦那さんが突然消息不明となり、シングルマザーとして厳しい環境の中で子育てをしている。彼女が忙しい時に、時々お子さんを預かることも私の楽しみのひとつになっている。親しくなってもこちらの領域に踏み込まず、ちょうど良い距離感で付き合うことのできる唯一の人だ。
「木村さん、ただいま! 子供を預かっていただいてありがとうございます」
松井さんが息を弾ませている。きっと少しでも早く「預かり」を終えようと階段を走って来たのだろう。
「仁君と今日はたくさんつみきで遊んだのよ。どんな物を作ったか、後でお母さんに教えてあげてね」
「はーい! 莉子ちゃん」
「そうだ、今度の旅行費用を今、お渡しします」
松井さんは予め封筒に入れた旅行代を差し出した。
「ありがとう! でもこれは仁君のために使ってあげて」
松井さんはおずおずとしながらも、改まってお礼を述べ、封筒を受け取った。旅行費用を受け取ることを拒んだのは、その分、仁君の将来のために使って欲しいからだ。
明日は「ウーマンズアイ」の発刊日。今月号は「資産運用」を特集記事にしている。老後に備える一助となるよう、一人でも多くの人に読んでもらえたらと願う。
エピローグ
この世に存在する人間は二種類である。一つは騙す人。もう一つは騙される人。
「松井 国良さん、当社の最終選考に残りました。あとは簡単な調査をして採用か不採用か判断させて頂きます」
「よろしくお願いします」
僕は電話口で深々とお辞儀をした。一体何の調査をするのだろう? 身辺調査だったとしても、僕自身、何もやましいことはしていない。だが、一週間経っても、二週間経っても「採用」の連絡は来なかった。
何度採用試験を受けても、「採用通知」は一度も来なかった。最終選考まで残った会社があったにも関わらず。
望まれない子供だった。アメリカ軍基地のある土地で、それは時々起こる女性にとっては耐えがたい事件が元で誕生した。その十代女性は、アメリカ国籍の軍人に無理矢理に関係を持たれ、親に打ち明けることもできず、気付いた時にはもう堕胎できる期間を過ぎていたというのだ。襲ったアメリカ国籍の軍人が僕の父親で、十代女性が母親ということになる。そんな望まれない子供に産まれた僕は、出産した産院から即、施設に入れられた。
僕の名付け親は市長だ。施設にやって来た赤ちゃんは、そういうものらしい。だから、誰が父親か、母親か知る必要がないんだ。誰も僕を愛してはいないから「より良く生きよう」とする必要もなかった。それなのに僕の名前は重たい足かせにしかならなかった。国良という名前には、市長の身勝手な期待が込められていて、全く好きになれなかった。
学校に入学すると、僕の身の上について噂話がささやかれた。参観会の日なんかは最悪で、「あの年の、あの事件ね? お子さん生まれていたのね」
囁き声があちこちから聞こえて、僕は耳を塞いだ。僕が起こした事件ではない。僕は被害者だというのに、冷たい目に晒された。
この世の中に信頼できる人なんて誰一人としていなかった。そんなことは生まれつきだったから悲しくなんてなかった。でも困ったことに、就職活動がうまくいかない。就職しようと思っても僕の経歴を知ると、どの会社も不採用通知を送ってくる。面談や最終選考まではいい感じに進むのに、最後の身上調査のようなものでひっかかるのらしい。それでも僕は、自活していかなくてはならなかった。それが僕が騙す人になった理由だ。
こうして、子供時代から培った「嘘を語る力」で人生を切り開いてきたんだ。小学生時代に、何気ない会話の中で家の話や両親の話になった場合、僕が正直に「施設で育ったんだ」と伝えたら、途端に友達は返事に窮してしまう。だから、本当のことを語るばかりが良いことではないと学んだんだ。相手を楽しませる会話ができた時だけ、僕の自己肯定感は上がっていった。それは、僕なりの相手への配慮の証でもあったんだ。
それを今さら「詐欺師扱い」しないで欲しい。僕の気持ちがわかるかい? 僕が唯一、誰かを喜ばせたり、楽しませたりできる手段が「作り話」なのだ。世間ではそれを「詐欺」と呼ぶらしい。だがね、お金の亡者になっている他の「詐欺師」と一緒にされると釈然としないのだよ。
僕には、相手の言葉からどんな状況にあるのかを洞察する力がある。これは、幼い頃から人の顔色を窺いながら生きてきたことによる副産物なのだ。僕の言葉の加減によって、相手の感情がどう変化していくのか流れを見通す力が身に付いている。
この力のおかげで、就職ができない僕でも結婚することができた。妻は、僕の話を全て信頼してくれていた。僕には離婚歴もなければ、中学生の娘などいない。小さな雑貨屋を、彼女と一緒にオープンしたところまでは良かったのだ。だが子供が成長するに従って、新たな問題が生じることになる。
親に愛されたことのなかった僕にも、自分の子供が誕生すると「愛情」というものが自然に芽生えてきた。
それ故に、我が子が将来「詐欺師の息子」なんて呼ばれたら、僕は自分が許せなくなるだろう。物心が付いた仁を、失望させたくなかった。僕みたいな父親はいない方がましなのだ。その代わり妻には「子育てを相談できる人」を用意した。
僕がなぜ騙す人として生きているのかおわかり頂けただろうか?
「完璧な人生を送ろう」と「より良く生きよう」としてきた人のSNSは見たらすぐに分かる。自己承認欲求で満ちているから。その気持ちを丁寧に満たしてあげることで、僕に報酬として見合ったお金が入ってくる仕組みなのだ。きっと誰にも理解はされない。でも僕が「人を騙すこと」で喜ぶ人がいることは御理解いただけただろうか? それこそが「騙される快楽」なのだ。今も僕からのメッセージを待ち詫びている複数の女性がいる。そして僕には複数の顔があり、名前がある。
次はあなたの心を盗みに伺います。「騙される快楽」を味わっていただきましょう。僕にとってそれは、社会に唯一還元できるサービスであり、自己有用感を満たすための「騙す快楽」でもあるのです。(了)
尚、この物語は「詐欺行為」を肯定するものではありません。
感想をお寄せ頂けたら幸いです。
