【掌編小説】地味なスーツの男 〈前編〉
「小さい頃の思い出」
芳美がふと顔を上げると、壁の前に立っていた地味な灰色のスーツ姿の男が消えた。すっと壁の向こうに吸い込まれていったように見えた。
父親の看病で病院に寝泊まりをしていた芳美は、幻覚を見たのだろうか。集中治療室の前の長椅子に腰掛けていると、不思議な感覚に襲われる。
うたた寝をしていた時に見た夢は、芳美が幼い頃、父親と一緒に出かけたキャンプだった。キャンプ場に出掛けた頃は、まだ母親も元気だった。
「芳美、ママが見えるところにいてちょうだい」
「はい、わかったわ」
いい返事をしたものの、芳美は好奇心につられていつしか山の中に分け入ってしまったのだ。
「ちょっとだけなら、大丈夫よね?」
芳美は自分に言い聞かせるようにして、蝉取り網を握ったまま、一歩ずつ進んでいくと、草木の背丈はみるみる間に高くなり、やがて頭上を覆った。
あの時、足を滑らせて川に落ちたのだ。道端から見ていたよりも、はるかに深く、芳美の身体は深緑色の水の中へとずんずん落ちていった。もう息ができない──そう思った瞬間、目の前に男が現れた。確か、その男は灰色のスーツに身を包んでいた。水の中なのにはっきり男の声が聞こえたのだ。
「芳美さん、あなたの持ちうる全ての運を差し出しますか? 全てと引き換えるなら助かります。どうします?」
男は不敵な笑みを浮かべた。水の中に居た芳美は、その冷たさに心臓まで凍りつきそうだった。
「私は、もう一度、ママとパパに会いたいの」
泣きながら答えたつもりだったが、水の中だからうまくは喋れなかった。口を開けた瞬間、一気に水が流れ込み、言葉は泡に変わった。芳美は、慌てて口を固く閉じた。
男は、もう一度冷たい笑みを浮かべると、静かに背を向けた。
「いいですよ。望み通りあなたの父親と母親に会わせてあげましょう」
おもむろに、男は右手の親指と中指を立てて、「バチン」と音を鳴らした。その音は、水中に響き渡った。
気を失った芳美が、次に目を開けた時、彼女の顔をパパとママが心配そうに覗き込んでいた。
「良かった、芳美」
灰色のスーツ姿の男が、道端で倒れていたところを抱きかかえて連れてきてくれたのだという。父は、その男のことを「命の恩人」だと言っていた。
「芳美ちゃんの服がずぶ濡れだったの」
母がつぶやいた。
やはり、あの灰色のスーツの男は存在していた。
