「小説を書くこと」と「彫刻すること」の類似点に思いを馳せた話 note4周年
アントニオ・ガウディが設計した「サグラダ・ファミリア教会」の建設に、日本人として深く関わられている彫刻家・外尾悦郎さんの特集番組を見ていた時、或る言葉にはっとしました。同じ言葉を「上致知出版社WEB版の記事」に見付けたので御紹介させていただきます。
ガウディを見ていたのでは答えは出ない。ガウディが見ている方向を見て、彼のやりたかったことは何だったのかということを、もう毎日、毎時、毎分、毎秒考えている。そのためには彼と同じだけの知識、というのは不可能ですが、それに近い最低限の知識を持ち、ガウディの立っていた所に立つ。それが仕事の基本姿勢ですね。
「なぜサグラダ・ファミリアは、
日本人の外尾悦郎に石を彫らせるのか」
この言葉が、私の中で静かにある言葉とつながったのです。
住野よる先生から頂いたアドバイスとピタリと符号するではないですか。上記の外尾さんの言葉を小説に置き換えてみると……
「登場人物を外から見ていたのでは物語は書けない。登場人物の側に立って、その人物の思いや行動を考える」
住野よる先生への質問
作品ごとに、地の文章を巧みに書き分けていらっしゃいますが、どのように登場人物の地の文章を書き分けていらっしゃるのでしょう?
質問に対するコメント欄にて住野よる先生から頂いた言葉
❶「なりきって書いてください」
その後、追加の言葉を頂きました。
❷「できるだけ深く潜った方がいいです」
視点のことをおっしゃっていたわけですね。
「なりきる」と見えてくるもの
それは、書き手から見た視点ではなく
登場人物の側から見えてくる視点……。
***
短い言葉故に、その時々で自分の解釈が変化していくように思います。
「書き手として外側から見ていたのでは書けないよ」と聴こえてきます。
それは、そういえばいつも教師としてやっていることと同じ類いのものだと符号しました。その子の立場に立って、その行動や言葉のもつ意味を常に考えたりしています……。
書いているあたりで実感できました。
勿論、ストーリーの構成や、伏線の散りばめ方等、様々な事柄の組み合わせではあるのですが、あるところまでいったら登場人物が勝手に動き出すということは大切だろうと感じています。
自分とは違う生命体だけれど、書き終えた時にその人物との間柄が終わる寂しさが残ることがあります。そんな書き方ができた時、「書けた」と思えるのかもしれません。
【4周年を迎えて】
余白のある表現で、言葉の向こう側に潜むものまで届けられるように……。 書きすぎず、削りすぎず―― その言葉が、あるいは文章が、読む人によって解釈が異なったり、または読むたびに 解釈を迷ってしまうようなラストを書いてみたい―― そんな思いを抱きながら、これからも文章を磨いていけたらと思っています。 今後も、静かに書いて参りたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。
物語を書いているとき
主人公の未来は
霧の中だったりすることもあるけれど
物語が進む限り
書き手も共に歩んでいる
【noteで見付けた外尾悦郎さんについての記事】
noteの記事で外尾悦郎さんに取材を依頼してから実現するまでの記事を見付けました。外尾さんの魅力も満載ですが、取材陣の「ドキュメンタリーとは、目に見えないものを撮ること」という心意気も素敵だと思いました。
住野よる先生は今年「10周年」
続々と10周年記念イベントが行われています。

例年はお世話になった方々の記事を御紹介するところですが、今回は拙記事のみですいません。note1年目の記事を振り返ってみたいと思います。
【note1年目の頃の記事です】
1番最初は子育て日記を20日間書きました。
月が好きで、よく題材に選んでいるのはこの頃からのようです。
紫陽花もスキなんです。
初期の子育て記事
創作再開の作品 noteを始める前に、詩を一度公募したことがあります。
月のように照らすものに惹かれます


お訪ねくださって、ありがとうございます💐
