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第二章|なぜ「利き手」は疑問を強めるのか

耳の違和感は、
まだ逃げ道があった。

👉 角度かもしれない
👉 光かもしれない
👉 成長かもしれない

しかし、利き手は違う。

動きだからだ。

粘土町かわら版 2026.4.10


人は無意識に覚えている。

👉 どちらの手で持つか
👉 どちらの手で書くか

これは
その人の癖として残る。

だからこそ
変わって見えたとき
一度では済まない。

実際に

👉 左手で使っているように見える場面
👉 右手で使っているように見える場面

両方が指摘されるようになる。

ここで、ひとつの説明が出る。

「左利きだが、右で書く」

一見すると
筋が通っているように見える。

しかし
すべての場面を説明できるわけではない。

ここで起きるのは
説明があるのに、納得しきれない状態。

耳のときは
見え方の問題として処理できた。

しかし利き手は
記憶と結びつく。

「いつもこうしていたはずだ」という感覚

それが崩れたとき
違和感は消えない。

そして、もう一つ重要な点がある。

この違和感は単独ではない。

耳で引っかかり
利き手でも引っかかる。

同じ流れの中で現れている。

つまり
ひとつの問題ではない。


積み重なった違和感の中のひとつ

ここで問いが変わる。

「右か左か」ではない。

「なぜ一貫して見えないのか」


そしてもう一歩踏み込むと

「なぜ一貫性を説明しきれないのか」


説明はある。
しかし足りない、

整合しているようで、しきれていない。

この状態は
違和感を消さない。

むしろ残してしまう。

ここまで来ると国民の中で
小さな変化が起きる。

「気のせいかもしれない」から
「説明が足りないのではないか」へ。

そしてこの違和感は
ここで止まらない。

さらに別の場所でも現れる。

同じように
繰り返される。


手ってのはな、癖が出るもんでさ。
一回ならともかく、
何度も違えば、そりゃ引っかかる。


(かわら版屋もぐぞう)


※本稿は、YouTubeで公開した違和感を、あらためて言葉として残したものです。
👉 映像とあわせてご覧いただくと、より立体的に見えてきます。


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