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お国言葉が消えようとしている?──「標準語」の歴史的からくりと、翻訳できない“心の宝”

「訛りは国の手形」とは昔からよく言われる。

本来なら自身の育った土地を示す誇らしい証であるはずなのに、それを気恥ずかしく思う人も少なからずいる。

もっとも、私の出身である関西人だけはどこへ行っても関西弁を隠そうとしないのだが(ガッハッハ😛)

​私たちは普段、何気なく「標準語」を正解とし、方言をその周辺にある「崩れた言葉」のように扱いがちだ。(「訛る」という言葉自体失礼な話である)

私たちがありがたがって使っている標準語とは、一体どこから生まれたものなのだろうか。

少し歴史を紐解いてみると、そこには意外なからくりが見えてくる。


​「訛りは国の手形」──なぜ人々は言葉を隠し、関西人は隠さないのか

​地方から都市部へ出てきた人々が故郷の言葉を隠そうとする背景には、明治以降の近代化運動や、高度経済成長期の集団就職などに起因する歴史的なコンプレックスが存在する。

かつての日本では、公の場やビジネスにおいて方言を話すことが「不便」あるいは「洗練されていない」と見なされる風潮が少なからず存在した。

​一方で、大阪をはじめとする関西圏の人々がどこへ行っても関西弁を崩さないのはなぜか。

それは「天下の台所」として独自の経済や文化を牽引してきた歴史的自負があることに加え、昭和以降の演芸やお笑い文化を通じて、関西弁がメディアの共通語の一つとして全国に広く浸透したからにほかならない。

関西弁は隠すべき地方語ではなく、親しみやすさを生む発信力のある言葉として認識されたのだ。

​まあ、「訛り」にしろ「イントネーションの違い」にしろ、標準語とは異なる地元特有の言葉遣いを卑下する必要はどこにもないのは当たり前である。

​私たちが信じる「標準語」の意外な成り立ち

​そもそも、私たちが日常的に使っている標準語とはどのような言葉なのだろうか。

「明治維新を成し遂げた薩摩や長州の方言がベースになったのでは」との都市伝説がないわけではないが、もちろんこれは間違いである。

​当時の薩摩弁などは他地域の人々にとって解読が極めて難しく、国を一つにまとめる共通語としては不向きだった。

そこで政府が規範として選んだのは、江戸時代から出版物などで一定の共通性を持っていた「東京山手の中流階級以上が話す言葉」であった。

​しかし、そこに薩長主導の官僚や軍隊の文化が混ざり込んだ。

公文書や軍隊で多用された「〜であります」といった硬い言い回しは、長州などの武士言葉や役所用語が取り込まれた結果生み出されたものだと言われている。

つまり、現代の標準語は自然発生的に生まれたわけではなく、国としての統治や教育、効率的な情報伝達のために人工的に整えられた「行政のインフラ」という側面を強く持っている。

​意味を伝える標準語、感情を伝える「お国言葉」

​国としてのまとまりや、広域での論理的なコミュニケーションにおいて、標準語が必要不可欠な道具であったことは疑いようがない。

標準語は事柄の「意味や輪郭」を正確かつ客観的に伝えることに長けている。

​だが、人間の心の底にある生の感情を伝えるとなると、話は別だ。

​幼少期から身近な人々との温かな交流の中で育まれたお国言葉には、単なる記号を超えた「感情の温度や手触り」が宿っている。

普段、標準語を喋っている人でも、感情的になって怒ったりするときに、思わずお国言葉が出てくるのはそのせいだ。

標準語の「寂しい」という一言よりも、故郷の言葉で語られる一言のほうが、胸に迫る切なさやぬくもりをダイレクトに響かせる力がある。

​お国言葉は、決して標準語に劣る「訛り」などではなく、その土地の風土や先人の暮らしの記憶が凝縮された宝物なのである。

​言語は文化そのもの──翻訳の限界と世界へ渡る「そのままの言葉」

​ことほどさように、言葉が特定の文化や感覚と分かち難く結びついているからこそ、異なる言語へ変換する「翻訳」にはどうしても限界が生じる。

言語学や哲学では、これを「翻訳不可能性」と呼ぶ。

たとえば、日本語の「いただきます」や「木漏れ日」という言葉を英語に直そうとすると、一語や一文では収まらず、長々とした説明文になってしまう。

言葉の背後にある自然への敬意や繊細な感性といった文脈までを直訳することは不可能だからだ。

​興味深いことに、現代では無理に翻訳するのを諦め、概念そのものを世界へ届ける動きが広まっている。

​ノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイ氏が紹介して世界語となった「Mottainai(もったいない)」はその筆頭だ。

英語の Wasteful(無駄な)では表現しきれない、対象への敬意や感謝を含んだ思想が、たった一つの言葉としてそのまま国際社会に受け入れられた。

他にも、本を買い集めては読まずに積んでおくことを表す「Tsundoku(積ん読)」や、割れた陶器を漆と金で美しく修復する「Kintsugi(金継ぎ)」なども、そのままの音で海外へ定着している。

言葉を直訳せずそのまま受け入れるという行為は、その背景にある文化そのものを尊重する姿勢の表れと言えるだろう。

​自分の言葉に誇りを持って生きていく

​標準語という便利なツールを使って多くの人とつながり、効率的に情報をやり取りすることは現代社会において大切だ。

しかし、それと引き換えに自分のお国言葉を捨て去る必要はどこにもない。

​効率と正確さを求める場では標準語を使い、心を通わせたい場面や自分らしさを表現したい場面ではお国言葉を使う。

そのような「二つの言葉」を使い分けられることこそ、多様で心豊かな人生の証ではないだろうか。

​隠す必要など、最初からなかったのだ。

標準語という統一規格のキャンバスの上に、色鮮やかな全国のお国言葉が散りばめられていてこそ、私たちの日本語は深く、美しく輝くのである。🐾