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エビデンスを創ってきた疫学研究者が氣の話を始めた理由


歯の抜けた煙草プカプカおじいちゃんの謎

沖縄に遊びに行った時、ヘビースモーカーで、ヒョロヒョロで、歯抜けで、お酒が大好きなおじいちゃんに出会った。見るからに不健康そうな生活をしているのに、80歳を超えて元気にHappyに暮らしていらっしゃる。疫学的なデータから見れば、肺がん、肝臓がん、食道がん、高血圧、心筋梗塞、脳梗塞、骨粗鬆症など、ひととおりのリスクが高い人だ。

一方で、こんな方もいる。中肉中背の60代女性。人一倍健康に気をつけている。食事は無添加・発酵食品、野菜中心のバランスが取れた和食を好み、散歩をしたり、運動も適度に行っていた。データ上、病気のリスクは低いはずだった。しかしその方は、癌を患い闘病生活をしている。

なんで?

もちろん、これは一例に過ぎないが、データでは説明できないことが「健康」に関して多い気がする。癌の末期で死にかけていた人が、医者にも説明できない回復をいきなり遂げる、という話もよく聞く。

逆もある。「これは効く」と信じて飲んだ偽薬で、本当に症状が良くなる。これはプラセボ効果としてよく知られている。でも、その反対もあるのだ。「副作用が出るかもしれません」と説明されただけで、本当にその副作用が現れる。悪いほうの予測が、そのとおりの反応を体に起こしてしまう。これはノセボ効果と呼ばれている[1]。

思い込みは、気のせいではない。ちゃんと体に届いてしまう。
人間のからだは、ほんとうに不思議だ。

「エビデンス」という集団のデータに魅せられた時期

大学卒業後、病院薬剤師になった。その後、ご縁があってアメリカに渡り、ハーバード公衆衛生大学院で疫学の修士号を、メリーランド大学薬学部大学院でヘルスサービスリサーチ(薬剤疫学)の博士号を取った。

大学時代、疫学という学問をまるで知らなかった。病院の情報室に勤務するようになって「コホート研究」という単語を覚えた。それが疫学への興味の始まりである。統計的なデータでいろいろ説明できることに興奮した。そして大学院でみっちり学ぶうちに、「数字で何でも説明できる!」とまで思った。原因と結果を追求して、因果関係を確率で示す。謎解きをしているみたいで面白いと思ったのだ。

疫学は、測れるものを扱う。年齢、血圧、喫煙本数、飲酒量など、数字にして可視化し、再現性を確かめ、結果をみんなと共有する。

では、満足度や感情といった主観的なものは扱えないのか。そんなことはない。むしろ私は、それを測る仕事を長くしてきた。アウトカムリサーチという領域で、患者さん本人の評価 ー 痛みのつらさ、生活の質、仕事への影響など、を尺度にして、統計的に扱う。心理学や精神医学では、こうした主観的な指標のほうがむしろ主役になる。

関節リウマチの患者さんについて調べたときのことだ。検査の数値の上で「寛解」と判定される人たちがいる。寛解というのは、数値上、症状が落ち着いていると判断される状態のことだ。それなのに、痛み、だるさ、気分の落ち込み、眠れなさ、仕事がはかどらないという訴えが、多くの人に残っていた。私たちは世界中の論文68本を集めて、それをシステマティックレビューという形でまとめた。数字の上では落ち着いているはずの人が、主観としてはつらいままだったのだ[2]。

私は、「検査値が正常だから、この人は元気だ」とは言えないことを、
データを使って示す側にいた。

ただ、測るというのは、標準化するということでもある。

「あなたの生活の満足度は、1から5でいくつですか」と聞けば、答えは数字になり、集計でき、群と群で比べられる。でもその「3」の中身は、人によってまるで違う。何を満足と呼び、何を我慢のうちに数えないか。その人固有の文脈は、選択肢に収まる形に切り出された時点で、こぼれ落ちてしまう。

そしてもうひとつ。薬の効果を検証するような研究では、性格や思考の癖といった要因は、たいてい主役になれない。調整すべき交絡因子として脇に置かれるか、そもそも測られない。

でも実は、こういう「目に見えない要因」の寄与こそが、とても大きいのではないか。

沖縄のおじいちゃんの謎も、おそらくここにあるのだろう。世の中の枠にとらわれず、クヨクヨ過度に悩まず、機嫌良く生きている人のからだは、数字上の不健康さを平気で裏切ってくる。

見えているものだけを見ていても、本当の解明にはつながらない。そう考えるようになった。

そして中医学(東洋医学)に出会った。全体観念、気血水、目に見えない生命エネルギー(氣)のバランスと調和。とても腑に落ちた。

学生時代、私は漢方を「エビデンスがない、怪しい、よくわからない薬」だと思っていた。西洋医学にどっぷりだったからだ。今ならわかる。東洋の叡智は、何千年も前からずっと続いている。これぞまさにエビデンスではないか。

エビデンスの正体は平均値や中央値

ここで、創る側にいた人間として書いておきたいことがある。

エビデンスは所詮、標準値に過ぎない。判断の基準にはなるが、万人に当てはまるものではない。平均的に効く薬が、私に効くとは限らない。平均の中に「私」がいないこともある。

さらに言えば、エビデンスを創るリサーチそのものにも構造的な限界がある。

1)さまざまなバイアスが入り込む。2)測るために標準化した時点で、その人固有の文脈はこぼれ落ちる。3)社会的なインパクトがない、あるいは研究資金がつかないテーマは、そもそも研究されない。

つまり「エビデンスがない」は「効かない」という意味だけではない。
「まだ誰も調べていない」「調べる人がいなかった」だけのことが、山ほどある。

伝承知は人類最長の追跡調査ではないか

一方で、中医学や昔からの慣わしはどうだろう。

西洋式のリサーチこそされていない。でも、何百年、何千年と使われ続けてきた。効かないものなら、とっくに淘汰されていたはずの長い時間を生き残って、今も伝わっている。

これは、人類最長の追跡調査ではないだろうか。

論文になったものだけがエビデンスではない。人間の歴史が蓄積してきたエビデンスにも、もっと目を向けていい。創る側にいた私は、本気でそう思っている。

念のため書いておくと、私は西洋医学を否定したいのではない。むしろ逆で、最近は気功・太極拳や鍼灸、呼吸法が西洋の方法で研究され、少しずつ解明されてきている。東洋の叡智が西洋の言葉で語られ始めている。それはとても嬉しいことだ。どちらかを選ぶ話ではない。両方大事にしたいのだ。

氣なんてさっぱりわからなかった

私はもともと「感じる」タイプの人間ではない。自分の感覚がよくわからない。氣と言われても何のことかさっぱり。感じられる人を「特別な人なんだな」と、遠くから眺めていた。

キネシオロジーや気功に出会い、変わったのは、氣を「微細なエネルギー」として捉え直して、意識を使いながら、感じようとし、反復練習したからだ。

意識を向けるトレーニングをすれば、氣感は育つ。特別な才能ではない。
これは理屈ではなく、私自身の実体験である。

外にばかり足していないか

そして気づいたことがある。

私たちは、外から何かを足すことばかりに目を向けすぎているのではないか。サプリ、薬、情報、サービス・・・、他力で溢れるこの世の中で、内に目を向けて、自分の治癒力を高め、自分と向き合って気づきを得るという選択肢が、あまりにも忘れられている。他力と自力のバランスが悪い。

自力と他力。内と外。左脳と右脳。どちらかではなく、どちらもバランスよく使えたときに、人の力はいちばん発揮される。西洋と東洋、両方の世界を歩いてきて、太極的な視点というものが肚落ちする(昔の人はえらい!)。

自分が自分の名医になる

結論はシンプルだ。

エビデンスは、うまく使うもの。信じ過ぎるものではない。最後に頼れるのは、自分の感覚をしっかり掴んだ自分自身である。

自分が自分の名医になる。

そのために必要なのは、特別な才能ではない。自分を観察して、記録して、パターンに気づくこと。実はこれ、疫学者が毎日やっていることと同じ手順なのだ。仮説検証があるとなお良い。

私はこれを「ひとりエビデンス」と呼んでいる。

自己紹介

「氣活ラボ」という名前で、心身のバランスを整える氣活コーチをしている。テーマは、働く人のコンディションと、無理なく続く働き方。
具体的には、氣(気功・太極拳)、習慣化と睡眠、そしてキネシオロジー(タッチフォーヘルスのインストラクター)にフォーカスしている。
データを取る仕事を20年してきた人間が、たどり着いた先が「体に聴く」というのは、自分でもちょっと面白いと思っている。西洋の科学と、東洋の叡智。人類の知恵をうまく活用し、ご機嫌さんで寿命を全うしたいと思う。



  1. Colloca L, Barsky AJ. Placebo and Nocebo Effects. N Engl J Med. 2020;382(6):554–561. doi:10.1056/NEJMra1907805 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/32023375/

  2. Ishida M, Kuroiwa Y, Yoshida E, Sato M, Krupa D, Henry N, Ikeda K, Kaneko Y. Residual symptoms and disease burden among patients with rheumatoid arthritis in remission or low disease activity: a systematic literature review. Modern Rheumatology. 2018;28(5):789–799. doi:10.1080/14397595.2017.1416940


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