#25 藤原道長は、なぜ“声”だけで救われたのか──平安貴族が恐れた、目に見えない力【奇譚拾遺異聞録】
人の声ひとつで、物の怪が退くことがある──平安の都で語られた、あまりに静かな怪異の記録。

藤原道長が病に倒れた。
数多の医師が呼ばれ、診察を行ったものの、いずれも首を横に振るばかりであった。病の原因は分からないという。人々は、この病は物の怪の仕業に違いないと噂した。
幾日も病の床に伏せた道長の顔色は、日に日に悪くなっていった。容体が回復する兆しは見えず、道長自身も次第に気弱になっていったという。
道長が政務に出られないため、朝廷の政治は滞りがちになった。これを案じたのが、藤原実資である。病中とはいえ、このままでは政に支障が出る。そう考えた実資は、見舞いを兼ねて、今後のことを相談すべく道長の邸を訪れることにした。
「実資がまいった!」
邸の門前で、実資は腹の底から声を張り上げた。その声は野太く、庭に植えられた木々が、かすかにざわめいたほどであった。

その声に目を覚ました道長は、「ふっ、実資か……」と弱々しく微笑み、近くに仕える者たちを呼んだ。身を起こしてもらうためである。
一方、門前で実資を迎えた家人たちは、彼を丁重に奥へと案内した。
実資が待合の部屋へ通された、そのときである。家人の耳に、どこからともなく、こんな声が聞こえてきた。
「賢人・実資の声が聞こえる。我は、この者と共にいることができぬ。退散する」
それは、地の底から這い上がってくるかのような、おぞましい声であった。家人は思わず身震いし、あたりを見回したが、そこには誰の姿もなかった。
人々は悟った。その声の主こそ、道長に取り憑いていた物の怪であろう、と。
その証しに、実資が見舞いに訪れて以降、道長の容体は目に見えて快方へ向かった。病は急に軽くなり、ほどなく床を離れるまでに回復したのである。
では、道長を苦しめていたものは、いったい何であったのか。
それは、今に至るまで分かっていない。
この話が伝えるのは、怪異の正体よりも、正しさと威厳をまとった者の存在が病や運命すら左右するという平安社会に通底する冷酷な権力の論理なのかもしれない。

「藤原道長の邪気が、藤原実資の前駆の声に退散した事」(『古事談』)より
※この物語は、上記出典をもとに筆者が脚色を加えたもの。画像は生成AIによる作画です。
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