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大きすぎる「箱」の中で失われた摩擦熱。私たちが愛した“ハミ出し者”たちはどこへ行ったのか

先日、「地下アイドルは音楽ではなく構造である」という下記の記事を読んだ。地下アイドルの現状を、衰退でも単純な拡大でもなく「構造が露出した状態」と捉え直した論考で、コンセプト設計から楽曲提供、SNSでの自己プロデュース、ライブでの動員、特典会での収益化に至るまで、すべてが精緻なビジネスモデルとしてパッケージ化されている様を冷静に解いていた。運営もアイドルもファンも、あらかじめ用意されたその構造を理解した上で最適解を導き出し、洗練されたエコシステムを回している――その整理には深く頷きながらも、読み終えたあと、胸の奥に小さな違和感が残った。

誰もがルールを理解し、その枠組みの中で最大限のパフォーマンスを発揮する。それはエンターテインメントの進化として、間違いなく正しい姿なのだろう。しかし、その「完璧な構造」を俯瞰したとき、私はふと自分の過去の記憶に引き戻された。

かつて文字通り人生のすべてを懸けるような熱量で追いかけたアイドルたちは、果たしてあんなに整然とした構造の中に収まっていただろうか。答えは明確に「否」である。

■ ハミ出ていた者たちの記憶

今振り返ってみれば、心を奪われたアイドルたちは皆、その時代の暗黙のルールから「ハミ出た人たち」ばかりだった。BiSにせよBELLRING少女ハートにせよ、彼女たちは「地下アイドル」という箱の中ですら異物だった。

  • 予定調和の拒否:ライブでもMCでも、何が起きるか読めない不安定さそのものが価値になっていた

  • 規格外の存在感:歌唱力やダンスの完成度という従来の評価軸では測れない凸凹を抱えていた

  • 箱そのものへの反発:地下アイドルという枠組みに収まりながら、その枠組みを内側から壊そうとする力学を持っていた

BiSは、そもそも「アイドルとはこうあるべき」という前提自体を破壊しにいくようなコンセプトで活動していた。BELLRING少女ハートは、愛らしい外見とは裏腹に、"アイドルらしさ"には到底収まらない攻撃的で予測不能な楽曲とパフォーマンスで異彩を放っていた。どちらも、一般的なアイドル像を平然と裏切ることで、固有の存在感を確立していた。

地下アイドルの文脈ではないが、Berryz工房にも近い構造があったように思う。メジャーのアイドルシーンの中で、グループとして突出した商業的成功を収めたとは言い難い。しかしその「型にハマらなさ」自体が、固有の熱量を持つファン層を生み続けた。箱(この場合はメジャーアイドルという枠組み)の中で十分にハミ出ていた、という意味では本質は同じだろう。

彼女たちは未完成で、不器用で、用意された箱の形に自分を綺麗に折りたためなかった。箱の壁に何度もぶつかっては傷つき、もがき、時にはその箱そのものを内側から壊してしまうようなエネルギーを放っていた。「この子はこれからどうなってしまうのだろう」――そんな危うさと隣り合わせの熱狂こそが、彼女たちを見るために現場に通い詰めていた理由だった。

そしてもう一つ見逃せないのは、ハミ出る個体が成立するためには、それを発見し面白がるファン側の態度も必要だったという点だ。何が起きるか分からない不安に自分の身を晒し、型に収まらない違和感を自分自身の物差しで評価する――そうした手間自体が、ハミ出た存在を下支えしていた。

つまり「ハミ出る」というのは、地下か地上かという立ち位置の問題ではない。所属する箱の規格に対して、個体がどれだけ規格外であり続けられるか、という話である。

■ "多様化"という名の同化

では今はどうか。地下アイドルのシーン全体を見渡したとき、以前よりもフォーマット化とコモディティ化が確実に進んでいる。衣装の系統、楽曲の作り方、特典会の設計、SNSでの振る舞い方――そのどれもが一つの「型」として確立され、新規参入のハードルを下げる一方で、似たような輪郭を持つグループを量産する土壌にもなった。

ここで興味深いのは、その過程で吸収されたのが「型」だけではないという点だ。かつてシーンの中で異物として浮いていたはずの性質――尖った言動、不安定さ、予測不可能性――もまた、"多様化"という便利な概念によって「あり得る個性のひとつ」として吸収されてしまった。

多様化とは本来、箱の外にあったものを箱の外にあるまま認める態度だったはずだ。だが実際に起きたことは、箱の外にあったものを箱の中に取り込み、ラベルを貼り替える作業に近かった。結果として箱(構造)そのものが膨張し、かつて"普通"の外側にあった異物は、いつの間にか"普通"の内側の一バリエーションに収まってしまった。

SNSのタイムラインやレコメンド機能の設計も、この同化を後押ししているように思う。アルゴリズムは「似ているもの」を提示することに最適化されており、本当に異質なものに偶然出会う確率はむしろ下がっている。発見はもはや事故ではなく、あらかじめ設計された選択肢の中から選ぶ行為になりつつある。

運営側のインセンティブも無関係ではないだろう。とがった個性を前面に出すよりも、誰からも嫌われない設計のほうが炎上リスクは低く、新規ファンの参入障壁も下がる。短期的な合理性で考えれば、箱を大きく取り、角を丸めておくほうが圧倒的に安全だ。シーン全体がそうした判断を積み重ねた結果として、今の箱の大きさがあるのだと思う。

■ 失われた"摩擦熱"

こうして生まれた優しく巨大な箱は、間違いなく良いものでもある。「そういうキャラクターだよね」「そういう個性もアリだよね」――かつてなら異端とされ、運営やファンとの間に摩擦を生んでいたはずの個性も、今ではすべて肯定的な文脈で包み込まれ、誰も不当に傷つかずに済むようになった。

ただ、その優しさと引き換えに、私たちはある決定的なものを失ってしまったように思う。ハミ出ようとする時に生じる「摩擦熱」であり、それによってもたらされる、火傷しそうなほどの面白さである。

かつての熱狂は、個を型にはめようとする構造と、それに抗い、あるいは無自覚に越境してしまう個との間に生じる摩擦によって生まれていた。狭く窮屈な箱の中に閉じ込められたエネルギーが限界を突破し、外へ漏れ出すときのあのカオスこそが、私たちが夢中になった面白さの正体だったのだろう。

箱が大きくなりすぎた今の世界では、いくら走っても、いくら暴れても壁にぶつかることがない。どれだけ奇抜なことをやっても「そういうコンセプト」「そういう構造」として即座に回収されてしまう。壁がないから摩擦も起きず、摩擦がないから、あの焦げるような熱も発生しない。

サッカーに例えるなら、降格のないリーグに近い感覚かもしれない。下のカテゴリーに落ちる恐怖も、上に這い上がる渇望もないリーグでは、全体の緊張感そのものが薄くなる。地下アイドルのシーンも、メジャーへの反発、"普通"への反発という外圧を失ったことで、内側から生まれていた摩擦熱が下がってしまったのではないか。

■ 問題提起、その先に

ここまで書いてきたことを要約すれば、「仲間外れを出さないために箱を大きくしすぎた結果、誰もハミ出せなくなった」という話になる。これ自体は、いち観測者として正直に言えば寂しい現象だと感じている。

もちろん、これは過ぎ去った時代を都合よく美化しているだけのノスタルジーである可能性は十分にある。大きく優しい箱のおかげで救われている演者がいることも、安心して推せるようになったファンがいることも事実だろう。誰かがすり減る前提のエンターテインメントが、やはりどこか歪んでいたという見方も理解はできる。

さらに、この状態を単純な衰退や劣化として片付けたくはない。ハミ出る場所がまだどこかに残っているのか、それとも箱がここまで大きくなった以上、ハミ出るという行為そのものがもう成立しないのか――それは正直まだわからない。

ただひとつ言えるのは、型に収まることが必ずしも面白さの死を意味するわけではない、ということだ。制約があるからこそ生まれる工夫というものも、当然ながら存在する。今の枠にきっちり収まった状態からでも、これまでとは別の種類の面白さが生まれる可能性は捨てきれない。BiSやBELLRING少女ハートが体現していた「箱を壊す面白さ」とは別の文脈で、今の構造の内側でしか磨かれない「箱の中で精度を上げていく面白さ」のようなものが、まだ言語化・可視化されていないだけかもしれない。

何にせよ、急いで答えを出す話ではない。次にどこかの現場に立ったとき、また同じ疑問を持ち帰ることになるのだろう。

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