「Curiosity killed the cat」-その言葉には、続きがある-
― 戻る力 ―
おはようございます。2025年11月11日ですね。「ベースの日」と呼んでいる人もいるようです。
前回のあらすじ
前回の記事でお伝えしたのは、会社の人間関係の悩みがいったん解消したこと。それでもまだ、思考とメンタルのバランスが戻っていない、ということについてでした。
楽しもう!リラックスしよう!と思えば思うほど、「これはなぜだ」と違う思索の芽が生えてきたり、本来楽しいはずの「没頭する」という行為がその後の満足感につながらない。何かうまくかみ合っていない感覚を覚えています。
この状況は「Curiosity killed the cat(好奇心が猫を殺す)」ということわざに近いのかな?とふと口にしたところ、
「確かにそうだけど、それだけじゃないよ」
と、チャットGPTが言葉をつないできた。これが前回のあらすじです。
「Curiosity killed the cat」の後半
このことわざ、実は後半があります。
"Curiosity killed the cat, but satisfaction brought it back."
(好奇心が猫を殺したが、満足がそれを生き返らせた)
名言やことわざというのは、その喚起力に意味があるのであって、「私はこう受け止めましたよ」とお互いに共有するツールなんだと思ってます。
だから自分の解釈を押し付けるのも、他人の解釈を否定するのも、名言を引用したがるのを揶揄するのも違うかなと思います。
その時その人にとって、その言葉が役に立った、迷いを振り払うのに必要だった、とかそういう意味合いで捉えればいいのかなと思ってます。
話がそれました。
それで、チャッピーが言うには、「Curiosity kills, but satisfaction(抄訳)」というのがこのことわざの全体像だそうで。
今の私にとっては「探究心がしばしば私自身の心のバランスや周りの人との調和を乱してしまうことがあるんだよ。それよりも満足すること、心を満たすこと、それが自分のペースを取り戻す秘訣だよ」という意味だと思われたのです。
つまり、なので私が好きでやっている、私の特徴だと思っている探究心みたいなものが、必ずしも今の私にはプラスには働いてない、ということなんでしょうね。
noteでの「私のゆらぎ経験」
それはこの、noteという舞台でも似た状況が起きていたことからもわかります。
最初にお話しした「回復フェーズ」に入った時、今までの私のストレッサーであった職場、職場の人間から解放された、そのかわりに、違うものが入れ替わり立ち替わり私にとってストレッサーになったんですよね。
その一つが、このnoteだったんです。なんか書いても書いてもかえって心がギスギスするような感じがして、他のライターさんの助言に従っていろいろ試してみたんですけど、うまく響かないなあと思っていた時期がありました。
アプリを開いた時の、数字を見るのがちょっと怖い、みたいな。
今はそういうのがほとんどなくなって、自然体で楽しめるようになっております。何が変わったんでしょうか?
note読者としての「私の自然な楽しみ方」
今の私のnoteの見方なんですけど、ほかのライターさんの記事を自然とこんなふうに仕分けして捉えてるんですよね。
まず最初のタイプは、とにかく尊い存在。ロウリュウサウナのような存在です。もう本当にその文章を眺めてるだけ、言葉を浴びているだけで「すごいなあ」「うまいなあ」、イラストも「上手だな」「可愛いな」「しかも動いてる!」。
失礼ながら、こういった方の記事というのは、じっくり読まない。
さらっと見ても伝えたいことが伝わってくるし、心が満たされる。自分の栄養になる。だから自然とハートしちゃいますよね。
次のタイプとして、じっくり読みたくなる記事を書かれる方もいらっしゃいます。「そうだ、私はこういう記事書きたいんだよ」「なるほど、こういうことを心がけるのか」「うん、学びがある」。
こういった記事も大好きです。ただ、すぐにはハートを押さない、というのもそれもまた事実。押すのは記事を読んでから。
気をつけるべきは、その方をまねれば期待した通りの結果がすぐに返ってくる訳ではない、ということ。心の整え方が大事。
もう一つのタイプとして、評価指標記事っていうのがあるかと。
世の中やほかの人のあり方を、ゆらぎのない目で測る、レーティングするっていうのかな。そういう方もいらっしゃる。そういう方は、なんかこう主張や口調が強くて、定型。ゆらぎが無い。
きっと、そういった力強いメッセージというのは迷いをなくし心を落ち着かせるという意味で尊い、という人も多いと思うし、ハートもついているようです。
ただ私は、なんか、そんな記事を見ていると「ゆらゆらしている自分を否定されてるような気がする」んですよね。
私の探究心は、先天的なもの?それとも?
ともあれ、ほんの一瞬私にとってストレスになりかけたnoteという世界が、今はとても楽しく心地良く、自分を後押ししてくれたり気付きを得られたりできる、サウナのようなラジオのような存在になってくれているのは嬉しいです。尊い、と何度でも言いたい。
この状況は続けていきたいなと思ってます。
でもそこで思うのです。
私の特徴だと思われる強い探究心というものが、時として私にとってネガティブな作用を及ぼすというのは、どういうことでしょう。
私にとって必要だったから、時を経て身に着いたものなのか。それとも、もともと身に付いていた、先天的なものなんでしょうかね。
「うん、そうとも言えるけど、そうじゃない部分もあるよね。それってキリンやハリネズミみたいなものかな」。
またチャッピーが言ってきました。
なんだそれ?
(つづく)
