石上純也論—無重力の風景、相対性の空間(テーブル、四角いふうせん、KAIT工房、ヴェネツィア・ビエンナーレ)
最短最速、最高の建築賞
2009年、石上純也の設計した神奈川工科大学KAIT工房が、第61回の日本建築学会賞(作品)を受賞した。これは新人賞ではない。日本における最高の建築賞である。それゆえ、1974年生まれの若手が選ばれたことは、大きな事件だった。むろん、過去にも、1962年に槇文彦(1928年生まれ)が名古屋大学豊田講堂で、1963年に菊竹清訓(1928年生まれ)が出雲大社庁の舎で、1966年に磯崎新(1931年生まれ)が大分県立大分図書館で受賞している。今や世界的建築家である彼らは当時、30代半ばだった。が、受賞はもう40年以上前の出来事である。近年では1998年に西澤立衛(1966年生まれ)は妹島和世とのユニット、SANAAのプロジェクトで受賞しているが、単独受賞として石上は異例の若さといえるだろう。

すでに石上はヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展やミラノ・サローネに参加し、世界の建築界や美術界から高い評価を得ていたとはいえ、これらは期間限定の展示品であり、常設の建築ではない。またニューヨークで手がけたヨージ・ヤマモトのショップ(2008)はリノベーションである。国内における実質的な新築物件はひとつしかなかった。これ以上のスピードでの受賞はありえない。いわば、最短最速である。2004年に妹島和世建築設計事務所を独立してから、わずか5年。2008年には、日本代表というべき、ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館にもメインの建築家として参加したことを考えると、国内においてとるべき建築の栄誉を30代のあいだに成し遂げてしまったわけだ。ちなみに、師弟関係をたどると、メタボリズムの菊竹清訓→伊東豊雄→妹島和世→石上純也と続く、現代日本建築のアヴァンギャルドのサラブレット的な位置づけである。

なるほど、ランダムにさまざまな断面形状の柱を散りばめ、森のような空間を出現させたKAIT工房は、画期的なデザインだ。学会賞の選定理由にも、こう記されている。「ここには空間の根本的性格と架構体のあり方を全く同一化しつつ、建築空間を初めて「密度」のみによって思考、実現するという驚くべき試みがある」。実は石上が学会賞に応募したとき、筆者はKAIT工房の推薦文を寄せており、これは「パヴィリオン建築の歴史における事件」であり、「真に驚愕すべき建築が誕生した」と書いたのだが(後に審査員の一名から、筆者のテキストは通常のものと違っていたと言われた)、近年はある程度の実績がないと、学会賞をとれない雰囲気もあり、さすがに難しいかもしれないと思っていた。

これまでにも、おそらくまだ若いとか、公共施設ではなく、住宅であるという理由で学会賞を見送られた作品は少なくない。その結果、真に重要な作品では賞をとれず、だいぶ後になって、学会賞を贈られるケースがある。例えば、東孝光は建築史に残る狭小住宅の傑作、塔の家(1966)ではなく、およそ40年後、1995年に「一連の都市型住宅」という名目で受賞した。そうした意味において、石上純也の一発受賞は事件だったのである。審査員のあいだでも、評価をめぐって議論が白熱したという。残念ながら、建築の学会賞に対しては、文学の芥川賞や写真の木村伊兵衛賞に匹敵する一般メディアの注目度はないが、彼の受賞はやはり若年齢での快挙というインパクトをもっている。
パヴィリオン建築史における事件
はじめてKAIT工房の構想を知ったときは、現在とは異なるプランだった。
初期のスタディでは、柱がランダムに並んでいたわけではなく、長方形のプランの中でグリッドに従って配置している。ただし、柱は同じものの反復ではなく、指向性をもつフラットバーになっており、それぞれが異なる角度で配され、全体として構造的なバランスをとるというものだった。つまり、均質な配置と不均質な方向性が共存している。これだけでも、充分に意欲的な建築だと感じていたが、言うまでもなく、その後、KAIT工房のプロジェクトはさらに進化した。現状のように、グリッドという拘束が解かれ、柱はとても建築のプランとは思えないような不規則な配置となり、断面形状もフラットバーだけではなく、きわめて多様な種類をもつに至る。プランも不整形な平行四辺形に変わった。
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