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映画評「花様年華」(香港・フランス/2000年)


映画評「花様年華」(香港・フランス/2000年/98分)

香港・フランス/2000年/98分 監督・脚本:ウォン・カーウァイ 撮影:クリストファー・ドイル/リー・ピンビン 編集:ウィリアム・チャン 出演者:トニー・レオン/マギー・チャン

一見すると、白々しいノスタルジアにも見えた。あまりにも過去を美化しすぎているような気がした。が、それならば、もっとウディ・アレンの「ラジオ・デイズ」みたいな見た目になるはず。全てを金色で味つけすればいい。しかし、画面をよく見ると、その奥には単なる懐古趣味では説明できない、あまりにも強い熱意、ただならぬ気迫とこだわりと集中力が潜んでいる。スタートはノスタルジアであったのは事実だろうが、映像のこだわりがすごい。この映画を作り出せた理由が気になる。もちろん才能や努力もあるが、ノスタルジア以外の衝動が、この映画に存在しているような気がする。その衝動の一つが、監督の研ぎ澄まされた美意識だ。ウォン・カーウァイの映画では、相思相愛は必ずしも成立せず、多くの映画で登場人物たちはすれ違う。彼には独特の美意識があり、今回の話もその美意識の成せる技だ。ウォン・カーウァイは、はかなきものたちを対象とし、それを記録することに強いこだわりがあるのかもしれない。だからこそ、彼の映画は切なく美しいのかもしれない。高感度フィルムとタングステン光の組み合わせ。赤や緑といった濃密で飽和した色彩が広がる鮮烈な画面。フィルムカメラのオーバークランク技法が多用され、スローモーションとなることで、時間の流れが引き延ばされ、感情の瞬間が永遠化されている。時間の伸びは、決断を先延ばしにする彼らの心理と同調し、現実をねばり気のある夢に変えていく。望遠レンズの圧縮効果によって、2人の距離は物理的に近くなりつつも、心理的には永遠に届かない幻のような親密さが生まれる。背景が大きくボケることで、主人公たちが周囲から切り離された親密な世界にいる感覚を生み出している。画面の枠やドアの隙間からのぞき見るような構図が、秘密の愛というテーマを強調している。落ち着いた色合いの中、繊細な画面だ。スクリーンに映し出されるのは、何重にも階層が分かれる柔らかい影の表情。階段を降り、階段を登り、すれ違う影たち。何かが起きそうに見えつつも、トニー・レオンとマギー・チャンが2人並んで歩く後ろ姿の静かな雰囲気。トニー・レオンがタバコをふかしながら小説を書くシーンの煙の揺らぎ。秘密や欲望を感じさせる赤いカーテンの揺らぐ長いホテルの廊下を歩くトニー・レオン。誰かの夢の中のような、ネットリとまとわりつくような湿度の高い空気に映しだされたのは、すでに色あせた世界のはかなげな雰囲気。影が主役だ。とうの昔に消え失せた壁にかかる時計、タイプライター、ラジオ、電話の存在感。1962年の香港は、この映画の中で影として蘇る。物語は冒頭から慌ただしい。2組の隣り合わせの夫婦が引っ越してくる。引越し業者も混乱だ。この慌しさの描写はとても活気がある。その後も、コミュニティと社内の描写が生き生きとしている。それぞれ2人暮らしというわけでなく、他の人たちも同居している。隣人たちの目を気にするため、2人きりになることはできない緊張感もある。何がきっかけだったのかを2人で話しながら「朝まで一緒に」と言うトニー・レオンに対し「彼の言い方と違う」と不満げに離れるマギー・チャン。ここで、私はドキリとしたが、要はお互いの配偶者がどうしてその仲になったのかを想像していただけであった。次はマギー・チャンから誘おうとするが「私は誘えない」とまた離れる。ここで、テーマが浮かび上がってくる。それぞれの相手の好みを食べるシーン。マスタードを皿に置き、それをつけて肉を食べる。「奥さんの好みね?」映画の中盤以降でのホテルで食事をしながらの、夫を問い詰めるための予行練習。そして、最後の方での雨の中での対話「協力して」「何に?」「心の準備に」からの、別れの予行練習。繰り返されるリハーサル。まるで倒錯したゲームのような非現実な感覚。2人はどこまでもお互いを愛し合うことはできない。前例があるし、そこの解決が先でもあるし、それぞれの配偶者に対しての不信も強い。どうしても幻影としてのそれぞれの配偶者を見てしまう。そして、周囲の人々があまりにも近く、干渉しあい、常識的に日常的に難しい状況でもある。閉ざされていて、逃げ場もない。同じ境遇という状況からスタートして発展することがない。トニー・レオンの穏やかな動きと表情。彼の憂いを帯びたまなざしと、優しさと諦念が入り混じった表情。彼女を見つめる時の長い、秘密めいた視線は、言葉以上の愛と苦悩を伝える。生き生きと仕事をしつつ、凛とした美しさを見せるマギー・チャン。彼女の演技は、プライドの高さ、警戒心、あらがいがたい誘惑の間で揺れ動く繊細な心の動きが身に迫る。心の鎧を象徴しているかのような、無数のチャイナドレス。背中や姿勢、優雅でありつつも張りつめたたたずまい。この2人は最後まですれ違う。全てが遺跡のような過去の世界へ。アンコール・ワットの遺跡で、彼は何を思うか。過去への別れと秘密の封印。心の平穏は来ない。過去が戻ることはない。影が、時間の代わりに呼吸している。全編の主役となるこの影は、個人の記憶だけでなく、集合的な記憶の投影でもある。すでに過ぎ去った時代の影だ。時代はうつろう。さすがに激動の時代を経たために、撮影当時の香港でさえも1962年を再現するのが難しかったようで、この映画はタイでも撮影されたそうだ(もちろん香港でも撮影されている)。ウォン・カーウァイ自身が5歳で上海から香港に移住している。当時の記憶が色濃く反映されている。監督も登場人物も、上海からの移民である。当時の香港に多く存在した故郷への夢を抱きつつ暮らす人々のコミュニティを反映している。この時代の香港は、中国本土の大躍進政策による大飢饉などから逃れるため、多くの人々が流入し、社会的に大きな変化の中にあった。訪れる将来への漠然とした不安、常に人が入れ替わり変化し続ける一過性の場所としての香港のはかなさ、壊れやすさが、繊細な登場人物たちの交流と重なる。登場人物たちは、家を買うのではなく、部屋を借りる。慌ただしい時代の流れ。長期的には1997年の香港返還も控えている時代背景が存在している。未来は圧倒的なまでにおぼろげであり、約束されたものもなく、うつろいやすく、はかない。この映画で描かれたプラトニックな親密さや許されない愛は、香港と中国本土、香港とイギリスとの複雑な関係性のメタファーなのかもしれない。もちろん、この映画を純粋な恋愛劇として見ることもできる。トニー・レオンとマギー・チャンの抑制された愛は、時代や場所を超えた普遍性を持つ。でも、ウォン・カーウァイがこれほどまでの執念で1962年の香港を再現しようとしたこと、上海移民という設定、1966年という終わり方、中国返還から3年後の公開時期。個人的な物語と歴史的な記憶が切り離せない形で映画に編みこまれ、分かちがたく溶けあっている。2人の抑制された関係性は、香港の政治的立場そのものの寓話として機能する。トニー・レオンとマギー・チャンは、互いにひかれあいながら、それぞれの配偶者という不在の存在によって結ばれることを阻まれている。この構図を見るとき、香港が中国本土とイギリスという2つの不在の大国に挟まれた状況が、どこか脳裏をよぎる。だが、それは一対一の寓話というより、個人の感情と都市の記憶が不思議に響き合う瞬間として立ち現れる。トニー・レオンの憂いは、まぎれもなく一人の男の憂いだ。でも彼の憂いが1962年の香港という時空間で表現される時、個人的な喪失感が都市全体の不安定さと共鳴しはじめていく。 2人の配偶者は、一度も画面に登場しない。彼らは不可視でありながら、物語全体を支配する。この映画で中国本土もイギリス植民地政府も直接は描かれないが、その不在こそが香港というアイデンティティを規定している。2人が周囲の目を気にして密会を重ねる狭いホテルの部屋は、イギリス統治下でありながら中国人コミュニティの規範に縛られる香港の中間地帯の空間的表象なのかもしれない。2人が行なう予行練習は、まず何よりも痛ましい。本当の対決を避けるためのリハーサルを繰り返す2人は、現実との向き合いを永遠に先延ばしにしている。この先延ばしの構造。いつか来る決断の時に備えながら、決して今日その決断を下さない構造が、奇妙なことに1997年の中国返還を前にした香港の時間感覚とも重なり合う。2人の関係が決して成就せず、アンコール・ワットの遺跡で秘密が封印されるラストは、香港の自律的な未来が歴史の遺跡として埋葬されることの予感でもある。多様なバランスにより、いっときの平和が訪れ、どこかの安住の地を夢見たかのような。「香港を出たよ。みんな先を争って出ていく」1966年で、この映画は終わる。文化大革命の勃発の年である。中国本土の情勢不安を受けて、多くの香港の人々が未来への不安を感じ、海外への移住を考えはじめた、歴史的なターニングポイントである。少しの外的要因で、バランスが崩れ、関係性は束の間の夢のように崩れ去っていく。アンコール・ワットで彼が封印した秘密は、個人の記憶であると共に、1997年へと向かう香港の夢の墓標でもある。影の映画は、影の都市の物語なのかもしれない。影は一組の男女の物語を語りながら、いつしか、1962年という時代の、移民たちの都市、香港という都市の影とも重なりあう。トニー・レオンがアンコール・ワットで封印した秘密は、彼個人のものだ。でも、その秘密が遺跡という廃墟で語られると、1997年へと向かう香港の夢もまた、歴史の遺跡として埋もれていくような気分にもなる。ウォン・カーウァイは独自の美意識を使って記憶を映像化しようとし、個人の影を都市の影と分かちがたく結びつけた。結局のところ、ウォン・カーウァイはトニー・レオンとマギー・チャンの唇が触れ合わないのと同じように、個人の物語と香港の歴史を決して安易に一体化させない。両者は寄り添い、共鳴しあいながらも、決して同一にはなれない。その永遠に満たされない距離感そのものにこそ、この映画の切実な美しさと、はかなき記憶を映像化するという監督の美意識が宿っているのだ。美意識こそが影であり記憶であり、映像である。そこにこの映画の魅力と豊かさがある。

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