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『CHANEL』――ガブリエル・シャネルから2026年まで、世界最高峰のラグジュアリーメゾンをつくった経営・創造・クラフト・顧客・資本(第5回)(第4章 ラガーフェルドの後)

第4章 ラガーフェルドの後

第1節 2019年

2019年は、CHANELにとって一つの時代が終わった年である。

2月19日、カール・ラガーフェルドが死去した。

1983年から約36年間。CHANELのファッションを現代へ更新し続けてきた人物が突然いなくなった。

しかし、2019年を単に「ラガーフェルドが亡くなった年」として理解するだけでは十分ではない。

この年に問われたのは、もっと根本的な問題だった。

CHANELは、巨大な創造者がいなくなってもCHANELであり続けられるのか。

そして2019年以後の展開を見ると、この問いに対するCHANELの最初の答えは、急激な断絶ではなかった。

継承だった。



二度目の大きな喪失

CHANELは以前にも、同じような問題を経験している。

1971年、ガブリエル・シャネルが死去した。

創業者自身がブランドだった時代が終わった。

その後、CHANELは創造面で難しい時間を経験し、1983年にラガーフェルドが登場する。

彼は創業者のコードを読み直した。

ツイード。

チェーン。

パール。

カメリア。

黒と白。

バッグ。

それらを保存するのではなく、1980年代、1990年代、2000年代、2010年代へ繰り返し更新した。

そして2019年。

今度は、その「更新者」がいなくなった。

CHANELは二度目の大きな継承問題に直面したのである。



1971年と2019年は同じではない

ただし、二つの時点には決定的な違いがある。

1971年に失われたのは創業者だった。

2019年に失われたのは、創業者の遺産を約36年間にわたって更新してきた人物だった。

つまり2019年のCHANELには、すでに二層の歴史が存在していた。

Gabrielle Chanel

Karl Lagerfeld

である。

次の創造者は、ガブリエル・シャネルだけを読むことはできない。

ラガーフェルドがつくったCHANELも、すでに歴史の一部になっていた。

ブランドが長寿化するということは、単に年齢が増えることではない。

継承しなければならない時間層が増えることでもある。



36年間という異例の長さ

約36年間という時間は非常に長い。

一人のクリエイティブ・ディレクターがこれだけ長期間メゾンの視覚世界を形成すれば、ブランドと個人の境界は必然的に近づく。

CHANELのショーを考えると、ラガーフェルドがいる。

広告を考えると、彼の写真がある。

ツイードの大胆な再解釈。

巨大なグラン・パレ。

スーパーモデル。

ダブルC。

アクセサリー。

バッグ。

毎シーズンの膨大なコレクション。

世界のファッションメディアにとっても、

CHANELとKarl Lagerfeld

は長期間、非常に強く結びついていた。

そのため彼の死は、通常のデザイナー交代とは違った。

一つの巨大なブランドイメージの時代が終わることを意味していた。



それでもCHANELは停止しなかった

ここで企業としてのCHANELの強さが現れる。

ラガーフェルドが亡くなったからといって、企業活動そのものが停止したわけではない。

ブティックは動く。

商品は販売される。

N°5は存在する。

バッグはつくられる。

時計やジュエリーもある。

職人は働く。

アトリエは存在する。

顧客との関係は続く。

そして次のコレクションを準備する組織がある。

この事実は重要である。

CHANELは2019年までに、

一人の天才だけで成立するブランドから、一人の天才を内部に持つ巨大な企業へ変わっていた。

個人は極めて重要である。

しかし企業は個人より長く存在できる。

この条件が整っていた。



ヴィルジニー・ヴィアール

ラガーフェルドの死去後、CHANELのファッション部門を引き継いだのがヴィルジニー・ヴィアールである。

この人選には意味がある。

ヴィアールは、突然外部から連れてこられたスター・デザイナーではなかった。

長年CHANEL内部でラガーフェルドと仕事をしてきた人物だった。

つまりCHANELは2019年に、

断絶より継承を選んだ。

これは1983年とは対照的である。

当時必要だったのは、ブランドを強く再活性化することだった。

2019年には、すでにCHANELは世界最高峰のラグジュアリーメゾンの一つである。

問題は再生ではない。

成功している巨大なブランドを、創造者の死によって壊さず次へ渡すことだった。



「変える」より先に「つなぐ」

経営では、リーダーが交代すると改革が期待される。

新しい戦略。

新しい組織。

新しい商品。

新しいブランドイメージ。

しかし長寿ブランドでは、変化そのものが価値とは限らない。

CHANELにはすでに、

100年以上の歴史。

世界的ブランド認知。

巨大な顧客基盤。

職人ネットワーク。

商品コード。

アーカイブ。

店舗網。

価格体系。

がある。

ここで急激に変えれば、改革ではなく毀損になる可能性がある。

だから2019年に重要だったのは、

Change

よりも、

Continuity

だった。



最後のショー

ラガーフェルドの死後、2019年3月に発表された秋冬コレクションは、彼とヴィアールの名のもとで準備された最後のコレクションとなった。

グラン・パレには雪に覆われた山村を思わせる世界がつくられた。

巨大な演出。

ツイード。

雪。

山。

モデルたち。

そこには、ラガーフェルド時代のCHANELらしいスペクタクルが残っていた。

しかし同時に、それは終わりでもあった。

彼がつくり上げたショー文化の一つの時代が閉じる。

そしてヴィアールが単独で次のCHANELを担う時間が始まる。



女性から女性へ、ではない

ここでヴィアールへの継承を、単純に「女性デザイナーへの回帰」と説明するのは十分ではない。

ガブリエル・シャネルが女性だった。

ヴィアールも女性である。

しかし、それだけで両者を接続すると、約100年間に起きた企業の変化を見落とす。

重要なのは性別よりも、CHANELという企業の内部に創造知が蓄積されていたことである。

ヴィアールは、

アトリエを知る。

服づくりを知る。

ラガーフェルドを知る。

CHANELの制作過程を知る。

メゾン内部の人間関係を知る。

つまり2019年の継承は、

個人から個人への継承であると同時に、組織内部に蓄積された知識が次の創造を支えた事例

として見る必要がある。



目立たないものの価値

ラガーフェルドのような人物は目立つ。

ショーの最後に登場する。

写真に撮られる。

発言が報道される。

世界中に知られる。

しかし一着のCHANELをつくるためには、目立たない膨大な仕事が必要である。

パターン。

縫製。

刺繍。

羽根。

プリーツ。

ボタン。

靴。

帽子。

素材調達。

フィッティング。

生産。

品質管理。

物流。

販売。

修理。

CHANELは一人のデザイナーではない。

ラガーフェルドの死によって逆説的に明らかになったのは、彼を支えていた巨大な企業組織の存在だった。



創造は組織化できるのか

2019年が提示した問いは、ファッション産業全体にも通じる。

創造性は個人の才能に依存する。

しかし企業は継続しなければならない。

この二つをどう両立するのか。

創造を完全にマニュアル化すれば、独創性が失われる。

一方、すべてを一人の天才へ依存すれば、その人物がいなくなった瞬間に企業が危機に陥る。

したがって長寿ラグジュアリー企業には、

個人の創造性を最大化しながら、その成果を組織の資産として残す

という難しい経営が必要になる。

CHANELのアーカイブ、職人、アトリエ、ブランドコード、ショー、商品群は、この問題への一つの答えだった。



2019年の企業としてのCHANEL

さらに2019年のCHANELは、企業情報の面でも以前とは異なっていた。

非上場企業であるCHANELは長年、上場企業ほど詳細な財務情報を外部へ公開してこなかった。

しかし2018年、CHANEL Limitedは初めて年次財務結果を公表した。

これは重要な変化だった。

世界有数のラグジュアリー企業でありながら、その実態が外部から見えにくかったCHANELが、一定の財務情報を世界へ示し始めたのである。

ここから見えてきたのは、CHANELが単なる歴史的ファッションメゾンではなく、100億ドルを超える規模の事業を持つ巨大企業であるという現実だった。

2019年には売上高が120億ドルを超える規模へ成長していた。

ラガーフェルドが残したCHANELは、文化的アイコンであると同時に、極めて強い経営体力を持つグローバル企業になっていた。



非上場であることの意味

しかもCHANELは上場していない。

株式市場から毎四半期の利益成長を要求される構造とは異なる。

これは後のCHANELを理解するうえで重要になる。

職人への投資。

工房への投資。

不動産。

店舗。

サプライチェーン。

環境。

人材。

こうした投資は、すべて短期間で利益を生むとは限らない。

しかしブランドを数十年、さらに次の100年へ継承するなら必要になる。

2019年のCHANELには、創造の継承だけでなく、それを支える長期資本の構造も存在していた。



そして世界は翌年変わる

2019年を現在から振り返ると、もう一つ重要な意味が見えてくる。

それは、

パンデミック前最後の年

だったことである。

2019年時点では、世界のラグジュアリー産業は国際旅行、巨大店舗、都市、ショー、観光消費、対面接客と深く結びついていた。

ところが2020年、新型コロナウイルスの世界的流行によって、その前提が一気に崩れる。

国境が閉じる。

店舗が閉まる。

ショーのあり方が変わる。

観光客が消える。

顧客は自国で買う。

デジタルとの関係が変わる。

サプライチェーンも揺れる。

つまりCHANELは、

ラガーフェルドを失った直後に、

世界そのものの変化へ直面することになる。



二つの変化が重なった

CHANELにとって2019年前後の難しさはここにある。

内部では、

Creative Transition

が起きる。

ラガーフェルドからヴィアールへ。

その直後、外部では、

Global Transition

が起きる。

パンデミックによって世界の消費、移動、店舗、働き方が変わる。

通常なら、巨大なデザイナーを失った後には、ブランド内部を安定させる時間が必要になる。

しかしCHANELには、その時間がほとんど与えられなかった。

継承しながら危機へ対応する必要があったのである。



2019年は終点ではなく境界だった

だから2019年を、ラガーフェルド時代の「終わり」とだけ見るべきではない。

より正確には、

二つのCHANELを分ける境界

である。

それ以前は、

ガブリエル・シャネルのコード

カール・ラガーフェルドによる継続的更新

世界ブランドへの拡大

という時間だった。

それ以後は、

ラガーフェルドの遺産

ヴィルジニー・ヴィアールによる継承

パンデミック

価格と希少性の再設計

2024年の再転換

という別の時間へ入る。



「創造者が変わっても続く」という実証

そして2019年には、CHANELの100年企業としての能力が再び試された。

創業者を失っても続いた。

更新者を失っても続くのか。

その答えは、一つのコレクションで出るものではない。

数年かけて示される。

しかし少なくともCHANELは停止しなかった。

アーカイブが残った。

クラフトが残った。

顧客が残った。

組織が残った。

資本が残った。

そして新しい創造者がいた。

これは企業史として重要である。

長寿企業とは、変わらない企業ではない。
重要な人間を失っても、価値を次の人間へ渡せる企業である。

2019年、CHANELはその能力をもう一度問われた。

そして、その最初の継承者となったのがヴィルジニー・ヴィアールだった。

彼女の仕事は、ラガーフェルドと競争することではない。

ガブリエル・シャネルを再現することでもない。

二人の巨大な歴史を背負いながら、CHANELを次の時間へ運ぶことだった。

第2節 ヴィルジニー・ヴィアール

巨大な創造者の後で、「継承する」という仕事はいったい何を意味するのか。
第2節 ヴィルジニー・ヴィアール

2019年、カール・ラガーフェルドの死去によってCHANELは巨大な創造者を失った。

その後を引き継いだのが、ヴィルジニー・ヴィアールである。

この人事を理解するうえで重要なのは、ヴィアールを「ラガーフェルドの次のスター・デザイナー」としてだけ見ないことである。

彼女の役割は、もっと特殊だった。

ラガーフェルドが1983年にCHANELへ入ったとき、求められていたのは再活性化だった。

一方、2019年のCHANELはすでに世界最高峰のラグジュアリーメゾンの一つだった。

だからヴィアールに最初に求められたのは、CHANELを別のブランドへ変えることではない。

巨大な成功の後で、創造を途切れさせないことだった。



外から来た革命家ではなかった

ヴィアールは、CHANELをほとんど知らない状態で外部から招聘された人物ではない。

1987年にCHANELへ入り、長い時間をメゾン内部で過ごした。

一時期CHANELを離れた後、ラガーフェルドとともに仕事を続け、1997年にCHANELへ戻る。

その後、オートクチュールやプレタポルテの制作を支える中心人物の一人となった。

彼女が深く知っていたのは、完成した服の外観だけではない。

服がどのようにつくられるか。

デザインがどのように具体的な衣服へ変わるか。

アトリエとどのように仕事をするか。

素材をどう扱うか。

フィッティングをどう重ねるか。

ショーまでにどのようにコレクションを完成させるか。

つまりヴィアールは、CHANELの表側だけではなく、創造が実際の商品になるまでの内部工程を知っていた。



ラガーフェルドの隣にいた人物

長年にわたってラガーフェルドの創造を実際のコレクションへ落とし込む仕事に関わってきたことは、2019年の継承において大きな意味を持った。

デザイナーのアイデアだけでは服は完成しない。

スケッチ。

素材。

パターン。

縫製。

刺繍。

フィッティング。

修正。

アクセサリー。

スタイリング。

ショー。

膨大な人間の仕事を一つのコレクションへ統合する必要がある。

ラガーフェルドの驚異的な生産量を支えるには、創造と制作を結ぶ強力な組織能力が必要だった。

ヴィアールはその内部にいた。

だから彼女への継承は、

著名デザイナーAから著名デザイナーBへの交代

という単純な構図ではない。

CHANEL内部に長年蓄積されていた創造知が、表舞台へ出てきた出来事でもあった。



「見えない仕事」が見えるようになる

ラグジュアリー産業では、完成した商品や著名デザイナーに注目が集まりやすい。

しかし企業を長期間支えるのは、必ずしも最も目立つ人物だけではない。

職人。

パタンナー。

スタジオ。

生産担当者。

素材の専門家。

販売スタッフ。

店舗責任者。

経営管理。

こうした多数の人々がいる。

ヴィアールの登場は、CHANELがそうした組織の蓄積によって成立していることを象徴するものでもあった。

ラガーフェルドという極めて強い個人の後に、彼の長年の協働者が継承した。

そこには、

個人の創造力と組織の継続性は対立するものではない

というCHANELの企業構造が現れていた。



何を変えないか

新しいクリエイティブ責任者が就任すると、通常は「何を変えるのか」が注目される。

しかしヴィアールの初期には、むしろ逆の問いが重要だった。

何を変えないのか。

ツイード。

カメリア。

チェーン。

パール。

黒と白。

バッグ。

オートクチュール。

メティエダール。

CHANELには、簡単には捨てられない強力なコードが存在する。

さらにラガーフェルド時代に形成された新しい歴史もある。

ヴィアールは、その巨大な資産を受け取った。

だから彼女の仕事は、白紙に新しいブランドを書くことではなかった。

すでに何層もの歴史が書かれたブランドの上に、次の一行を書くことだった。



ラガーフェルドより静かなCHANEL

ヴィアール時代のCHANELは、しばしばラガーフェルド時代よりも軽やかで、親密で、身体に近い方向へ変化した。

ラガーフェルドは巨大な演出を得意とした。

グラン・パレを別世界へ変える。

ロケットを置く。

空港をつくる。

スーパーをつくる。

ショーそのものを世界的ニュースにする。

ヴィアールは同じ方法をそのまま競って巨大化させる必要はなかった。

服。

身体。

着る人。

素材。

動き。

CHANELのコード。

それらへ視線を戻す余地が生まれる。

これはラガーフェルドの否定ではない。

むしろ、彼と同じことをしないことによって、CHANELに別の時間をつくる試みだった。



コピーでは継承できない

ここには重要な問題がある。

偉大な前任者の後継者が、前任者と同じことをすれば安全に見える。

しかし、それを続ければブランドは次第に過去の模倣になる。

ラガーフェルド自身が証明したのは、ガブリエル・シャネルをそのままコピーしてもCHANELは生き続けられないということだった。

同じ論理は、ラガーフェルドの後にも当てはまる。

ラガーフェルドを継承するために、ラガーフェルドになる必要はない。

むしろ、

何を残し、何を弱め、何を変えるか

を選択する必要がある。

継承とは複製ではない。



女性の身体へ戻る

ヴィアールの仕事を考えるうえで、身体との関係も重要である。

CHANELの起源には、女性の身体を既存の服装規範から解放するという歴史がある。

ジャージー。

動きやすさ。

スポーツ。

ポケット。

ショルダーバッグ。

男性服からの引用。

ガブリエル・シャネルの創造は、抽象的な美だけでなく「女性がどう生き、どう動くか」と深く結びついていた。

ヴィアールのコレクションでも、身体の軽さ、動き、現実に着ることのできる服という側面がしばしば前面に出た。

ここには、巨大なショーや記号の奥から、CHANELの起源にある「服と身体」の関係をもう一度見ることができる。



女性だから、では足りない

ガブリエル・シャネル。

ヴィルジニー・ヴィアール。

二人が女性であることから、単純な「女性による女性のためのCHANELへの回帰」と説明することもできる。

しかし、それだけでは浅い。

重要なのは、性別そのものよりも、

誰が服をつくるのか。

誰が着るのか。

どのような身体を想定するのか。

どのような生活を想定するのか。

どのような組織が意思決定するのか。

という複数の関係である。

CHANELの歴史では、女性の身体、創造者、職人、販売員、顧客、経営者の関係が常にブランド価値へ影響してきた。

ヴィアール時代は、その関係を考える新しい段階でもあった。



そしてパンデミックが来る

ところがヴィアールには、通常の後継者に与えられるような安定した移行期間がなかった。

2019年にラガーフェルドから創造を引き継ぐ。

その翌年、2020年。

新型コロナウイルスの世界的流行が始まる。

これはファッション産業の前提そのものを揺るがした。

店舗が閉鎖される。

国境を越えた旅行が止まる。

顧客が移動しない。

ショーの開催方法が変わる。

サプライチェーンが混乱する。

スタッフの働き方が変わる。

国際観光消費が急減する。

ヴィアールは、巨大な前任者の後を継ぐだけでなく、世界的危機のなかでCHANELの創造を継続する必要に迫られた。



ショーの意味も変わる

パンデミック以前、ラグジュアリーファッションのショーは巨大化していた。

世界中から人が集まる。

モデルが移動する。

顧客が移動する。

ジャーナリストが移動する。

巨大なセットをつくる。

その様子が世界へ配信される。

しかし人間の移動が制限されると、そのモデルは成立しにくくなる。

そこでデジタル映像や新しい発表方法の重要性が高まる。

ファッションショーは、

「会場に人を集める出来事」

から、

「離れた場所にいる人へ世界観を届けるメディア」

としての性格をさらに強めた。

これはヴィアール個人の創造だけでなく、CHANELという企業のメディア戦略にも影響する。



商品は身体へ戻る

パンデミックは、人々の生活そのものも変えた。

外出。

仕事。

旅行。

パーティー。

会食。

都市生活。

これらが一時的に縮小した。

するとファッションは根本的な問いへ戻される。

人は何のために服を着るのか。

誰に見せるのか。

自分の身体にとって快適とは何か。

高級な服には何の価値があるのか。

ヴィアール時代の「身体に近いCHANEL」は、結果的にこの社会変化とも重なっていく。



ブランドは危機の中でも時間を止めない

パンデミックで重要だったのは、CHANELが創造活動を停止しなかったことである。

コレクションを発表する。

職人との仕事を続ける。

顧客との接点を維持する。

ブランドの世界を発信する。

危機の間だけCHANELを休止し、世界が元に戻ってから再開することはできない。

ファッションはシーズンによって動く。

職人の雇用もある。

店舗もある。

顧客との関係もある。

したがって企業には、危機のなかでも創造を継続する能力が必要になる。

ヴィアールの時代は、まさにその能力が試された時間だった。



売上だけでは測れない役割

クリエイティブ・ディレクターを短期間の売上だけで評価することには限界がある。

特にCHANELのような企業では、

ブランドイメージ。

バッグ。

オートクチュール。

プレタポルテ。

フレグランス。

ビューティ。

時計。

ジュエリー。

店舗。

価格。

顧客関係。

過去のブランド資産。

これらが相互に影響する。

あるシーズンの服が、そのまま翌四半期の利益へ対応するわけではない。

ヴィアールの役割を理解するには、彼女がCHANELのブランド価値を2019年から次の創造体制へ渡す橋を担ったことを見る必要がある。



CHANELはさらに成長する

実際、ヴィアール時代を含む2020年代前半、CHANELの事業規模は大きく拡大していく。

パンデミックによる一時的な打撃を受けた後、世界のラグジュアリー需要は急速に回復した。

CHANELも、

価格。

商品構成。

顧客需要。

店舗投資。

富裕層市場。

などを背景に大きく成長する。

2023年には年間売上高が約200億ドルに近づく規模へ到達した。

ここで重要なのは、ラガーフェルドがいなくなった後にも企業が成長したことである。

これは、CHANELの価値が一人のデザイナーだけに依存していなかったことを示す。



価格という新しい問題

一方で、成長とともに別の変化が目立つようになる。

価格である。

CHANELは2020年代前半に主要商品の価格を大きく引き上げていく。

背景には、

原材料費。

人件費。

為替。

物流。

品質への投資。

価格の国際的整合性。

ブランドポジショニング。

希少性。

複数の要因がある。

しかし結果として、CHANELの代表的なバッグは、より限られた顧客しか購入できない価格帯へ移っていった。

ここからCHANELの経営には新しい問いが生まれる。

価格を上げることは、ブランド価値を上げることと同じなのか。

この問題はヴィアール個人を超え、2020年代のCHANEL全体を考える重要なテーマになる。



継承期から次の転換へ

2019年から数年が経過すると、CHANELを取り巻く条件は再び変化する。

パンデミックから世界が再開する。

国際旅行が戻る。

中国経済の成長が鈍化する。

ラグジュアリー市場の成長速度も変化する。

顧客は高価格化した商品の価値をより厳しく見る。

そしてブランドには、価格だけでは説明できない創造的な魅力が改めて求められる。

ヴィアールのCHANELも、次第に「継承の成功」だけではなく、

次のCHANELをどこまで提示できるのか

という評価へ移っていく。



2024年

2024年6月、CHANELはヴィルジニー・ヴィアールの退任を発表した。

約30年にわたるCHANELとの関係、そのうち約5年間のファッション部門トップとしての時間が終わる。

この退任によって、2019年から続いた一つの継承期が閉じた。

ラガーフェルドからヴィアールへ。

それはCHANELを壊さずに次へ渡すための時間だった。

しかしCHANELは、そこで停止しない。

次に必要なのは、

「ラガーフェルドの後をどう継ぐか」

ではなく、

「2020年代後半のCHANELを誰がつくるのか」

という問いになる。



ヴィアールが残したもの

ヴィアールの時代をラガーフェルドとの比較だけで評価すれば、その意味を見誤る。

彼女には別の役割があった。

巨大な創造者の死後にCHANELを継続させた。

パンデミックを越えた。

アトリエとの連続性を守った。

CHANELのコードを維持した。

ブランドを次の創造体制まで運んだ。

つまり彼女の仕事は、

ReinventionよりもContinuity

に重心があった。

しかし長寿ブランドには、その時間が必要である。

毎世代が革命を起こせば、ブランドは継承されない。

変える人だけではなく、つなぐ人が必要になる。



三人の異なる仕事

ここまでのCHANELの創造史は、三つの異なる仕事として整理できる。

Gabrielle Chanel

創る。



Karl Lagerfeld

読み直し、拡張する。



Virginie Viard

つなぐ。

この三者を同じ基準で評価する必要はない。

創業。

更新。

継承。

それぞれが企業の異なる局面で必要になる。

そしてヴィアールの時代を通過したからこそ、CHANELは次の段階へ移ることができた。



次に必要なのはUpdateだった

2024年、ヴィアールの退任によってCHANELには再び空白が生まれた。

しかし2019年とは状況が違う。

今度は突然の死による継承ではない。

次の創造者を選択できる。

しかも企業側では、リーナ・ナイルが2022年からグローバルCEOを務めていた。

つまりCHANELには、

経営の新しい時間

がすでに始まっていた。

その経営の時間に、次の創造の時間を接続する必要がある。

そして2024年12月、CHANELはマチュー・ブレイジーをファッション部門の新しいアーティスティック・ディレクターに任命すると発表する。

ヴィアールが担った「継承」の先に、再び「更新」の時間が始まろうとしていた。

しかしその前に理解しなければならないことがある。

ヴィアールの約5年間にCHANELが行っていた仕事の本質である。

それは、過去をただ保存することではない。

巨大な歴史を壊さず、次の創造者が再び動かせる状態で渡すこと。

それこそが、長寿メゾンにおける「継承」という仕事なのである。

第3節 継承という仕事

次節では、CHANELの事例を通して、創業者でも革命的デザイナーでもない「継承者」が、100年企業にとってなぜ不可欠なのかをさらに深く見ていく。
第3節 継承という仕事

継承は、変えないことではない。

しかし、変えることでもない。

長い歴史を持つ企業にとって最も難しいのは、その間にある。

何を残すのか。

何を変えるのか。

何をいったん残しながら、次の世代が変えられる状態にしておくのか。

CHANELの2019年以後を見ると、「継承」という仕事の意味がよく見えてくる。

ガブリエル・シャネルは創業した。

カール・ラガーフェルドは巨大な更新を行った。

ヴィルジニー・ヴィアールが担ったのは、その二人とは異なる仕事だった。

すでに形成された巨大な価値を壊さず、次の時間へ渡すことである。



企業には革命だけでなく継承が必要である

企業史では、大きな変革を行った経営者や創造者が注目されやすい。

新しい商品をつくった。

市場を変えた。

ブランドを再生した。

売上を急拡大した。

こうした出来事はわかりやすい。

しかし100年企業をつくるのは、革命だけではない。

一度つくられた価値を維持する。

技術を次の世代へ渡す。

顧客との信頼を壊さない。

組織を安定させる。

過去を保存する。

そして、次の変化が可能な状態を維持する。

こうした仕事は外から見えにくい。

しかし企業が長く続くためには不可欠である。

もし毎世代が前任者を否定して全面刷新を行えば、企業には蓄積が残らない。

反対に、誰も変えなければ企業は古くなる。

だから長期企業には、

Creation
Renewal
Continuity

という異なる能力が必要になる。



継承する対象は商品だけではない

CHANELが継承しなければならないものを考えてみよう。

ツイードジャケット。

バッグ。

N°5。

カメリア。

パール。

これらの商品やコードだけではない。

職人技術。

アトリエ。

素材についての知識。

フィッティングの方法。

品質基準。

店舗での接客。

顧客との関係。

アーカイブ。

一等地の店舗。

ブランドの信用。

取引先との関係。

組織文化。

そして経営判断の蓄積。

企業の価値は多層的である。

したがって継承も多層的になる。

一つの商品を次の年にも販売することと、企業全体を次の世代へ渡すことはまったく違う。



形式知と暗黙知

継承の難しさを理解するうえで重要なのが、知識の種類である。

企業には記録できる知識がある。

設計図。

仕様書。

契約。

販売データ。

財務記録。

素材情報。

アーカイブ。

これらは文書やデータとして保存できる。

一方、簡単には記録できない知識もある。

このツイードならどの程度の張りが美しいのか。

袖をどこまで調整すれば身体が自然に動くのか。

刺繍をどの程度まで施せば過剰にならないのか。

重要顧客へどのタイミングで何を提案するのか。

ブランドにとって「少し違う」と感じる境界はどこか。

こうした判断は、経験のなかで身につく。

これが暗黙知である。

CHANELのような企業では、この暗黙知が非常に大きい。



職人から職人へ

クラフトマンシップは、その典型である。

高度な刺繍技術を文章だけで完全に継承することは難しい。

実際に見る。

手を動かす。

失敗する。

熟練者から指導を受ける。

素材の癖を覚える。

長い経験を重ねる。

ここでは、人から人への移転が必要になる。

だから職人技術を守るとは、昔の作品を保存するだけではない。

技術を持つ人間と、次に技術を持つ人間との関係を維持することである。

継承とは、本質的に人間関係を含む。



デザイナーからデザイナーへ、ではない

同じことはクリエイティブ・ディレクションにも言える。

ラガーフェルドからヴィアールへ、何か一冊のマニュアルが渡されたわけではない。

長年一緒に仕事をする。

スケッチを見る。

フィッティングを見る。

素材選びを見る。

判断を見る。

修正を見る。

アトリエとの会話を見る。

何を採用し、何を捨てるのかを見る。

そうした時間の蓄積によって、仕事の方法が伝わる。

ヴィアールが長年CHANEL内部にいたことは、ここで意味を持つ。

彼女はラガーフェルドの完成商品だけを見ていたのではない。

完成する前の判断過程を知っていた。



ブランドコードを保存するだけでは足りない

黒と白。

ツイード。

カメリア。

キルティング。

チェーン。

パール。

ダブルC。

これらを次世代へ残すことは比較的わかりやすい。

しかし、本当に難しいのはその使い方である。

どれだけ使うのか。

どの組み合わせなら現在的なのか。

どこまで変えてよいのか。

いつあえて使わないのか。

同じコードでも、その判断によって商品はまったく違う。

したがってブランド継承とは、

コードを保存することではなく、コードを扱う能力を継承すること

でなければならない。



「CHANELらしさ」を固定しない

これは非常に難しい。

企業内部で「CHANELらしさ」の定義を厳格にしすぎれば、次の創造者は何もできなくなる。

黒を使わなければならない。

ツイードを使わなければならない。

カメリアを置かなければならない。

過去のシルエットを守らなければならない。

こうなればブランドコードは規則になる。

一方で「何をしてもCHANEL」とすれば、ブランドの境界が失われる。

継承では、この中間に余白を残す必要がある。

一定の同一性を維持する。

しかし次の創造者が自分の解釈を持ち込める空間も残す。

継承とは、完成させすぎないことである。



空白を残す

これは長寿ブランドにとって非常に重要な考え方である。

前任者がブランドのすべてを定義してしまえば、後任者にはコピーしか残らない。

反対に、ブランドの根幹が何も定義されていなければ、継承そのものができない。

必要なのは、

残されたコード

新しい解釈の余白

である。

ガブリエル・シャネルが残したコードには、その余白があった。

だからラガーフェルドは読み直せた。

ラガーフェルドも膨大なCHANELを残した。

しかしそれを永久的な正解にしないことが、次の世代にとって重要になる。



継承には「何もしない」という判断もある

経営では、行動したことが評価されやすい。

新商品。

新店舗。

新戦略。

新組織。

しかし継承期には、「変えない」という判断そのものが価値を持つ。

顧客が愛している商品を残す。

熟練職人を守る。

品質基準を維持する。

長年の取引先との関係を継続する。

ブランドコードを急に変更しない。

こうした判断は、外から見れば何もしていないように見える。

しかし実際には、

既存資産を毀損しないという積極的な経営

である。

特にラグジュアリーでは、一度失った信頼を取り戻すことは難しい。



継承と顧客

企業内部だけが継承されるのではない。

顧客にも時間がある。

若い時に香水を買う。

初めてバッグを買う。

仕事を始める。

人生の節目にジュエリーを買う。

長年同じブティックへ通う。

家族へ商品を渡す。

こうした関係が数十年続くこともある。

ブランド側が急激に変われば、長期顧客は自分が愛してきたCHANELを失ったと感じる可能性がある。

したがって継承とは、

企業の記憶と顧客の記憶を断絶させないこと

でもある。



しかし顧客も変わる

一方で、既存顧客だけを守ればよいわけではない。

新しい世代もCHANELへ入ってくる。

若い顧客。

新しい富裕層。

新しい地域。

異なる文化。

過去のCHANELを知らない人。

彼らには、歴史をそのまま見せても意味が伝わらない場合がある。

だから企業は、

長期顧客には連続性を与え、

新規顧客には現在性を与える。

必要がある。

これも継承の難しい二重課題である。



継承と価格

価格も継承と関係する。

長年CHANELを知る顧客にとって、同じ名称の商品が数年で大きく価格を上げれば、ブランドとの関係が変わる。

一方、企業側には、

原材料。

人件費。

物流。

為替。

店舗投資。

クラフト維持。

ブランドポジショニング。

といった要因がある。

したがって価格を変えないことが必ずしも継承ではない。

しかし価格だけが先に変わり、顧客が感じる創造性や品質、サービスが追いつかなければ、過去から蓄積された信頼を消費することにもなり得る。

ここから2020年代のCHANELにおける「価格と希少性」という問題が浮かび上がる。



継承は危機のときに試される

平常時なら、過去の方法を続けることができる。

しかし危機が来る。

パンデミック。

戦争。

景気後退。

原材料供給の混乱。

為替変動。

経営者の交代。

デザイナーの交代。

そのとき企業は、本当に何を守るべきかを選ばなければならない。

2020年以後のパンデミックは、CHANELにとってまさにその試験だった。

店舗を閉じなければならない。

顧客が移動できない。

ショーの形式を変えなければならない。

それでもブランド価値は継続しなければならない。

継承能力は、こうした危機のなかで可視化される。



保存と適応

ここから継承の基本構造が見える。

守るだけではない。

変えるだけでもない。

Preservation × Adaptation

である。

守るもの。

ブランドの信用。

職人技。

品質。

歴史。

重要なコード。

顧客との信頼。

変えるもの。

表現。

商品構成。

ショー。

流通。

テクノロジー。

価格。

組織。

地域戦略。

両方を同時に動かす必要がある。



時間の異なるものを接続する

CHANELの内部には、異なる時間が存在する。

ファッションコレクションは数か月。

バッグは何年、何十年と使用される。

職人の育成は長期。

店舗不動産も長期。

顧客関係は数十年。

ブランドコードは100年以上。

経営者やデザイナーの在任期間はその中間にある。

継承とは、この異なる時間を切らずに接続することである。

シーズンだけを見ていれば、100年ブランドはつくれない。

100年だけを見ていれば、今シーズンのファッションをつくれない。

短い時間と長い時間を同時に持つこと。

それがメゾン経営には必要になる。



継承者は完成者ではない

ヴィアールの役割をこの観点から見ると、その意味が明確になる。

彼女の仕事はCHANELを最終形へ完成させることではない。

そもそも100年企業に最終形はない。

次の人間へ渡す。

その人がさらに変える。

また次へ渡す。

だから継承者に求められるのは、自分の時代ですべてを使い切ることではない。

次の世代がまだ創造できる状態を残すことである。

これは企業の所有者にも、経営者にも、職人にも共通する。



ヴィアールからブレイジーへ

2024年にヴィアールが退任し、同年12月にマチュー・ブレイジーの就任が発表された。

ここでヴィアールの継承は一つの結果を持つ。

CHANELは壊れていなかった。

アーカイブはある。

職人はいる。

ブランドコードは強い。

顧客はいる。

企業には巨大な投資能力がある。

そして次の創造者が、CHANELの歴史を新しく読むことができる。

つまり継承は成功して初めて、次の更新を可能にする。



継承と更新は対立しない

ここが重要である。

ContinuityとUpdateを対立させる必要はない。

むしろ、

継承があるから更新できる。

更新があるから、継承されたものが次の時代にも価値を持つ。

という関係にある。

ガブリエル・シャネルのコードが残ったからラガーフェルドは更新できた。

ラガーフェルドの創造と企業組織が残ったからヴィアールは継続できた。

ヴィアールが継続したから、その後にブレイジーが新しい更新を始められる。

企業の時間は、断絶したリーダー交代ではなく、前の世代が次の世代の条件をつくることによって続いていく。



継承とは未来のために過去を残すこと

継承というと、過去を守る行為に見える。

しかし本質は未来にある。

職人技を残すのは、昔の技術だからではない。

未来の商品をつくれるからである。

アーカイブを残すのは、過去を懐かしむためだけではない。

未来のデザイナーが読めるからである。

ブランドコードを残すのは、古いルールだからではない。

未来の商品をCHANELとして認識可能にするからである。

顧客との信頼を守るのは、過去に商品を買ってくれたからだけではない。

未来にも関係が続く可能性があるからである。

つまり、

継承とは、過去を未来の資源として残す仕事なのである。



2019年から2024年の意味

この観点から見ると、ヴィアールの約5年間はCHANEL史の空白ではない。

ラガーフェルド時代とブレイジー時代の間に何も起こらなかったのではない。

その間に、

巨大な創造者の死。

新しい継承。

パンデミック。

顧客行動の変化。

急速な売上回復。

大幅な価格上昇。

希少性戦略。

企業経営の交代。

そして次のデザイナー選定。

が重なっている。

CHANELはこの期間に、単に服をつくり続けただけではない。

次の時代へ移るための企業状態を維持した。



継承の先に現れる問題

しかし継承だけでは永遠には続かない。

市場は動く。

価格は上がる。

顧客の期待も上がる。

競合も変化する。

ブランドが強いほど、次の創造へ求められる水準も高くなる。

そして2020年代前半、CHANELでは価格と希少性が経営上の大きな特徴として目立つようになる。

そこにはパンデミック後の世界的なラグジュアリー需要、供給制約、インフレ、為替、品質投資、世界価格の調整、ブランドポジショニングなど複数の要因が重なる。

それは単なる値上げの問題ではない。

「CHANELは誰のためのブランドなのか」

という問いにもつながる。

しかし、その前提となった世界的な断絶がある。

2020年から始まったパンデミックである。

店舗。

旅行。

ショー。

顧客。

サプライチェーン。

働き方。

世界のラグジュアリーを支えていた条件が一度に揺らいだ。

次節では、その危機のなかでCHANELが何を守り、何を変えたのかを見る。

第4節 パンデミックとラグジュアリー

世界が動けなくなったとき、移動・店舗・身体・対面体験に支えられてきたラグジュアリーは、どのように価値を維持したのか。
第4節 パンデミックとラグジュアリー

2020年、世界のラグジュアリー産業は、それまで当然としてきた前提を一度に失った。

人が移動する。

都市に集まる。

海外旅行をする。

ブティックへ入る。

商品へ触れる。

販売員と話す。

ファッションショーへ人々が集まる。

世界各国の顧客がパリ、ロンドン、ニューヨーク、東京、香港などで買い物をする。

こうした行動によって、現代ラグジュアリーの巨大な市場は成立していた。

新型コロナウイルスの世界的流行は、その流れを停止させた。

CHANELにとって、それは単なる一時的な売上減少ではなかった。

2019年にカール・ラガーフェルドを失い、ヴィルジニー・ヴィアールへの継承を始めた直後に、ブランド、店舗、身体、移動、顧客というラグジュアリーの基本構造そのものが試される危機が訪れたのである。

ラグジュアリーは身体的な産業である

デジタル化が進んでも、ラグジュアリーには強い身体性が残る。

ジャケットを着る。

バッグを持つ。

ジュエリーを身につける。

香水を試す。

化粧品を肌へつける。

時計を腕へ巻く。

素材に触れる。

鏡を見る。

販売スタッフと話す。

通常の商品購入以上に、人間の感覚と接触が重要になる。

CHANELは、その典型である。

創業以来、身体との関係を重視してきたメゾンだからだ。

ところがパンデミックでは、人と物、人と人との接触そのものが制限された。

これはCHANELにとって根本的な矛盾を突きつけた。

身体を中心に価値をつくってきたブランドが、身体的接触を制限された世界でどう存在するのか。



店舗が閉じる

感染拡大への対応として、世界各地で商業施設やブティックが一時閉鎖された。

ラグジュアリー産業には大きな影響が出る。

CHANELのブティックは単なる商品倉庫ではない。

立地。

建築。

内装。

商品配置。

接客。

試着。

顧客との会話。

それら全体がブランド体験をつくる。

だから店舗が閉まることは、販売チャネルが一つ失われる以上の意味を持った。

CHANELという世界への物理的な入口が閉じるのである。

ここで企業は、それまで店舗の内部で行っていた顧客との関係を、別の方法で維持する必要に迫られた。



観光客が消える

パンデミック以前の世界的ラグジュアリー市場では、国際旅行者による消費が極めて重要だった。

中国をはじめとするアジアの富裕層が欧州を訪れる。

日本人がパリで購入する。

米国人が欧州で買う。

旅行そのものとラグジュアリー消費が結びついていた。

しかし国境が閉じる。

航空便が減る。

観光客が消える。

すると、それまで旅行先で発生していた需要も消える。

ここで一つの変化が起きた。

顧客が商品を求めて世界を移動するモデルから、

ブランドが、それぞれの地域にいる顧客との関係を深めるモデルへ

比重が移る。

これはパンデミック後のCHANELの店舗戦略や顧客戦略を考えるうえで重要な変化だった。



Local Clientの再発見

国際旅行ができないなら、東京の顧客は東京にいる。

パリの顧客はパリにいる。

ニューヨークの顧客はニューヨークにいる。

企業は自国・自地域の顧客と、より直接的な関係を築かなければならなくなる。

長年ラグジュアリー企業は旅行者需要を重要視してきたが、パンデミックは現地顧客の価値を改めて浮き彫りにした。

一度だけ旅行で購入する顧客ではない。

長期間同じ店舗へ通う。

販売スタッフと関係を築く。

好みを理解してもらう。

新商品を紹介してもらう。

購入後のサービスを受ける。

こうした関係である。

CHANELにとって、これは本来持っていたメゾン的な顧客関係へ戻る動きでもあった。



デジタル化という圧力

店舗が閉じれば、当然デジタルの重要性が増す。

オンライン情報。

映像。

SNS。

顧客との遠隔コミュニケーション。

デジタル接客。

ラグジュアリー企業もデジタルとの関係を急速に見直す必要に迫られた。

しかしCHANELにとって、単純なEC化が答えだったわけではない。

高価格商品ほど、顧客は実物を見たい。

触れたい。

試したい。

販売スタッフと話したい。

ブランド側も、商品の販売環境を厳密に管理したい。

したがって重要になったのは、

PhysicalかDigitalか

という二者択一ではなかった。

デジタルを、身体的な顧客体験を代替するものではなく、補完するものとしてどう使うかという問題だった。



ファッションショーから観客が消える

パンデミックは、ラガーフェルド時代に巨大化したファッションショーにも直接影響した。

世界中から顧客、編集者、ジャーナリスト、著名人を集める。

巨大な空間をつくる。

そこで一度限りの出来事を生み出す。

そのモデルが成立しにくくなった。

するとショーの本質が改めて問われる。

観客が会場にいなくてもコレクションを発表できるのか。

できる。

映像として届ければよい。

しかし、それは単純な記録映像では足りない。

画面で見る人に、服の動き、素材、雰囲気、物語をどう届けるか。

ここからファッション映像そのものの重要性が高まる。

ランウェイが、

Physical EventからMedia Contentへ

さらに大きく移行したのである。



ラガーフェルドの遺産をそのまま拡大できない

これはCHANELにとって象徴的な転換だった。

ラガーフェルドは巨大なショー空間を完成させた。

しかしパンデミックは、巨大なイベントを物理的に拡大し続けることの脆弱性を露呈した。

人が集まれない。

移動できない。

セットをつくっても観客がいない。

ここから、規模の大きさ以外の価値が重要になる。

服そのもの。

映像。

物語。

職人技。

顧客との関係。

つまり、ラグジュアリーは一度、

ExpansionからDepthへ

視線を戻さざるを得なくなった。



服は何のためにあるのか

生活も変わった。

在宅勤務。

外出制限。

イベントの中止。

旅行の停止。

大勢での会食の減少。

人々が服を着る場面そのものが変化した。

するとファッションには根本的な問いが戻ってくる。

誰のために着るのか。

身体にとって快適か。

長く使うことに価値はあるか。

家で過ごす時間が長くなってもラグジュアリーは必要なのか。

CHANELの歴史を振り返れば、これは奇妙な問いではない。

ガブリエル・シャネル自身が、女性の実際の生活と身体から服を考えた人物だったからである。

パンデミックは、100年後のCHANELをもう一度その原点へ近づけたとも考えられる。



需要は消滅したわけではなかった

パンデミック初期、ラグジュアリー市場は大きな打撃を受けた。

しかし興味深いことに、需要そのものが永久に消えたわけではない。

世界経済が段階的に再開すると、高級品需要は強く回復した。

背景には複数の要因があった。

富裕層の資産状況。

旅行やサービス消費に使えなかった所得。

政府・中央銀行による大規模な経済対策。

株式・不動産など資産価格の上昇。

消費行動の変化。

そして危機後に高まった高品質・希少品への需要。

ラグジュアリー市場は想像以上の速度で回復する。

CHANELもこの回復局面で大きく成長した。



「少なくても強い」顧客

ここで重要なのは、ラグジュアリー企業の顧客構造である。

大量消費財では、膨大な人数へ低価格商品を販売する。

最高級ラグジュアリーでは、比較的限られた顧客が非常に大きな購買力を持つ。

そのため、世界全体の消費者が均等に回復しなくても、高所得層・高資産層の需要が強ければ市場は大きく回復し得る。

この構造は、パンデミック後にさらに鮮明になった。

CHANELにとっても、

顧客数を無制限に増やすことより、

ブランドとの長期関係を持つ顧客の価値

がより重要になっていく。



供給は簡単には増やせない

需要が急回復すると、別の問題が起きる。

供給である。

CHANELの商品は、一般的な工業製品のように、需要が2倍になったから翌月に生産能力を2倍にできるものではない。

熟練職人。

高品質な素材。

厳格な品質管理。

工房。

生産設備。

これらには時間が必要になる。

したがって、

需要の回復

供給能力の拡大

という状態が起こり得る。

ここから価格と希少性の意味が大きくなる。



インフレとコスト

さらにパンデミック後には、世界的なインフレ圧力が強まった。

原材料。

輸送。

エネルギー。

人件費。

物流。

為替。

企業を取り巻くさまざまなコスト条件が変化する。

高品質を維持し、職人へ投資し、世界各地の店舗を運営するCHANELにも無関係ではない。

価格改定には、こうしたコスト上昇への対応という側面がある。

しかしCHANELの2020年代の価格戦略を、インフレだけから説明することもできない。

より大きなブランド戦略が同時に存在した。



希少性を再設計する

需要が強い。

供給には制約がある。

ブランド価値も高い。

この条件で企業が選べる方法の一つが価格の引き上げである。

価格が上がれば、

需要を一定程度抑えられる。

商品一単位あたりの収益を増やせる。

より高い価格帯へブランドを位置づけられる。

希少性を強められる。

ここでCHANELは、単にパンデミック前の状態へ戻るのではなく、より上位の価格帯へ進んでいく。

パンデミックは一時的な危機だった。

しかし、その後のCHANELの市場ポジションには長期的な変化が生じた。



量ではなく単価

通常の企業成長では、

販売数量を増やす。

店舗を増やす。

顧客を増やす。

という方法が中心になる。

しかし最高級ラグジュアリーでは、別の成長方法がある。

販売数量を大幅に増やさない。

一つの商品当たりの価値を高める。

価格を上げる。

顧客体験を深める。

希少性を高める。

つまり、

Volume GrowthからValue Growthへ

である。

パンデミック後のCHANELの価格戦略は、この方向を強く示すものになった。



危機が企業の本質を見せる

パンデミックは、企業にとってストレステストだった。

何がなくなると事業が止まるのか。

何を守る必要があるのか。

どの資産が本当に重要なのか。

CHANELの場合、危機を通して見えたのは、

ブランド。

顧客。

職人。

商品。

店舗。

資本。

組織。

が相互に支え合う構造だった。

店舗が一時的に閉じてもブランドは残る。

旅行者が消えても現地顧客がいる。

ショーが変化してもクリエイションは続く。

需要が回復すれば、強いブランドには顧客が戻る。

つまりCHANELは、単一の販売チャネルに依存する企業ではなかった。



非上場企業の耐久力

そして、この局面でCHANELの所有構造も意味を持つ。

非上場であり、ヴェルテメール家による安定した所有を持つことによって、短期的な株式市場の反応だけに経営を合わせる必要がない。

危機の中でも、

人材。

職人。

店舗。

サプライチェーン。

ブランド。

への長期投資を考えることができる。

パンデミックは、この財務的な余裕と長期経営能力の価値を改めて示した。



世界が再開しても、元には戻らなかった

やがて店舗は再開する。

旅行も戻る。

ファッションショーも観客を迎えるようになる。

しかし世界は2019年へ完全に戻ったわけではない。

デジタルとの接点は増えた。

現地顧客の重要性が高まった。

価格は上昇した。

ラグジュアリー市場の地域構成も変化した。

サプライチェーンの安全性が重視されるようになった。

環境問題への関心も強くなった。

そして企業は、世界的危機が再び起こり得ることを経験した。

パンデミックは一時的な断絶だったが、その後の経営モデルを変えたのである。



CHANELにとっての2020年

CHANEL史のなかで2020年を位置づけるなら、それは「世界が止まった年」であると同時に、

CHANELの価値がどこに存在するのかを再確認した年

でもあった。

巨大なショーだけではない。

旅行者消費だけでもない。

店舗だけでもない。

ラガーフェルドという一人の人物でもない。

歴史。

ブランドコード。

クラフト。

顧客。

商品。

組織。

資本。

それらが一体となってCHANELを支えていた。

だから危機を通過することができた。



危機から価格と希少性へ

しかし、危機を越えた後に新しい問題が始まる。

需要が急速に戻る。

供給は簡単には増やせない。

インフレが進む。

世界の価格差が問題になる。

最高級ブランド間の競争も激しくなる。

CHANELは主要商品の価格を繰り返し引き上げ、ブランドをさらに高い価格帯へ位置づけていく。

そこには大きな問いがある。

価格を上げれば希少性は高まる。

しかし、

価格の上昇と価値の上昇は、本当に同じなのか。

長期的なブランドにとって最も重要なのは、値札ではない。

顧客がその価格に見合うだけの創造性、品質、クラフト、サービス、歴史、そして特別な経験を感じ続けられるかどうかである。

パンデミック後のCHANELは、まさにこの境界へ進んでいく。

次節では、その2020年代のCHANELを象徴する経営問題を見る。

第5節 価格と希少性

CHANELはなぜ価格を引き上げ、より排他的なラグジュアリーへ進んだのか。そして価格を上げ続ける戦略には、どのような力と限界があるのか。
第5節 価格と希少性

ラグジュアリーにおいて、価格は単なる交換条件ではない。

原材料費、人件費、物流費、店舗費用、広告費を積み上げ、その上に一定の利益を加えれば価格が決まる――一般的な商品であれば、この考え方には大きな意味がある。

しかしCHANELのようなブランドでは、それだけでは価格を説明できない。

歴史。

創造性。

クラフトマンシップ。

希少性。

店舗体験。

ブランドへの信頼。

社会的認知。

修理やアフターサービス。

そして、その商品をCHANELとして所有することそのもの。

これらの無形価値が価格へ重なる。

だから2020年代にCHANELが主要商品の価格を大きく引き上げていったことは、単なる「値上げ」として見るだけでは不十分である。

そこで進んでいたのは、CHANELというブランドを、世界のラグジュアリー市場のどの位置に置くのかという再設計でもあった。

パンデミック後の価格

2020年以降、CHANELは主要なハンドバッグを中心に複数回の価格改定を実施した。

背景は一つではない。

原材料価格。

人件費。

物流費。

為替変動。

各国の税制や価格差。

製造能力。

職人への投資。

品質維持。

そして世界的な需要。

パンデミック後には、富裕層を中心とするラグジュアリー需要が強く回復した一方、高度なクラフトを必要とする商品の供給能力を同じ速度で増やすことは難しかった。

需要が急増する。

供給には限界がある。

そこに価格上昇が起きる。

経済学的には不自然ではない。

しかしCHANELの場合、その価格改定はブランドの長期的な位置づけとも結びついていた。



供給を増やせばよいのか

通常の商品なら、需要が強ければ生産量を増やす。

工場を拡大する。

生産ラインを追加する。

販売チャネルを増やす。

一個でも多く販売する。

しかしラグジュアリーでは、その方法を無制限には使えない。

熟練職人は短期間では育たない。

高品質な素材にも限りがある。

生産速度を上げすぎれば品質管理へ負荷がかかる。

さらに重要なのは、供給量そのものがブランド価値へ影響することである。

誰でも、いつでも、どこでも容易に購入できるようになれば、商品の特別性が弱まる可能性がある。

したがって最高級ラグジュアリーでは、

需要があるから供給を最大化する

という一般企業の論理が、必ずしも最適ではない。



希少性とは何か

希少性という言葉は、「商品数を少なくすること」と理解されやすい。

しかし本当の希少性は、もっと複雑である。

物理的な供給量。

職人技術。

素材。

購入できる場所。

価格。

顧客へのアクセス。

ブランドの文化的評価。

これらが重なって成立する。

100個しか存在しない商品でも、誰も欲しくなければ希少価値は生まれない。

反対に供給量が一定程度あっても、世界中の需要がそれを大きく上回れば、希少性は形成される。

つまりラグジュアリーにおける希少性とは、

供給の少なさではなく、欲望とアクセスの差

でもある。



価格はアクセスを制御する

価格には、この差を調整する機能がある。

価格が上がる。

購入できる顧客が限定される。

販売数量への圧力が下がる。

ブランドはより高い所得・資産層へ集中する。

一商品当たりの収益は増える。

企業はその収益を店舗、職人、素材、サービスなどへ再投資できる。

この構造だけを見れば、値上げには合理性がある。

とりわけ需要が供給能力を大きく上回る状況では、価格は需給を調整する重要な手段になる。

しかし、ここには極めて重要な条件がある。

顧客が感じる価値も、価格とともに上がらなければならない。



PriceとValueは同じではない

一つの商品が100万円から150万円になったとする。

値札上の価格は50%上昇した。

しかし、それによって商品の価値が自動的に50%増えたわけではない。

顧客は問う。

素材はどう変わったのか。

職人技はどう高まったのか。

デザインはそれだけ魅力的なのか。

サービスは改善したのか。

希少性は本物なのか。

ブランドは文化的にそれだけ強くなったのか。

長く使用できるのか。

修理できるのか。

この問いに十分な答えがなければ、

Price

Perceived Value

という状態が生まれる。

これは長期ブランドにとって危険である。



値上げはブランド資産を使う

強いブランドほど値上げしやすい。

顧客がブランドを信頼しているからである。

100年以上の歴史。

ガブリエル・シャネル。

ラガーフェルド。

N°5。

2.55。

ツイード。

カメリア。

こうした蓄積が、現在の商品価格を支える。

つまり価格を引き上げるという行為は、ある意味では過去に蓄積したブランド資産を利用することでもある。

しかし資産は使い方を誤れば減る。

値上げのたびに、

創造性。

品質。

顧客体験。

文化的魅力。

との均衡が維持されなければ、長年蓄積した信頼を消費してしまう可能性がある。

だから価格戦略は、財務部門だけの問題ではない。

クリエイションそのものと接続している。



CHANELとHermès

2020年代のCHANELの価格上昇が注目された理由の一つは、一部の代表的バッグがHermèsの価格帯へ近づいていったことである。

しかし両社の価値形成モデルは同一ではない。

Hermèsには、極めて限定された生産能力、熟練職人による制作、特定バッグへの非常に強い需要、購入機会そのものの希少性など、独自の構造がある。

CHANELにはCHANELの構造がある。

ファッション。

バッグ。

フレグランス。

ビューティ。

時計。

ファインジュエリー。

そして毎シーズン更新されるクリエイション。

したがってCHANELが価格だけをHermèsへ近づければ同じ価値体系になるわけではない。

重要なのは、

CHANEL固有の価格根拠を強くすること

である。

その中心には創造とクラフトがなければならない。



「高いから欲しい」は永久には続かない

ラグジュアリーには、価格そのものが魅力を生む側面もある。

容易に購入できない。

所有者が限られる。

そのことが社会的価値を生む。

しかし価格だけによる希少性には限界がある。

高いだけの商品はいずれ代替される可能性がある。

本当に強いラグジュアリーは、

高いから欲しい

だけではなく、

これでなければならないから欲しい

という需要を持つ。

そのためには商品そのものに固有性が必要になる。



創造性と価格

ここでヴィルジニー・ヴィアール時代の評価にも価格が関わってくる。

CHANELの商品価格が上昇すれば、顧客がクリエイションへ求める水準も高くなる。

価格が二倍近くなっても、デザインが単なる過去の反復に見えるなら、顧客の評価は厳しくなる。

逆に、

新しい美。

高度なクラフト。

優れた素材。

長期間使える設計。

特別な顧客体験。

が伴えば、価格を支持する理由は強くなる。

つまりラグジュアリーでは、

Pricing PowerとCreative Powerを長期間分離することはできない。

価格決定力は、過去のブランド資産から生まれる。

しかしその力を維持するのは、現在の創造である。



商品数を増やさない成長

CHANELの価格戦略には、企業成長の別の形も見える。

一般企業では、

100個売る

110個売る

120個売る

という数量成長が中心になる。

ラグジュアリーでは、

100個を売る

一個当たりの価値を高める

という成長も可能である。

これは販売数量を無限に増やさず、企業価値を高める方法である。

特にクラフト生産では合理性がある。

職人に無理な増産を要求しない。

希少性を守る。

品質を維持する。

一商品当たりの付加価値を高める。

この方向は、資源制約や環境負荷という問題とも将来的には接続する。



購入制限という別の希少性

価格だけが希少性をつくる方法ではない。

一部市場では、人気商品の購入数量に一定の制限を設けると報じられてきた。

その目的には、需要管理だけでなく転売対策や、より多くの正規顧客へ購入機会を提供することも含まれ得る。

ここで重要なのは、ブランドが単に「いくらで売るか」だけでなく、

誰に、どれだけ、どのように売るか

まで管理する方向へ進むことである。

これは通常の小売業とはかなり異なる。

一般小売は購入量が多い顧客を歓迎する。

ラグジュアリーでは、過剰購入や転売がブランドの顧客構造を損なう場合がある。



転売市場という問題

CHANELのバッグには活発な中古市場が存在する。

これはブランドに二つの意味を持つ。

一方では、商品が長期的な残存価値を持っていることを示す。

古いバッグでも需要がある。

ヴィンテージにも市場がある。

これは商品の耐久性とブランド価値を示す強い証拠になり得る。

しかし他方では、短期的な転売目的の購入も生み得る。

新品を購入する。

すぐに中古市場へ出す。

価格差から利益を得る。

こうなると、ブランドが望む長期顧客との関係とは異なる市場が形成される。

したがってCHANELにとって中古市場は、価値の証明であると同時に管理上の課題でもある。



希少性と顧客選別

価格が上がり、購入機会が限定され、店舗体験が高度化すると、顧客構造も変化する。

誰でも同じように店舗へ入り、同じ商品へアクセスするモデルから、

より深い関係を持つ顧客を重視するモデルへ。

重要顧客には、

商品の先行紹介。

個別接客。

特別な空間。

イベント。

より深い商品知識。

などが提供される可能性がある。

ここで店舗は単なる販売場所から、

Client Relationship Platform

へ近づいていく。



VIPだけのブランドになればよいのか

しかしここにも限界がある。

ラグジュアリーブランドは希少である必要がある。

同時に、次世代の顧客にも憧れられる必要がある。

現在の最重要顧客だけに閉じれば、ブランドの文化的な広がりが失われる可能性がある。

若い人がN°5を知る。

ビューティからCHANELへ入る。

ファッションショーを見る。

いつかバッグを購入したいと思う。

こうした長い顧客形成も重要である。

したがってCHANELには、

現在の高価値顧客を深くすること

と、

未来の顧客にブランドへの入口を残すこと

の両方が必要になる。



Fragrance & Beautyという開かれた入口

この点で、CHANELの複数事業構造は重要である。

Fashionの最高価格帯がより排他的になっても、Fragrance & Beautyには比較的広い顧客接点がある。

香水。

口紅。

スキンケア。

それらを通して、より多くの人がCHANELというブランドを経験できる。

つまりCHANEL全体では、

上位層は希少性を高める。

一方でブランドとの最初の接点は比較的広く維持する。

という階層構造を持つことができる。

これはラグジュアリー企業として大きな強みである。



世界価格をどう管理するか

グローバルブランドには地域価格の問題もある。

為替が変化する。

税率が違う。

関税が違う。

すると同じ商品でもパリと東京、ニューヨークなどで大きな価格差が生まれる場合がある。

価格差が広がれば、顧客は安い国で購入する。

旅行需要が価格差を追う。

転売業者も動く。

そのためCHANELは長年、主要市場間の価格差を管理する方向を取ってきた。

ここには、

世界のどこで買ってもCHANELは同じ価値体系に属する

というブランド管理の考え方がある。

完全な同一価格という意味ではない。

しかし過度な地域差を抑えることは、世界的なブランドポジションを維持するうえで重要になる。



値上げの限界

価格決定力は強い企業の証拠である。

しかし無限ではない。

顧客には選択肢がある。

Hermès。

Dior。

Louis Vuitton。

Bottega Veneta。

Celine。

その他のラグジュアリーブランド。

さらにはヴィンテージや中古市場。

商品ではなく旅行、アート、不動産などへ資金を使う選択肢もある。

したがって価格が上昇するほど、

「なぜCHANELなのか」

という問いが強くなる。

この問いへの答えを価格自身が出すことはできない。

答えるのは、

創造。

クラフト。

歴史。

顧客体験。

そして商品そのもの

である。



希少性は関係から生まれる

最も強い希少性は、単に物が少ないことではない。

誰でもつくれるものではない。

誰でも同じ品質を出せない。

誰でも100年の歴史を持てない。

同じ職人ネットワークを短期間では構築できない。

同じ顧客との関係もすぐにはつくれない。

つまり本当の希少性は、

Quantityの不足ではなく、Capabilityの希少性

から生まれる。

CHANELにとって、職人、アトリエ、素材、アーカイブ、ブランドコード、顧客との信頼は、すべてこの能力的希少性を支える。



価格から価値へ戻る

2020年代前半のCHANELは、強い価格決定力を世界へ示した。

しかし、それ自体が最終目的ではない。

価格は結果である。

その価格を可能にする価値の方が重要である。

もし一つのバッグが非常に高価になるなら、

長く使える。

修理できる。

何年後にも美しい。

時代を超えて認識される。

場合によっては次の所有者へ受け継げる。

そこまで価値の時間を伸ばせれば、価格の意味も変わる。

購入時の高価格だけでなく、

長期的な使用価値

として評価できるからである。



希少性から長期価値へ

ここでCHANELの価格戦略は、本書後半の重要な主題へつながっていく。

新品価格だけを見てCHANELの価値を判断するのか。

それとも、

素材。

クラフト。

耐久性。

修理。

愛着。

ブランドの歴史。

中古市場。

次の所有者。

まで含めて考えるのか。

もし後者なら、ラグジュアリーの価値は販売時点だけには存在しない。

商品が人間とともに過ごす時間のなかでも形成される。



価格は境界線である

結局、価格には複数の機能がある。

収益を生む。

需要を調整する。

希少性を高める。

ブランドポジションを示す。

顧客を選別する。

長期投資の原資をつくる。

しかし同時に、価格は顧客との関係の境界にもなる。

価格を上げれば、CHANELの内側へ入れる人は少なくなる。

だからこそ、値上げを続ける企業には、それ以上に強い責任が生まれる。

高い価格を要求するなら、高い価値を継続的につくらなければならない。



CHANELが試される地点

パンデミック後、CHANELは強い需要と価格決定力を背景に、さらに上位のラグジュアリーへ進んだ。

しかし、それによって新しい課題も生まれた。

価格が上がるほど、創造への期待も上がる。

希少性を高めるほど、一つの商品に求められる独自性も高くなる。

既存コードだけではなく、新しいCHANELを見たいという要求も強くなる。

つまり、価格戦略の成功そのものが、

次の創造的更新を必要とする。

ここに2024年の転換へ至る重要な背景がある。

ヴィルジニー・ヴィアールの時代にCHANELは継承され、企業は大きく成長し、価格帯は上昇した。

しかし、ブランドがさらに高い位置へ進んだなら、その位置にふさわしい次の創造も必要になる。

2024年6月、ヴィアールは退任する。

CHANELは再び、次の創造者を選ぶことになる。

次節で見るのは、その境界である。

第6節 2024年の転換

継承によって守られたCHANELは、なぜもう一度「更新」を必要としたのか。
第6節 2024年の転換

2024年は、CHANELにとってもう一つの境界となった。

2019年、カール・ラガーフェルドが死去した。

その後、ヴィルジニー・ヴィアールが約5年間にわたってファッション部門の創造を担い、CHANELはパンデミックという世界的危機を通過した。その間にも企業規模は拡大し、ブランドの価格帯は上昇し、職人、店舗、サプライチェーンへの投資も続いた。

企業としてのCHANELは弱くなっていたわけではない。

むしろ、極めて強い経営体力を持つ世界最大級のラグジュアリーメゾンとなっていた。

それでも2024年6月、ヴィアールはCHANELを離れる。

この出来事が示したのは、経営的に強いことと、創造的な更新を必要としないことは同じではないという事実だった。

継承期の終わり

ヴィアールの約5年間を理解するには、その始点を思い出す必要がある。

2019年。

ラガーフェルドという約36年間の巨大な時代が突然終わった。

このときCHANELが必要としていたのは、急激な革命ではなかった。

創造を止めないこと。

アトリエをつなぐこと。

ブランドコードを維持すること。

顧客に連続性を与えること。

巨大なブランドを不安定にしないこと。

ヴィアールは、その役割を果たした。

だが、継承には終わる時点がある。

継承が長く続きすぎれば、やがて問いが変わるからである。

「ラガーフェルドの後をどうつなぐか」

から、

「これからのCHANELは何を新しく生み出すのか」

へ。

2024年は、その問いが前面へ出た年だった。



企業は成長していた

この転換を業績悪化だけから説明することはできない。

CHANELは2020年代前半に大きく成長した。

パンデミックによる落ち込みから回復し、2023年には売上高が200億ドル近い規模に達した。

Fashionだけではない。

Fragrance & Beauty。

Watches & Fine Jewelry。

世界各地のブティック。

巨大なブランド資産。

CHANELの企業基盤そのものは非常に強かった。

だから2024年の転換は、

「企業が危機だからデザイナーを変える」

という単純な構造ではない。

むしろ、

企業価値が大きくなったからこそ、その企業価値を支える創造性にもより高い水準が要求されるようになった

と見る方が重要である。



価格が上がれば、創造への要求も上がる

前節で見たように、2020年代前半のCHANELでは代表的商品を中心に価格が大きく上昇した。

価格が上がること自体には合理性がある。

インフレ。

人件費。

素材。

物流。

為替。

品質への投資。

希少性。

世界的な価格体系。

しかし、ラグジュアリーでは価格上昇が別の作用を持つ。

顧客の期待値も引き上げる。

より高価になったバッグ。

より高価になった服。

より高価になったジュエリー。

それならば、

もっと特別であるべきではないか。

もっと美しくあるべきではないか。

もっと新しくあるべきではないか。

もっと長く使えるべきではないか。

という問いが生まれる。

つまり価格上昇には、

Creative Expectationの上昇

が伴う。



ブランド資産だけでは永遠に価格を支えられない

CHANELには強力な歴史がある。

ガブリエル・シャネル。

N°5。

2.55。

ツイード。

カメリア。

ラガーフェルド。

このブランド資産は極めて大きい。

しかし、その歴史を価格上昇の根拠として永久に使い続けることはできない。

過去の価値を現在の商品へ乗せることはできる。

だが現在の商品が新しい価値を生まなければ、いずれ過去の資産を消費するだけになる。

長寿ブランドには、

Heritageを使うことと、Heritageを増やすこと

の両方が必要なのである。

2024年のCHANELには、次のHeritageを生み出す創造が改めて求められていた。



市場も変わり始める

2021年から2023年にかけて世界のラグジュアリー市場は強い回復を経験した。

しかし、その成長が永久に同じ速度で続くわけではない。

金利。

インフレ。

中国経済。

不動産市場。

地政学。

富裕層消費。

為替。

旅行。

さまざまな条件が変化する。

2024年には、ラグジュアリー市場全体で成長鈍化への警戒が強くなる。

需要が無条件に拡大する局面では、価格上昇や店舗拡大によって企業成長を得やすい。

しかし市場が選別局面へ入れば、顧客はより厳しく問う。

なぜこのブランドなのか。

なぜこの商品なのか。

なぜこの価格なのか。

ここで再び創造性が重要になる。



Expansionだけでは足りなくなる

1983年以降のCHANELには、非常に強い拡大の時間があった。

ブランドを若返らせる。

世界へ広げる。

店舗を増やす。

顧客を増やす。

商品カテゴリーを発展させる。

ショーを巨大化する。

価格帯を引き上げる。

これは極めて強力な成長モデルだった。

しかし企業規模が十分に大きくなると、同じ方向を無限に続けることはできない。

店舗を増やし続ける。

価格を上げ続ける。

認知度を上げ続ける。

供給を増やし続ける。

どこかで限界が来る。

そこで企業は次の問いへ移る。

どれだけ大きくなるかではなく、どれだけ深く価値をつくれるか。

2024年のCHANELには、この転換の兆候を見ることができる。



創造の空白

ヴィアールの退任後、CHANELは直ちに次のアーティスティック・ディレクターを発表したわけではなかった。

ここにも意味がある。

世界最高峰のブランドの創造責任者を選ぶことは、単なる人材採用ではない。

候補者がどれだけ有名か。

売れる服をつくれるか。

それだけでは足りない。

100年以上のアーカイブを読めるか。

クラフトを理解できるか。

CHANELの身体観を理解できるか。

ブランドコードをコピーせず使えるか。

新しい世代へ届くか。

巨大企業と協働できるか。

それをすべて考えなければならない。

選ばれる人物は、CHANELの数年ではなく、場合によっては次の数十年を変える。



スター・デザイナーを選べばよいのか

現代ラグジュアリーでは、クリエイティブ・ディレクターの交代が大きなニュースになる。

著名なデザイナーを招聘すれば、瞬間的な注目を集めることができる。

しかしCHANELほど歴史の強いブランドでは、知名度だけで選ぶことは危険である。

外部から強烈な自己表現を持ち込めば、CHANELのコードと衝突する可能性がある。

反対に、CHANELへ忠実すぎる人物を選べば、次の更新が起こらない。

必要なのは、

RespectとIndependence

を同時に持つ人物である。

歴史を尊重する。

しかし歴史に支配されない。



その時、経営側では別の時間が動いていた

2024年の転換をデザイナーだけから見てはいけない。

CHANELではすでに2022年から、経営側でも重要な交代が起きていた。

リーナ・ナイルがグローバルCEOに就任している。

これはCHANELの歴史でも異例の選択だった。

ラグジュアリー企業の内部からではない。

ユニリーバで人事を中心にグローバル経営を経験してきた人物である。

つまり2024年時点では、

Managementはすでに更新されていた。

そこへ、

Creationの更新

を接続する必要があった。



二つの異なる専門性

CEOとアーティスティック・ディレクターは、同じ仕事をしない。

CEOは、

組織。

人材。

財務。

店舗。

投資。

サプライチェーン。

地域市場。

環境。

長期経営。

を見る。

アーティスティック・ディレクターは、

服。

身体。

素材。

シルエット。

歴史。

コード。

美。

文化。

を見る。

しかしCHANELという一つの企業では、最終的に両者は接続される。

素晴らしい服をつくっても、企業として製造できなければならない。

巨額の投資をしても、創造が弱ければブランド価値は維持できない。

だから2024年以降のCHANELでは、

経営の更新と創造の更新をどう統合するか

が新しい課題になった。



なぜマチュー・ブレイジーだったのか

2024年12月、CHANELはマチュー・ブレイジーをファッション部門のアーティスティック・ディレクターに任命すると発表した。

この選択には、CHANELの次の方向を読む手がかりがある。

ブレイジーは、単に強いロゴや大規模なマーケティングによってブランドを動かすタイプのクリエイターとして評価されてきたわけではない。

服を見る。

素材を見る。

構造を見る。

職人技を見る。

一見単純に見えるものを、極めて高度な技術によってつくる。

過去を全否定してブランドを別物にするのではなく、既存の資産を読みながら新しい状態へ更新する。

こうした能力はCHANELと高い親和性を持つ。



Craftへ戻るのではない

ここで「クラフトへの回帰」とだけ表現すると不十分である。

CHANELはそもそもクラフトを捨てたことがない。

メティエダール。

アトリエ。

le19M。

高度な職人技術は長年企業の中心にある。

問題は、クラフトが存在するかどうかではない。

クラフトからどれだけ新しい創造を生み出せるか

である。

職人技を伝統保存として見せるだけなら博物館になる。

新しいデザイナーがその技術へ新しい要求を出せば、クラフトは未来の表現になる。

ブレイジーの就任は、その可能性を大きくした。



Updateという仕事

ここで2019年と2024年の違いが明確になる。

2019年に必要だったのは、

Continuation

だった。

2024年以降に必要になったのは、

Update

である。

しかしUpdateとは全面的な刷新ではない。

CHANELの歴史を削除しない。

ガブリエル・シャネルを捨てない。

ラガーフェルドを否定しない。

ヴィアールの時間も消さない。

すべてを持ったまま、現在へ合わせて磨き直す。

これは新興ブランドの創造とは違う。

100年企業だから可能な創造である。



何を更新するのか

更新対象は服だけではない。

ブランドと顧客の関係。

価格と価値の関係。

店舗とデジタルの関係。

創造とAIの関係。

人間と組織の関係。

クラフトと技術の関係。

成長と希少性の関係。

企業と環境の関係。

歴史と未来の関係。

CHANELの次の時代は、これらの複数の更新が同時に必要になる。

だから2024年をデザイナー交代だけの年として見ると、本質を見失う。



「もっと大きく」から「もっと良く」へ

長期的な視点では、ここにCHANELの企業成長の質的な転換を見ることができる。

世界へ広がる。

巨大になる。

認知される。

価格を上げる。

という成長から、

商品をさらに良くする。

職人能力を高める。

顧客関係を深める。

環境負荷を減らす。

歴史を新しく解釈する。

人材を育てる。

へ。

もちろんExpansionが終わるわけではない。

新しい市場も存在する。

店舗投資も続く。

しかし企業価値をExpansionだけで説明する段階から、Quality・Relation・Renewalを含む成長へ比重を移す必要がある。



2024年は「失敗」の年ではない

ヴィアールの退任を、単純に前時代の失敗として整理するのも適切ではない。

彼女の役割は、2019年から2024年までCHANELをつなぐことだった。

その役割があったからこそ、次の更新を選択できた。

企業には、

創業の時間。

拡大の時間。

継承の時間。

更新の時間。

がある。

同じ人物がすべてを担う必要はない。

ある段階で最適なリーダーが、次の段階でも最適とは限らない。

リーダーの交代そのものが、企業の成熟した能力になる。



そして2025年へ

マチュー・ブレイジーの任命によって、2024年末には方向が決まる。

しかし本当の評価は人事発表では成立しない。

実際の服を見なければならない。

素材をどう扱うのか。

ツイードをどう読むのか。

ジャケットをどう変えるのか。

バッグをどう扱うのか。

女性の身体をどう見るのか。

ガブリエル・シャネルをどう読むのか。

ラガーフェルドをどう読むのか。

そして、現在のCHANELに何を加えるのか。

それが実際のコレクションとして現れて初めて、Updateは始まる。



2024年という境界

CHANELの時間をここまで並べると、その位置が見える。

1971
創業者を失う。

1983
ラガーフェルドによる大規模更新が始まる。

2019
更新者を失う。

2019–2024
ヴィアールによる継承。

2024
継承期が終わり、次の更新者が選ばれる。

こうして2024年は、CHANELがもう一度「次の自分」を選んだ年になる。

重要なのは、過去を捨てなかったことである。

過去を固定もしなかった。

過去を次の創造者へ開いた。

それが2024年の転換の本質である。

そして、その扉の向こうにいるのがマチュー・ブレイジーだった。

2025年、CHANELの新しい創造の時間が実際のコレクションとして姿を現し始める。

次節では、その新しい時間を見る。

第7節 次の創造へ

100年以上の歴史、36年間のラガーフェルド、5年間のヴィアールを受け取ったCHANELは、次に何を創造しようとしているのか。
第7節 次の創造へ

2024年12月、CHANELはマチュー・ブレイジーをファッション部門のアーティスティック・ディレクターに任命した。

それは、一人のデザイナーを別のデザイナーへ置き換えるだけの人事ではなかった。

1983年から続いたカール・ラガーフェルドの長い時代。

2019年からヴィルジニー・ヴィアールが担った継承の時代。

その先でCHANELは、もう一度、自らの歴史を現在から読み直す段階へ入った。

重要なのは、CHANELが新しいブランドになろうとしているのではないことである。

必要なのは革命ではない。

すでに存在する巨大な価値を、次の時代にも価値を生み出せる状態へ更新すること。

そこに、ブレイジーの仕事が始まる。



100年以上の歴史を受け取る

新興ブランドのデザイナーには、比較的大きな自由がある。

まだブランドコードが固定されていない。

過去の顧客も少ない。

アーカイブも小さい。

だから新しい世界を一から構築できる。

CHANELは正反対である。

ガブリエル・シャネル。

カール・ラガーフェルド。

ヴィルジニー・ヴィアール。

ツイード。

ジャージー。

カメリア。

キルティング。

パール。

チェーン。

黒と白。

2.55。

N°5。

100年以上の歴史がすでに存在する。

しかも、それらは博物館に保存されている過去ではない。

現在も商品として、店舗として、広告として、顧客の記憶として生きている。

新しいアーティスティック・ディレクターは、この巨大な蓄積を受け取らなければならない。



過去を消す必要はない

ブランドの刷新というと、過去を否定することが想像されやすい。

ロゴを変える。

店舗を変える。

商品を変える。

広告を変える。

以前の時代との違いを強調する。

しかしCHANELほど強い歴史を持つブランドでは、この方法は必ずしも合理的ではない。

過去は負債ではない。

巨大な資産だからである。

問題は、

過去を残すか捨てるかではなく、どう使うか

にある。

ラガーフェルドも同じ問題に直面した。

彼はガブリエル・シャネルを消さなかった。

むしろコードを誇張し、変形し、組み合わせ、時にはユーモアへ変えながら、新しい時代へ移した。

ブレイジーもまた、自分なりの方法でCHANELを読み直す必要がある。



コピーでは継承できない

しかし過去への敬意と、過去の再現は違う。

ガブリエル・シャネルの服をそのままつくる。

ラガーフェルドのショーを再現する。

過去の人気バッグを少し変える。

それだけでは、CHANELの歴史を保存することはできても、新しい歴史をつくることはできない。

長寿ブランドに必要なのは、

ReproductionではなくReinterpretation

である。

なぜその服は生まれたのか。

なぜ女性の身体を自由にしたのか。

なぜその素材を使ったのか。

なぜその形だったのか。

表面ではなく、背後の理由まで遡る。

そこまで理解すれば、100年前とは違う形で同じ思想を現在へ表現できる。



身体へ戻る

ガブリエル・シャネルの創造の中心には身体があった。

女性が動く。

歩く。

働く。

腕を動かす。

自分でバッグを持つ。

社会へ出る。

その身体を、それ以前の服装規範から解放する。

だからCHANELの歴史を本質まで遡れば、単なる装飾の歴史ではない。

身体と服の関係を更新してきた歴史である。

2020年代の身体は、1920年代とも1980年代とも違う。

働き方が違う。

移動が違う。

ジェンダーへの認識も違う。

デジタル空間との関係も違う。

生活速度も違う。

だから現代のCHANELが問うべきなのは、過去と同じ服をつくることではない。

「現在の身体にとってCHANELとは何か」

という問いである。



Craftを装飾から創造へ

ここでブレイジーとCHANELの職人基盤が接続する。

CHANELには、長年にわたって形成してきたメティエダールのネットワークがある。

刺繍。

羽根細工。

プリーツ。

帽子。

靴。

金銀細工。

ボタン。

さまざまな専門技術が存在する。

さらにle19Mという物理的な拠点も形成された。

これは競合企業が短期間でコピーすることが難しい企業資産である。

しかし、職人がいるだけでは価値は完成しない。

デザイナーが問いを出す。

職人が技術で答える。

職人側から新しい可能性が提示される。

デザイナーが再び考える。

その往復によって、これまで存在しなかったものが生まれる。

つまりクラフトは製造工程の最後に置かれる装飾ではない。

創造そのものに参加する能力なのである。



マーケティングから服を逆算しない

現代の巨大ファッション企業には大量のデータがある。

何が売れたか。

どの色が売れたか。

どの地域で何が人気か。

どの顧客が何を買ったか。

SNSで何が反応されたか。

AIの発展によって、この分析能力はさらに高まる。

企業経営には有用である。

しかし、過去の売上データから次の商品を完全に決めれば、新しいものは生まれにくい。

データが教えるのは基本的に、

すでに何が起きたか

だからである。

創造には、それとは異なる判断が必要になる。

まだ売れたことがないもの。

まだ顧客が見たことのないもの。

しかし見た瞬間に欲しいと思うもの。

それをつくるのがクリエイションである。



AI時代だからこそ、人間の判断が問われる

これは2026年以降、さらに重要になる。

生成AIは画像をつくれる。

文章を書ける。

過去の商品を分類できる。

顧客データを分析できる。

需要予測も高度化する。

CHANELの巨大なアーカイブを解析することも技術的には可能になる。

しかし、

どれが美しいのか。

どれを今つくるべきなのか。

何を残し、何を変えるのか。

どこまで変えればCHANELでなくなるのか。

その判断まで完全にデータへ委ねれば、ブランドは過去の統計的平均へ近づいてしまう危険がある。

したがってAI時代のCHANELに必要なのは、人間かAIかという選択ではない。

AIによって分析能力を高めながら、

最終的な創造の中心に人間の感覚、身体、経験、判断を残すこと

である。



経営側でも更新が進む

この創造の変化と並行して、CHANELでは経営の時間も動いている。

2022年にCEOとなったリーナ・ナイルは、ラグジュアリー業界の内部から選ばれた経営者ではなかった。

ユニリーバで人事・組織を中心に経験を積んできた人物である。

これは象徴的である。

CHANELが次の時代に必要とした経営能力が、商品をより大量に販売する技術だけではなかったことを示すからだ。

人材。

組織。

文化。

多様性。

職人。

店舗スタッフ。

顧客。

サプライチェーン。

社会。

企業を構成するさまざまな人間関係を長期的に構築する能力が重要になる。



EngineeringとCreation

ナイルには工学を学んだ背景がある。

ブレイジーは服とクラフトから創造する。

二人の専門領域はまったく違う。

しかし企業という観点から見ると、興味深い補完関係が成立する。

経営側では、

複雑な組織を設計する。

人材を配置する。

投資する。

サプライチェーンを構築する。

環境負荷を測定する。

長期的に企業を動かす。

創造側では、

歴史を読む。

素材を読む。

身体を見る。

職人と対話する。

服へ変える。

美として提示する。

一方は企業を設計する。

もう一方はブランドを更新する。

EngineeringとCreationが、同じCHANELの内部で接続される。



女性企業としてのCHANEL

ここでもう一度、ガブリエル・シャネルへ戻る必要がある。

CHANELは女性創業者によって生まれた企業である。

しかも彼女が変えたのは、単なる女性服の形ではない。

女性がどのように身体を使い、社会で生活するかという問題だった。

100年以上後、CHANELは女性CEOによって率いられている。

しかし、この事実を「女性CEOが誕生した」「女性比率が高い」という数字だけで評価すると、本質を狭めてしまう。

重要なのは、

誰が意思決定に参加できる企業なのか

である。

異なる経験を持つ人間がいる。

異なる文化的背景を持つ人間がいる。

職人がいる。

販売スタッフがいる。

経営者がいる。

デザイナーがいる。

顧客がいる。

それらの知識を企業の意思決定へどう接続できるか。

多様性の企業価値は、人数そのものではなく、企業が利用できる視点と知識の範囲を広げることにある。



世界市場も変わる

CHANELは欧州だけのブランドではない。

米国。

日本。

中国。

韓国。

中東。

東南アジア。

インド。

その他の市場。

世界の富の分布が変われば、ラグジュアリー市場も変わる。

ここでも単純な店舗拡大だけでは足りない。

文化が違う。

身体観が違う。

美意識が違う。

顧客行動が違う。

それぞれの地域を理解しながら、それでもCHANELとして一貫していなければならない。

グローバル化の次の段階では、

世界を同じものにする能力ではなく、

違いを保ったまま一つのブランドとして関係をつくる能力

が重要になる。



地球との関係も変わる

さらに2020年代の企業は、自然環境を外部条件として扱うことが難しくなった。

ファッションは自然資本に依存する。

繊維。

皮革。

金属。

水。

土地。

エネルギー。

輸送。

店舗。

包装。

すべてが地球環境と接続している。

高品質な素材を長期的に確保したいなら、生産環境そのものが持続可能でなければならない。

職人技を100年先へ残しても、素材が失われれば商品はつくれない。

だから環境政策は、企業イメージのための社会貢献だけではなく、

将来のCHANELを製造できる条件を守る経営

でもある。



長く使うという価値

ここでCHANELのクラフトには別の可能性が見えてくる。

高品質な商品をつくる。

長く使う。

修理する。

メンテナンスする。

所有者との関係が深まる。

場合によっては次の世代へ渡る。

中古市場で新しい所有者と出会う。

このとき商品の価値は、販売した瞬間だけには存在しない。

時間の中で変化する。

傷がつくこともある。

修理されることもある。

記憶が加わる。

所有者が変わる。

そして再び使われる。

通常の商品経済では、時間は減価として扱われやすい。

しかし優れたクラフトでは、

時間が価値形成へ参加することがある。



次のCHANELは新品だけをつくらない

これは今後のラグジュアリーを考えるうえで重要である。

企業の仕事を、

製造
→販売
→終了

と考える必要はない。

製造する。

販売する。

使用される。

修理する。

再び使用される。

場合によっては別の所有者へ移る。

さらに修理される。

こうして商品の寿命を長くする。

その全体を企業価値として設計できる可能性がある。

クラフトマンシップは、購入時の豪華さだけではなく、

時間に耐える能力

として評価できる。



Beautyは数字だけでは測れない

企業経営では、多くのものが数値化される。

売上。

利益。

価格。

販売数量。

店舗数。

顧客数。

市場シェア。

炭素排出量。

従業員数。

しかしCHANELの中心には、最後まで数値だけでは決定できないものが残る。

美しさである。

なぜあるジャケットが美しいのか。

なぜあるバッグを20年後にも持ちたいと思うのか。

なぜ一本の香水が100年以上記憶されるのか。

完全な数式にはできない。

だからラグジュアリー企業は特殊なのである。

合理的に経営されなければならない。

しかし合理性だけでは存在できない。



次の創造とは何か

ここまでを統合すると、CHANELの次の創造は単に「新しい服をつくること」ではなくなる。

人間。

身体。

クラフト。

歴史。

顧客。

組織。

テクノロジー。

環境。

資本。

そして美。

これらを一つの企業の内部で接続しながら、毎年新しい商品として表現する。

それが現代のCHANELに課された仕事である。



2022、2024、2025

ここで時間を並べると、一つの流れが見える。

2022年。

リーナ・ナイルがCEOに就任する。

経営と組織の新しい時間が始まる。

2024年。

ヴィルジニー・ヴィアールが退任し、12月にマチュー・ブレイジーの就任が発表される。

継承から更新への境界が現れる。

2025年。

ブレイジーがCHANELで実際の創造を開始し、その仕事がコレクションとして表現されていく。

経営の更新と創造の更新という二つの時間が、同じ企業の内部で重なり始める。

そしてその先には、環境、サプライチェーン、素材、顧客、AIを含む、さらに長い企業時間がある。



創造とは、過去と未来を接続すること

ガブリエル・シャネルは、当時の女性の身体と生活から新しい服をつくった。

ラガーフェルドは、そのコードを1980年代以降の世界へ読み替えた。

ヴィアールは巨大な遺産を断絶させず、次の時代まで運んだ。

そしてブレイジーは、それをもう一度読み直す。

この歴史を見ると、CHANELには一つの特徴がある。

同じものを保存しているから100年以上続いているのではない。

同じものを何度も違う時代へ翻訳してきたから続いている。

継承だけではブランドは過去になる。

刷新だけではブランドは別物になる。

必要なのは、

継承しながら更新すること。

そこに長寿ブランドの創造がある。



第4章の終わり

2019年から始まった「ラガーフェルドの後」は、単なる後継者問題ではなかった。

そこには、

創造者の死。

ヴィアールによる継承。

パンデミック。

市場回復。

価格上昇。

希少性の強化。

CEO交代。

そしてブレイジーの就任。

という複数の変化が重なっていた。

CHANELはその過程で、過去を失わず、しかし過去へ戻ることもなく、次の創造へ進み始めた。

だが、創造だけではこの企業を説明できない。

これほど長期的な更新を可能にしている背後には、極めて特殊な企業構造が存在する。

CHANELは巨大企業でありながら上場していない。

世界的ブランドでありながら巨大コングロマリットにも属していない。

そして、その所有の中心には長期間にわたって一つの家族がいる。

次の第Ⅲ部では、華やかなファッションショーの背後にある、もう一つのCHANELを見る。

誰がCHANELを所有し、誰が長期的な意思決定を可能にしてきたのか。

そこから、創造を100年以上支えてきた企業の構造へ入っていく。

第Ⅲ部 企業

――CHANELを支える経営構造

愛と敬意を込めてmandala

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