『CHANEL』――ガブリエル・シャネルから2026年まで、世界最高峰のラグジュアリーメゾンをつくった経営・創造・クラフト・顧客・資本(第7回)(第6章 CHANELという企業)
第6章 CHANELという企業
第1節 ファッション
CHANELという企業を理解するとき、最初に見るべき事業はファッションである。
売上規模だけを比較すれば、フレグランス&ビューティやバッグ、時計、ジュエリーなど、企業収益を支える重要な領域はいくつもある。
しかしCHANELというブランドが、
何を美しいと考えるのか。
どのような女性像を提示するのか。
過去をどう現在へ更新するのか。
何を次の時代のCHANELとして提示するのか。
その最も鮮明な表現が現れるのは、今なおファッションである。
オートクチュール。
プレタポルテ。
バッグ。
シューズ。
アクセサリー。
そしてファッションショー。
ここにはCHANELの100年以上の歴史が集約されている。
ファッションはCHANELの商品カテゴリーであると同時に、企業全体のブランド価値を生成する中心装置なのである。
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ファッションから始まった企業
CHANELの起源は服にある。
帽子から始まり、ドーヴィルやビアリッツでの事業を経て、ガブリエル・シャネルは女性の服装そのものを変えていった。
ジャージー。
動きやすい服。
黒。
ツイード。
男性服からの引用。
身体を過度に拘束しないシルエット。
これらは単なる商品の特徴ではなかった。
当時の女性の生活の変化と接続していた。
だからCHANELにとってファッションとは、最初から「布を販売する事業」以上のものだった。
社会の変化を身体へ翻訳し、それを商品として提示する事業だったのである。
この起源は、2026年になっても失われていない。
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Haute Couture
CHANELのファッション事業の頂点にあるのがオートクチュールである。
オートクチュールは大量販売を目的とする事業ではない。
高度な技術。
長い制作時間。
顧客ごとのフィッティング。
極めて限定された顧客。
その経済構造だけを見れば、世界規模の大量市場とは対極にある。
しかし企業全体から見ると、その意味は非常に大きい。
オートクチュールはCHANELが、
どこまで高度な服をつくれるのか。
どこまで職人技術を使えるのか。
どこまで素材を変形できるのか。
どこまで新しい美を提示できるのか。
を示す場所だからである。
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売上だけでは測れない事業
仮にオートクチュール単独の売上だけを見て、他事業より小さいから重要性も小さいと判断すれば、ラグジュアリー企業の構造を誤解する。
オートクチュールで生まれたイメージが、ブランド全体へ波及する。
写真になる。
ショーになる。
メディアで報道される。
職人技の象徴になる。
バッグやビューティを購入する顧客も、その最高峰の世界をCHANELの背景として認識する。
つまりオートクチュールには、
直接収益だけではなく、ブランド全体へ文化的価値を供給する機能
がある。
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Ready-to-Wear
一方、プレタポルテは別の役割を持つ。
オートクチュールより広い顧客へ、現在のCHANELのファッションを届ける。
ジャケット。
ドレス。
スカート。
パンツ。
ニット。
コート。
シャツ。
毎シーズン、新しいコレクションが提示される。
ここではアーカイブと現在が直接出会う。
ガブリエル・シャネルのコード。
ラガーフェルドが加えたコード。
ヴィアールの時間。
そしてマチュー・ブレイジーによる新しい解釈。
それらが現在の商品として再構成される。
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シーズンという短い時間
プレタポルテの特徴は、時間が速いことである。
春夏。
秋冬。
クルーズ。
メティエダール。
複数のコレクションが継続的に発表される。
これはN°5のように100年以上同じ名称で存在する商品とはまったく異なる。
CHANELという一社の内部には、
100年以上残るアイコン
と、
数か月単位で更新されるコレクション
が共存している。
企業は両方を経営しなければならない。
変化の速いFashionと、変化の遅いHeritageを同時に保持する。
これがCHANELの特殊な時間構造である。
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Jacketという中心
CHANELのファッションを代表する商品の一つがジャケットである。
ツイード。
ブレード。
ボタン。
裏地。
身体の動き。
裾のチェーン。
こうした要素が長い時間をかけてブランドコードになってきた。
しかし重要なのは、ジャケットが固定された制服ではないことである。
丈が変わる。
肩が変わる。
色が変わる。
素材が変わる。
組み合わせが変わる。
新しい身体へ置かれる。
だからCHANELジャケットは、
一つの商品でありながら、
100年以上更新可能な設計言語
でもある。
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アーカイブと新商品
CHANELには巨大なアーカイブがある。
このアーカイブは、過去の商品を保存する場所であると同時に、現在の商品開発へ使われる資源でもある。
あるジャケットを見る。
昔の写真を見る。
ツイードを見る。
ボタンを見る。
ガブリエル・シャネルの私物を見る。
そのままコピーする必要はない。
要素を分解し、現在へ置き直す。
するとアーカイブは、
Past
ではなく、
Input
になる。
これは100年以上の歴史を持つCHANELの大きな競争優位である。
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バッグとファッション
CHANELではバッグもファッション事業の極めて重要な一部である。
2.55。
Classic Flapをはじめとする象徴的なモデル。
季節ごとのバッグ。
キルティング。
チェーン。
ダブルC。
バッグにはCHANELのコードが非常に高密度で組み込まれている。
そして企業経営上、バッグには服とは異なる強さがある。
サイズ制約が比較的小さい。
世界中で販売しやすい。
ブランドを街のなかで可視化する。
長期使用される。
中古市場でも流通する。
そのためバッグは、クリエイションと商業性を強く接続する商品になる。
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IconとFashionの間
バッグには二種類の時間が共存する。
毎シーズン新しいデザインが登場する。
しかし2.55のような歴史的モデルも残る。
つまり、
Fashion Item
と
Permanent Icon
の中間に位置する。
これは経営上非常に強い。
新しい商品によって顧客へ現在性を示せる。
同時にアイコンによって長期的な需要を維持できる。
毎シーズンすべてをゼロから販売する必要がない。
過去に蓄積された需要が現在の売上にもつながる。
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シューズとアクセサリー
ファッション事業には、服とバッグだけでなくシューズやアクセサリーもある。
これらは顧客がCHANELの世界へ入る別の入口になる。
一足の靴。
ブローチ。
ベルト。
イヤリング。
小物。
商品カテゴリーが増えるほど、顧客は自分の生活に合う形でCHANELへ参加できる。
しかし商品数を増やせばよいわけではない。
ブランドコードが弱ければ、単なる商品拡張になる。
重要なのは、それぞれの商品が一つのCHANEL世界へ接続されていることである。
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Métiers d’art
CHANELのファッション事業を他社と区別する重要な存在が、メティエダールである。
刺繍。
羽根細工。
花飾り。
帽子。
靴。
金銀細工。
プリーツ。
これらの専門技術が、デザイナーの構想を物質へ変える。
CHANELは単に外部業者へ発注するだけでなく、長期にわたって工房へ投資してきた。
そのためFashion Divisionは、デザインスタジオだけで成立しているのではない。
背後に巨大なCraft Infrastructureがある。
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FashionとSupply Chainの境界が曖昧になる
一般企業では、
デザインする会社。
製造する会社。
素材を供給する会社。
が明確に分かれていることがある。
CHANELでは高度な商品になるほど、その境界が近づく。
デザイナーが工房へ要求する。
職人が素材の可能性を返す。
再びデザインが変わる。
つまりサプライチェーンは、デザイン終了後に商品を製造するだけの後工程ではない。
創造プロセスの内部へ入っている。
これがクラフト型ラグジュアリーの重要な特徴である。
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ファッションショーは商品発表では終わらない
ファッション事業にはショーも含まれる。
オートクチュール。
プレタポルテ。
クルーズ。
メティエダール。
ショーは実際の商品を発表する。
しかし、その効果は商品販売を超える。
ブランドの現在を示す。
顧客へ期待をつくる。
メディアへ映像を提供する。
文化的な話題を生む。
世界各地のブティックへ一つのブランドストーリーを供給する。
つまりショーは、
Fashion ProductionとGlobal Communicationが交差する場所
なのである。
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Cruise Collectionと世界
クルーズ・コレクションには、CHANELのグローバルな文化戦略が現れる。
パリだけではなく、異なる都市や地域と関係をつくる。
しかし現地文化を表面的に装飾へ利用すればよいわけではない。
その土地の歴史。
建築。
音楽。
顧客。
文化。
それらとCHANELのコードをどう接続するか。
世界ブランドになったCHANELにとって、ファッションには文化間の関係を構築する役割も加わっている。
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ファッションは最も不確実な事業でもある
一方、ファッションには大きな不確実性がある。
何が次に美しいと評価されるかは完全には予測できない。
過去の売上データは参考になる。
顧客調査もできる。
AIで需要予測もできる。
しかし、それだけで次の新しいファッションを決めることはできない。
もし顧客がすでに知っているものだけをつくれば、安全ではある。
しかし新しさは減る。
ここにFashion Businessの特殊性がある。
市場に聞く前に、企業側から新しい価値を提案しなければならない。
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売れるものをつくるのか、欲しくなるものをつくるのか
この違いは重要である。
売れるとわかっているものをつくる。
これは需要への対応である。
まだ存在しないものをつくり、顧客がそれを見て初めて欲しいと思う。
これは需要の創造である。
ラグジュアリーファッションの最高水準では、後者が不可欠になる。
したがってCHANELのファッション事業では、
Data。
Merchandising。
Planning。
と、
Creative Judgment。
の両方が必要になる。
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Merchandisingの役割
もちろん創造だけで企業は動かない。
サイズ構成。
色。
地域需要。
在庫。
販売時期。
価格帯。
商品カテゴリー。
店舗への配分。
こうした実務を管理するMerchandisingが必要になる。
世界規模のCHANELでは、何千という商品判断を感覚だけで行うことはできない。
しかしMerchandisingがCreative Directionを完全に支配すれば、ブランドは過去の売れ筋の最適化へ向かう。
そこで、
Creationが新しさをつくり、Merchandisingがそれを市場へ成立させる
という役割分担が必要になる。
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ファッションとAI
2026年以降、この関係にはAIがさらに入ってくる。
AIは、
需要予測。
在庫最適化。
顧客分析。
商品検索。
サプライチェーン管理。
異常検知。
などで大きな価値を持つ。
過去のアーカイブを整理することもできる。
しかしファッションの中心には、まだ人間の判断が残る。
AIが過去のCHANELを大量に学習して生成すれば、非常に「CHANELらしい」ものをつくれる可能性がある。
しかし「CHANELらしい」ことと「次のCHANEL」であることは同じではない。
次のファッションには、
過去にはまだ存在しない差
が必要だからである。
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マチュー・ブレイジーという次の時間
ここで2025年以降のCHANELへ戻る。
マチュー・ブレイジーが受け取ったのは巨大なファッション企業である。
一つのデザインスタジオだけではない。
アーカイブ。
オートクチュール。
プレタポルテ。
バッグ。
工房。
世界市場。
高い価格帯。
既存顧客。
そして100年以上の期待。
そのすべてを持った状態で新しさをつくらなければならない。
新興ブランド以上に資源がある。
同時に、新興ブランド以上に制約もある。
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Updateの難しさ
完全に別物をつくれば、CHANELではなくなる。
過去のコードだけを使えば、新しくならない。
したがって必要なのは、
残す。
削る。
変える。
組み替える。
新しく加える。
という精密な判断である。
ラガーフェルドが1983年に行った仕事と、構造的には似ている。
しかし2020年代の社会条件は違う。
だから答えも違わなければならない。
これがCHANELファッションの2026年時点での最大の課題である。
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ファッションは企業全体の研究開発でもある
ここまで見ると、ファッション部門には別の見方ができる。
それはCHANEL全体の文化的R&Dである。
新しい色。
新しい素材。
新しいシルエット。
新しいブランドコード。
新しい顧客像。
新しいショー表現。
ここで試されたものが、後にバッグ、アクセサリー、ビューティ、店舗、広告などへ広がることがある。
つまりファッションは商品事業であるだけでなく、ブランド全体の未来を試す実験場でもある。
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売上以上の波及価値
したがってFashion Divisionの価値は、単体損益だけでは測れない。
ファッションが文化的な話題をつくる。
ブランド欲求が高まる。
バッグへの需要が強まる。
N°5を見る目も変わる。
化粧品にもブランド価値が波及する。
時計やジュエリーにも影響する。
優秀な人材も集まる。
つまりファッションには、
Brand Halo
が存在する。
一つのコレクションの価値が、企業全体へ波及する。
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反対方向の支援もある
ただし、Fashionが他事業を一方的に支えているわけではない。
Fragrance & Beautyが巨大な顧客接点をつくる。
バッグが大きな収益を生む。
Watches & Fine Jewelryが高い素材価値と技術を加える。
それらから生まれる企業体力が、Fashionへの大規模な投資を可能にする。
つまりCHANELでは、
Fashionがブランド価値を供給し、
他事業が経済的な安定性を供給する。
文化的価値と経済的価値が双方向に循環する。
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Fashion Businessの本質
CHANELのファッション事業を最も簡潔に表現すると、
服を売る事業では足りない。
過去を読む。
現在の身体を見る。
職人とつくる。
新しい美を提示する。
世界へ見せる。
顧客が選ぶ。
そこから得た利益とブランド価値を次の創造へ戻す。
これが繰り返される。
つまりFashionとは、
CHANELが毎シーズン、自分が今もCHANELであることを証明し直す事業
なのである。
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変わる中心
N°5は100年以上残ることができる。
しかしファッションは変わらなければならない。
だから一見すると、ファッションは企業のなかで最も不安定な領域である。
しかしその不安定さこそが重要である。
ファッションが動くことで、ブランド全体が過去へ固定されるのを防ぐ。
CHANELという企業には、
変わらないコード
と、
変わり続けるファッション
が必要である。
この両方があるから、100年以上前のブランドが2026年にも現在形で存在できる。
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次の事業へ
しかしCHANELという企業をファッションだけで説明することはできない。
世界中の膨大な顧客にとって、最初のCHANELはジャケットでもバッグでもない。
香りかもしれない。
一本のN°5。
一本の口紅。
一つのスキンケア商品。
そこからCHANELとの関係が始まる。
そしてこの事業は、ファッションとは大きく異なる数量、価格、流通、顧客構造を持つ。
ファッションがCHANELの現在を最も鮮明に表現する事業だとすれば、Fragrance & Beautyは、CHANELという世界を最も広く人々の日常へ届ける事業の一つである。
次節では、その巨大な入口を見る。
第2節 フレグランスとビューティ
N°5から始まった香りの事業は、どのようにCHANELをファッションメゾンから世界規模のラグジュアリー企業へ変えていったのか。
第2節 フレグランスとビューティ
CHANELという企業を世界規模で理解するとき、フレグランスとビューティはファッションに次ぐ付属事業ではない。
むしろCHANELが、限られた顧客のためのパリのファッションメゾンから、世界中の人々の日常へ入り込む巨大なラグジュアリー企業へ発展するうえで、決定的な役割を果たしてきた事業である。
その起点にあるのが、1921年のN°5だった。
服は身体に着る。
バッグは持つ。
ジュエリーは身につける。
しかし香水は、さらに直接的に身体と記憶へ入る。
そして口紅やスキンケアは日々の生活へ入る。
CHANELはフレグランスとビューティによって、ファッションとは異なる頻度、価格、顧客層で人間との関係を形成できるようになった。
FashionがCHANELの現在をつくる事業なら、Fragrance & BeautyはCHANELとの日常的な接点を世界規模でつくる事業である。
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N°5から始まった第二のCHANEL
N°5が重要なのは、歴史的な香水だからだけではない。
企業構造を変えたからである。
オートクチュールには制約がある。
高度な職人技。
長い制作時間。
限られた顧客。
対面でのフィッティング。
一着ごとに非常に高い付加価値を持つ一方、数量を無制限に増やすことはできない。
香水は違った。
調香の品質とブランド管理を維持しながら、同じ香りをより大きな規模で製造し、ボトルに収め、各国へ輸送できる。
ここでCHANELには二つの経済が成立する。
Fashionの希少性。
そして、
Fragranceの拡張可能性。
この異なる二つの経済を一つのブランドの内部に持てたことが、CHANELの企業成長を大きくした。
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香りは見えない商品である
香水にはバッグや服とは異なる特殊性がある。
香りは視覚では完全に把握できない。
広告画像を見ても、実際の香りそのものはわからない。
ボトルを持つことはできる。
しかし商品の本体は、身体につけた瞬間に空気へ広がっていく。
だから香水の価値は、
原料。
調香。
ボトル。
ブランド。
だけではなく、
人間の感覚と記憶
によって完成する。
ある香りを嗅ぐ。
昔の出来事を思い出す。
特定の人物を思い出す。
場所を思い出す。
季節を思い出す。
香水は商品でありながら、顧客の人生へ記憶として入り込む可能性を持っている。
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購入後に価値が深くなる
ここにCHANELの他の商品とも共通する構造がある。
N°5を買った瞬間に、商品の意味がすべて完成するわけではない。
使う。
身体になじむ。
生活の特定の時間に使う。
周囲の人がその香りを記憶する。
何年も使う。
すると、CHANELの香りがその人自身の生活史と結びつく。
これは企業が広告だけでつくれる価値ではない。
顧客が商品と一緒に過ごすことで形成される価値である。
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N°5というPermanent Icon
ファッションは毎シーズン変化する。
しかしN°5は1921年から100年以上続いている。
これはCHANELという企業のなかに、まったく異なる商品時間があることを意味する。
Fashion Collectionは、
現在を更新する。
N°5は、
過去と現在を接続する。
毎年同じ商品をそのまま販売しているという意味ではない。
広告表現。
コミュニケーション。
商品展開。
顧客との接点。
これらは時代に応じて変わる。
しかしN°5という名称と中心的アイデンティティは維持される。
変わらない核と、変化する表現。
これはCHANEL全体のブランド経営そのものでもある。
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香水はブランドへの入口になる
ファッションや代表的なバッグは非常に高価格である。
すべての人が購入できるわけではない。
一方、香水にはより広い価格帯への入口がある。
CHANELのジャケットをまだ持っていない人でも、香水を使うことはできる。
バッグを購入する前に、CHANELの香りと出会うこともできる。
ここでFragranceには重要な企業機能が生まれる。
ブランドへのEntry Point
である。
若い顧客が初めてCHANELを購入する。
その体験が良ければ、長期的なブランド関係の始点になり得る。
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Entry Productと廉価版は違う
ただし、香水や口紅を「安いCHANEL」と考えるべきではない。
それではブランドの階層構造を誤解する。
価格がバッグより低くても、それ自体で完成したCHANEL商品でなければならない。
香り。
容器。
色。
質感。
販売空間。
接客。
すべてがブランド基準を満たす必要がある。
つまり入口を広くすることと、ブランド価値を薄めることは違う。
CHANELが目指さなければならないのは、
Accessible Luxuryではなく、Accessible Entry to an Exclusive Maison
という微妙な均衡である。
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Beautyへ広がる
フレグランスからビューティへ。
ここでCHANELと顧客との関係はさらに日常的になる。
口紅。
ファンデーション。
アイメイク。
ネイル。
スキンケア。
ファッションは毎日購入するものではない。
バッグも頻繁には買わない。
しかし化粧品には消耗性がある。
使う。
なくなる。
再び購入する。
この反復によって、CHANELは顧客と高い頻度で接触できる。
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購入頻度が違う
企業経営の観点では、この違いは非常に大きい。
ジャケットを一年に何着も買う顧客は限られる。
高額バッグも同様である。
口紅やスキンケアは、それより短い周期で再購入される可能性がある。
したがってBeautyには、
Recurring Relationship
を形成する能力がある。
顧客との関係が一度の大型購入だけに依存しない。
この高頻度の接点が、CHANEL全体の顧客基盤を厚くする。
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身体のさらに近くへ
ファッションも身体に接する。
しかしビューティはさらに直接的である。
肌。
唇。
目。
爪。
香り。
人間の身体そのものへ接触する。
だから品質や安全性への要求も違う。
服ならデザインだけでも一定の評価を受けることができる。
スキンケアでは、
成分。
使用感。
安全性。
科学的研究。
容器。
保存性。
などが重要になる。
ここでCHANELはFashion Companyであるだけではなく、
Beauty Scienceを持つ企業
としての能力も必要になる。
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美は感性だけではつくれない
Beautyでは、創造と科学が接続する。
色を美しくする。
香りを魅力的にする。
同時に、
安定性。
安全性。
皮膚との適合。
品質管理。
製造技術。
を確立する必要がある。
つまりCHANELのBeautyは、
Creative Sensibility
× Scientific Capability
× Industrial Quality
によって成立する。
これはFashionとは異なる企業能力である。
一つのCHANELブランドの内部に、異なる専門知が存在している。
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香料植物というサプライチェーン
フレグランスは、自然環境とも強く結びつく。
ジャスミン。
ローズ。
その他の香料植物。
質の高い香水を長期間つくるには、高品質な原料を安定的に確保しなければならない。
ここでCHANELの経営は農業や土地へまで接続する。
原料の品質。
生産者。
土壌。
水。
気候。
生物多様性。
つまりN°5の香りは、パリの研究室や店舗だけから生まれるものではない。
自然環境と人間の栽培技術を含む長いサプライチェーンの結果なのである。
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Climate RiskはFragrance Riskでもある
気候変動が進めば、香料植物にも影響が出る可能性がある。
温度。
降水。
水資源。
病害。
開花時期。
こうした変化は原材料の品質や供給安定性へ影響し得る。
したがって環境問題は、企業の社会的責任だけではない。
香水を将来も同じ品質でつくれるかという事業リスクでもある。
CHANELが自然資本や気候への投資を強化する理由は、Fragrance & Beautyの長期的な製造能力とも結びついている。
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LaboratoryとHeritage
ここでもCHANELには二つの時間がある。
N°5という100年以上の歴史。
一方で、現代の研究開発。
新しい成分。
新しい処方。
新しい包装。
新しい環境基準。
つまり、
HeritageとInnovation
が同じ事業に共存する。
歴史的な香りを守りながら、研究開発は止めない。
この組み合わせがCHANELのBeauty事業を単なるブランドライセンス商品とは異なるものにする。
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N°1 DE CHANEL
2020年代のBeautyにおける象徴的な例の一つが、N°1 DE CHANELである。
レッドカメリアを中心に据え、スキンケア、メイクアップ、フレグランスミストなどを横断的に展開した。
ここで興味深いのは、カメリアという古いCHANELコードを、そのまま装飾として使っているだけではないことである。
植物そのもの。
成分。
処方。
パッケージ。
環境負荷。
という現代的なBeautyの問題へ接続する。
ブランドコードが科学研究と環境設計へ移動している。
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パッケージも商品である
Beautyでは容器の意味も大きい。
香水のボトル。
クリームのジャー。
口紅のケース。
顧客は中身だけを使うのではない。
手に取る。
開ける。
閉じる。
鏡の前に置く。
バッグへ入れる。
したがってパッケージはブランド体験そのものである。
一方、環境負荷の観点では、
ガラス。
プラスチック。
金属。
紙。
輸送重量。
廃棄。
が問題になる。
ここでCHANELは難しい課題を持つ。
Luxury Experienceを落とさず、Material Footprintを減らす。
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リフィルという変化
その方法の一つがリフィルである。
従来のラグジュアリー商品では、毎回完全な新しい容器を購入することが高級感と結びつくこともあった。
しかし容器を長く使い、中身を交換する方式なら、資源利用を抑えられる可能性がある。
これは単なる環境対策ではない。
ラグジュアリーの「新品」に対する価値観を変える可能性がある。
美しい容器を使い捨てるのではなく、
良いものだから残して使う。
この考え方は、CHANELのバッグやクラフトの長期使用とも接続する。
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MassではなくScale
Fragrance & BeautyはFashionより大きな数量を扱うことができる。
しかしCHANELは大量消費財企業ではない。
ここで重要なのは、
Mass
と
Scale
を区別することである。
世界中へ大量に供給することはできる。
しかしどこででも無秩序に販売し、値引きし、ブランド管理を失えばCHANELではなくなる。
つまりFragrance & Beautyでは、
Scaleを得ながらLuxury Controlを失わないこと
が重要になる。
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流通管理
Fashionでは自社ブティックの役割が大きい。
Beautyでは百貨店などを含むより広い流通接点を持つことができる。
その分、ブランド体験を均質化する難しさが増す。
売場。
ディスプレイ。
販売員。
テスター。
在庫。
価格。
顧客サービス。
これらを一定水準に保たなければならない。
販売チャネルが広いほど、管理能力が重要になる。
⸻
デジタルとの関係
Fragrance & BeautyはFashionよりデジタル販売との親和性が高い。
顧客がすでに使っている口紅や香水を再購入する場合、オンラインは便利である。
商品情報もデジタルで届けやすい。
一方で新しい香りや色は、実際に試さなければわからない部分も大きい。
したがってBeautyでも、
Digital
対
Physical
ではない。
オンラインで知る。
店舗で試す。
デジタルで再購入する。
販売スタッフに相談する。
という複数の接点を統合する必要がある。
⸻
Beauty Dataの価値
購入頻度が比較的高いBeautyでは、顧客データの量も増える。
どの商品を買ったか。
どの色を選ぶか。
どの程度の周期で再購入するか。
地域差。
季節差。
こうした情報は商品開発や在庫管理に大きな価値を持つ。
AIを活用すれば、分析能力はさらに高まる。
しかし、ここでも注意が必要である。
データを最大限集めればよいわけではない。
ラグジュアリーではプライバシーそのものが顧客体験の一部だからである。
PersonalizationとPrivacyの両立が必要になる。
⸻
Fragrance & BeautyからFashionへ
顧客関係は一方向ではない。
香水を買う。
CHANELを知る。
口紅を買う。
ブランドへの親しみが深まる。
ショーを見る。
バッグへ関心を持つ。
数年後、ファッションを購入する。
こうした移動があり得る。
つまりFragrance & Beautyは、それ自体が収益事業であると同時に、
Client Developmentの長期的な入口
にもなる。
⸻
FashionからBeautyへも流れる
逆方向もある。
CHANELの服を愛する顧客が、同じ世界観を香水や化粧品にも求める。
ショーで提示された色や女性像がBeautyへ影響する。
著名なアンバサダーがFashionとBeautyの双方をつなぐ。
つまり事業カテゴリーは完全に独立していない。
ブランドを介して互いに価値を渡し合う。
⸻
一人の顧客をカテゴリーで分けない
企業組織上は、
Fashion。
Fragrance & Beauty。
Watches & Fine Jewelry。
と部門が分かれる。
しかし顧客は部門として生きているわけではない。
同じ一人の人間が、
N°5を使う。
口紅を使う。
バッグを持つ。
時計を身につける。
人生の節目にジュエリーを買う。
つまり企業側の事業区分と、顧客側の人生は一致しない。
長期的には、
Product-Centric ManagementからClient-Centric Understandingへ
進む必要がある。
⸻
顧客の一生とCHANEL
ここまで広げると、Fragrance & Beautyの企業的意味がさらに見える。
若い時に初めて香水を買う。
仕事を始めてメイクアップを使う。
その後バッグを買う。
さらに時計やジュエリーへ進む。
もちろんすべての顧客がこの順序をたどるわけではない。
しかしCHANELには、人生の異なる時期に異なるカテゴリーで顧客と接触できる構造がある。
したがって企業価値は、
一回の商品販売
だけではなく、
数十年間のClient Relationship
から考えることができる。
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香水は時間を超えやすい
ファッションには流行がある。
Beautyにもトレンドはある。
しかし香りには独特の継続性がある。
母親が使っていた。
祖母が使っていた。
自分も使う。
世代を越えて同じ香りが共有される場合がある。
ここでN°5の100年以上という歴史が意味を持つ。
商品が単なる消耗品から、
世代間記憶の媒体
になる可能性がある。
これは新しいブランドが短期間で再現できない価値である。
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一方で新しい香りも必要である
しかしN°5だけに依存することはできない。
顧客は変わる。
嗜好も変わる。
世代も変わる。
男性向けを含め、CHANELには複数のフレグランスの世界がある。
つまり香水事業にも、
Iconを守ること
と、
New Creationを生み出すこと
の両方が必要になる。
これはFashionと同じ構造である。
CHANELという企業では、カテゴリーが違っても同じ長期経営問題が繰り返される。
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BeautyはCHANELを広げるが、薄めてはいけない
Fragrance & Beautyの最大の経営上の強さは、CHANELとの接点を大きく広げられることである。
同時に最大のリスクもそこにある。
販売量を増やしすぎる。
値引きを増やす。
流通を広げすぎる。
ブランド体験が一般商品と変わらなくなる。
そうなれば、CHANEL全体の希少性を弱める可能性がある。
したがって、
Reachを広げながらPrestigeを維持する
という精密な管理が必要になる。
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広さと高さを一つのブランドに持つ
ここにCHANELの企業構造の強さがある。
オートクチュールは極めて狭い。
Beautyは比較的広い。
バッグはその間にある。
時計・ファインジュエリーにはまた別の顧客層がある。
異なる価格帯。
異なる購入頻度。
異なる使用目的。
それらがすべてCHANELという一つのブランドへ接続される。
つまりCHANELは、
一つのブランドの中に、広さと高さを同時に持つことができる。
⸻
Fragrance & Beautyの本質
N°5から100年以上。
CHANELのフレグランスとビューティは、企業に三つの大きな価値を与えてきた。
第一に、世界規模の顧客接点。
第二に、高頻度の顧客関係。
第三に、Fashionとは異なる科学・製造・流通能力。
その結果、CHANELは服だけの会社ではなくなった。
しかし同時に、香水や化粧品だけの会社にもならなかった。
Fashionが文化的な現在をつくる。
Fragrance & Beautyがその世界をより多くの人の日常へ届ける。
両者が一つのブランドを支える。
⸻
次の価値領域へ
そしてCHANELには、さらに異なる時間を持つ事業がある。
時計。
ファインジュエリー。
これらはBeautyの消耗性とはほぼ反対に位置する。
毎日使うことができる。
しかし使い切ってなくなるものではない。
金。
ダイヤモンド。
宝石。
機械式ムーブメント。
高度な加工技術。
何十年という所有。
場合によっては次世代への継承。
ここではCHANELの企業時間がさらに長くなる。
香水が記憶へ残る商品なら、時計とジュエリーは物質そのものが時間を越えて残る可能性を持つ商品である。
次節では、この第三の主要事業を見る。
第3節 時計とファインジュエリー
1932年の「Bijoux de Diamants」から現代の時計・ハイジュエリーまで、CHANELはどのようにファッションとは異なる「長い時間の価値」を企業の内部へ取り込んだのか。
第3節 時計とファインジュエリー
CHANELの時計とファインジュエリーは、ファッションやフレグランスとは異なる時間を持っている。
ファッションはシーズンごとに更新される。
化粧品は使い切り、再び購入される。
香水も消費される。
しかし時計やジュエリーは、何十年にもわたって人間とともに存在できる。
修理する。
磨く。
受け継ぐ。
別の所有者へ渡る。
場合によっては、一人の人間の寿命より長く残る。
だからCHANELが時計とファインジュエリーへ本格的に進出したことは、単なる商品カテゴリーの追加ではない。
CHANELというブランドが「長い時間の価値」を企業内部へ取り込んだことを意味する。
⸻
1932年から始まるジュエリーの時間
CHANELのファインジュエリーを考えるとき、起点の一つとなるのが1932年である。
ガブリエル・シャネルはこの年、ダイヤモンドを中心とする「Bijoux de Diamants」を発表した。
当時の高級宝飾品には、富、資産、社会的地位と強く結びついた側面があった。
シャネルは高価な宝石そのものを否定したわけではない。
むしろダイヤモンドを大胆に使った。
しかし、扱い方を変えた。
星。
彗星。
太陽。
リボン。
フリンジ。
羽根。
宝石を重厚な財産として固定するだけでなく、身体の上で動くデザインへ変えていった。
ここでも中心にあったのは、人間の身体だった。
⸻
宝石を身体へ戻す
ジュエリーは高価である。
そのため、価値を原材料だけで考えたくなる。
ダイヤモンドの大きさ。
金の重量。
宝石の希少性。
もちろん重要である。
しかしCHANELにとって、それだけではジュエリーは完成しない。
首に置く。
腕へ巻く。
指につける。
服と組み合わせる。
身体が動く。
光が変化する。
その瞬間、素材の価値がスタイルへ変わる。
つまりファインジュエリーでも、
Material ValueだけではなくHuman Valueが必要になる。
高価な素材を所有することから、身体を通して美へ変えることへ。
これはガブリエル・シャネルの服と連続している。
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1932年を永久保存しない
しかし1932年のコレクションをそのまま再生産し続ければよいわけではない。
重要なのは、その創造からブランドコードを抽出することである。
星。
彗星。
太陽。
獅子。
カメリア。
リボン。
数字。
こうしたモチーフが、後のCHANEL Fine Jewelryで繰り返し読み直されていく。
ここでも第2章で見た構造が現れる。
一回の創造
↓
記録
↓
アーカイブ
↓
コード化
↓
再解釈
↓
新しい創造
ジュエリーにもCHANEL固有の長期的な創造循環が成立している。
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ファインジュエリー事業の本格化
CHANELは20世紀末にファインジュエリー事業を本格的に展開していく。
ここで企業として必要になる能力は、ファッションとは大きく異なる。
宝石。
貴金属。
石の選別。
セッティング。
研磨。
金属加工。
品質保証。
トレーサビリティ。
長期間使用することを前提とした耐久性。
そして、高額商品を扱う顧客サービス。
服をつくるノウハウだけでは十分ではない。
CHANELは、Jewelry-specific Capabilityを企業内部へ構築する必要があった。
⸻
Place Vendôme
パリのヴァンドーム広場は、世界のハイジュエリーを象徴する場所の一つである。
CHANELがここにファインジュエリーの拠点を持つことには、単なる立地以上の意味がある。
ガブリエル・シャネル自身もこの場所と深い関係を持った。
歴史。
都市。
宝飾文化。
世界最高水準の競争。
その中心へCHANELが入る。
これは、ファッションブランドが副次的にジュエリーを販売するのではなく、
独立したハイジュエリー・メゾンとしての能力を構築する意思
を示すものだった。
⸻
時計という別の時間
時計には、ジュエリーとはさらに異なる要素が加わる。
時間を表示する機械である。
デザインだけでは成立しない。
ムーブメント。
精密加工。
部品。
耐久性。
防水性。
組み立て。
メンテナンス。
機械工学的能力が必要になる。
CHANELが時計へ参入することは、ブランドコードを文字盤へ置くだけでは不十分だった。
美と機械を一つの商品へ統合する能力が必要だったのである。
⸻
Première
1987年、CHANELは初のウォッチとしてPremièreを発表した。
ここでもCHANELらしい方法が使われた。
時計業界の既存様式をそのまま模倣するのではなく、自らのブランドコードを時計へ移す。
八角形のケース。
N°5のボトルストッパー。
そしてパリのヴァンドーム広場。
異なるCHANELの記憶が、一つの時計デザインへ接続される。
これは単なるロゴ転用ではない。
ブランドの歴史を別カテゴリーの設計言語へ翻訳することである。
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J12
2000年に登場したJ12は、CHANELの時計事業における重要な転換となった。
セラミック。
スポーティーな表現。
黒、そして後には白。
時計業界におけるCHANELの存在感を大きく高めたモデルである。
興味深いのは、CHANELが女性向けの装飾時計だけに留まらなかったことである。
スポーツウォッチという既存カテゴリーへ入りながら、素材や色、プロポーションによってCHANEL独自の表現をつくった。
ここでも、
既存カテゴリーへ参入する
↓
CHANELのコードで読み直す
↓
新しい定番をつくる
という方法が使われる。
⸻
外装だけでは時計企業になれない
しかし時計を長期的な事業にするなら、外観のデザインだけでは足りない。
時計の本質にはムーブメントがある。
そこでCHANELは、スイスの時計産業との関係を深め、自社の時計製造能力を強化していった。
高級時計では、
外装。
ムーブメント。
素材。
仕上げ。
組み立て。
修理。
すべてが商品価値へ影響する。
つまりCHANELはファッションで培ったBrand Creationだけでなく、
Watchmaking Capability
を蓄積しなければならなかった。
⸻
Monsieur de CHANELと自社ムーブメント
時計事業の成熟を象徴する出来事の一つが、自社開発ムーブメントへの本格的な取り組みである。
Monsieur de CHANELなどを通じて、CHANELはムーブメント開発そのものへ踏み込んだ。
これは企業として重要である。
ブランド名を既存時計へ載せる。
それだけなら比較的容易である。
しかし機構を自ら設計し、技術を蓄積するには長い時間と資本が必要になる。
ここでもCHANELは、
ブランド拡張から製造能力の深化へ
進んでいる。
⸻
時計とクラフト
時計製造には、ファッションとは別のクラフトが存在する。
ミクロン単位の精密性。
小さな部品。
研磨。
組み立て。
調整。
動作検査。
一人の職人の手の感覚が品質を左右する。
ここで第7章で扱うCHANELのクラフトというテーマがさらに広がる。
刺繍職人だけがクラフトではない。
時計師もいる。
宝石職人もいる。
調香師もいる。
CHANELとは、異なる種類の高度な専門技術を一つのブランドへ統合している企業なのである。
⸻
High Jewelryは物質価値を持つ
ファッションとの大きな違いの一つは、素材そのものに高い市場価値があることである。
ダイヤモンド。
ゴールド。
その他の宝石。
これらはブランドがなくても一定の価値を持つ。
そこへCHANELのデザインと職人技が加わる。
したがってジュエリーの価格には、
Material Value
+ Craft Value
+ Design Value
+ Brand Value
という複数の層がある。
バッグや服にも素材価値はあるが、ハイジュエリーではこの物質価値がより大きく前面に出る。
⸻
だから調達の責任も大きくなる
高価な素材には、その入手経路という問題もある。
どこで採掘されたのか。
労働環境はどうか。
環境負荷はどうか。
トレーサビリティは確保されているか。
リサイクル素材を利用できるか。
金や宝石の価値が高いからこそ、調達過程に問題があればブランドへの影響も大きい。
CHANELは2020年代、時計・ジュエリー部門を含め、責任ある素材調達やリサイクルゴールドの利用比率向上を進めている。
ここでラグジュアリーと環境・人権が直接つながる。
⸻
Material Traceabilityという新しい価値
従来のジュエリーでは、
何カラットか。
どの宝石か。
どの程度美しいか。
が重要だった。
今後はそこに、
どこから来たのか。
どのように採取されたのか。
環境・社会的条件はどうだったのか。
という情報が加わる。
つまり高級素材の価値は、物理的品質だけでなく、
Provenance
によっても評価される。
これは21世紀のハイジュエリーにとって重要な変化である。
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時計とジュエリーは顧客関係を深くする
FashionやBeautyからCHANELへ入った顧客が、人生の別の段階で時計やジュエリーを購入することがある。
誕生日。
結婚。
記念日。
仕事上の節目。
個人的な達成。
高額な時計やジュエリーには、人生の出来事と結びつく購入理由が多い。
すると商品には、
CHANELというブランドの歴史
だけでなく、
顧客自身の人生の歴史
も加わる。
これが長期顧客価値を非常に強くする。
⸻
モノが記憶の容器になる
一つのリングを買う。
そのリングを見るたびに、購入した時期を思い出す。
時計を毎日身につける。
何年後にも同じ時計が腕にある。
子どもへ渡す。
すると商品は単なる所有物から、
人生の記憶を保持する物体へ変わる。
高級時計とジュエリーの価値には、この心理的時間が含まれる。
⸻
世代を越える可能性
ここがBeautyとの大きな違いである。
化粧品は使い切る。
香水もいつかなくなる。
しかしリングは残る。
時計はメンテナンスできる。
ネックレスも残る。
適切に管理すれば、次世代へ渡せる。
つまり商品の寿命が、最初の所有者の使用期間を超える可能性がある。
ここでは企業が販売した後も、商品の時間が続いていく。
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After-Salesが企業価値になる
長く使う商品には、販売後のサービスが重要になる。
時計の点検。
ムーブメントの整備。
部品交換。
ケースやブレスレットの修理。
ジュエリーの洗浄。
石の確認。
修理。
サイズ調整。
これらを長期的に提供できること自体がブランド価値になる。
販売した瞬間に企業との関係が終了するのではない。
Purchase → Use → Service → Continued Use
という長期関係が成立する。
⸻
修理できることは高級品の条件になる
大量消費型商品では、壊れたら買い替える方が安い場合がある。
しかし高級時計やジュエリーでは逆である。
修理する価値がある。
企業側にも、修理技術を残す責任が生まれる。
古いモデル。
過去のムーブメント。
特殊な素材。
それらを扱える知識が必要になる。
つまり商品の寿命を長くするには、
製造能力だけでなくRepair Capability
も企業資産になる。
⸻
セカンダリー市場
時計やジュエリーには活発な中古市場も存在する。
そこで商品は別の所有者へ移る。
この市場は企業の直接販売ではない。
しかしブランドに大きな影響を与える。
中古でも需要がある。
残存価値が高い。
古いモデルが再評価される。
それは新品のブランド価値にも影響する。
一方、投機化や偽造品、価格変動といった課題もある。
したがってセカンダリー市場は企業外部に存在しながら、ブランド価値の時間を延ばす重要な領域になる。
⸻
新品の瞬間だけで価値を測らない
ここから、CHANELの商品価値について重要な視点が生まれる。
販売時の価格だけを見る。
それでは時計・ジュエリーの価値の一部しか見えない。
10年使えるか。
30年使えるか。
修理できるか。
次世代へ渡せるか。
中古市場で需要があるか。
思い出を保持できるか。
こうした時間を含めれば、商品価値は長期的に評価される。
高価格を、長い使用時間によって別の角度から捉えることができる。
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ファッションから時計へ、時計からファッションへ
CHANELの強さは、各カテゴリーが完全に独立していないことにもある。
黒と白。
カメリア。
キルティング。
チェーン。
ライオン。
コメット。
ブランドコードがカテゴリー間を移動する。
服で生まれたコードが時計へ入る。
ジュエリーのモチーフがバッグやFashionへ戻る。
するとCHANELの世界全体が厚くなる。
一つのコードが、異なる素材と時間によって再解釈されるからである。
⸻
Material Translation
たとえばカメリアを考える。
服では布になる。
バッグでは装飾になる。
Beautyでは植物・成分との関係を持つ。
ジュエリーではゴールドとダイヤモンドになる。
同じカメリアでも、物質が違う。
技術が違う。
価格が違う。
寿命も違う。
それでもCHANELのコードとして認識できる。
これが一つのブランドが複数事業を持つ強さである。
⸻
Fashionより遅い時間
時計とジュエリーでは、ファッションほど急速に商品を変える必要はない。
むしろ長期間存在できるデザインが重要になる。
一年後に古く見える時計では、長期的な価値をつくりにくい。
だからデザイン判断の時間軸も違う。
Fashionは「今」を強く読む。
Watch & Jewelryは、「今」を持ちながら10年後にも成立するかを考える必要がある。
この異なる時間を同じCHANELが持つことに企業的な意味がある。
⸻
異なる時間を相互補完する
Fashionだけなら、ブランドの変化速度が速すぎる可能性がある。
Jewelryだけなら、ブランドが静的になりすぎる可能性がある。
Beautyだけなら、ブランドが大量市場へ近づきすぎる可能性がある。
CHANELでは、
Fashionが更新をつくる。
Beautyが広い接点をつくる。
Watch & Fine Jewelryが長期的な物質価値をつくる。
それぞれの時間が違うから、企業全体が安定する。
⸻
価格帯の頂点を形成する
ハイジュエリーは、CHANELの商品価格体系の最上位の一つを形成する。
ここで顧客が購入するのは、単なるブランドロゴではない。
非常に希少な宝石。
高度なデザイン。
専門職人による加工。
個別性の高いサービス。
そしてCHANELの歴史。
この最高価格帯が存在することで、ブランド全体の上方向の可能性が広がる。
香水からハイジュエリーまで、一つのブランドの内部に巨大な価格レンジを持てる。
⸻
しかしブランドは分裂してはいけない
価格が違いすぎれば、別々のブランドのようになる危険がある。
口紅と数千万円を超える可能性のあるハイジュエリー。
経済的にはまったく異なる商品である。
それでも両方がCHANELだと顧客が認識する。
それを可能にするのが、
デザインコード。
品質。
店舗体験。
広告。
歴史。
一貫したブランド管理。
である。
Price Architectureが広くてもBrand Identityは一つでなければならない。
⸻
時計・ジュエリーと独立経営
この事業は、CHANELの長期資本とも相性がよい。
時計製造能力を構築する。
ムーブメントを開発する。
宝飾職人を育てる。
高品質な宝石を調達する。
ヴァンドーム広場へ投資する。
どれも短期間で完成するものではない。
したがって非上場企業として長期投資できることが重要になる。
ブランド名だけで参入して短期利益を得るのではなく、
本物の技術能力を内部へ蓄積する。
これがCHANELの独立経営の一つの表現でもある。
⸻
Craft × Engineering
時計とジュエリーでは、CHANELの別の側面も見えてくる。
ジュエリーにはCraftがある。
時計にはCraftとEngineeringがある。
Fashionでは布と身体。
Beautyでは化学・生物学・感覚。
Watchでは機械。
一つのブランドの内部に、異なる知識体系が存在する。
CHANELはそれらを同一化するのではなく、それぞれの専門性を保ったままブランドへ接続する。
この能力こそ、巨大メゾン経営の本質の一つである。
⸻
AIで置き換えにくい価値
AIが高度化する2026年以後を考えても、時計・ジュエリー事業は興味深い。
AIはデザイン案を生成できる。
需要を予測できる。
宝石の情報を管理できる。
顧客提案も支援できる。
しかし、
石を選ぶ。
研磨する。
手でセッティングする。
機械式ムーブメントを組み立てる。
微細な感覚で仕上げる。
顧客の人生の節目に応じて提案する。
こうした領域には高度な人間技能が残る。
だからAI時代には、人間のクラフトの価値が消えるのではなく、むしろ何が人間にしかできないのかがより明確になる可能性がある。
⸻
物質が時間を保持する
時計とファインジュエリーをCHANEL全体の中で見ると、その最大の特徴はここにある。
ファッションは時間を表現する。
香水は時間を記憶へ変える。
時計は時間そのものを表示する。
ジュエリーは時間を超えて物質として残る。
同じ企業の中に、異なる時間の扱い方が存在する。
これは偶然ではない。
ラグジュアリーという産業は、本質的に時間と深く関係している。
⸻
長く残るほど企業にも責任が生まれる
そして商品寿命が長くなるほど、企業責任も長くなる。
販売して終わりではない。
修理。
メンテナンス。
部品。
職人。
素材情報。
真正性。
これらを長く維持しなければならない。
100年残る可能性のある商品を売る企業は、短期的な販売会社では足りない。
長期的なService Infrastructureを持つ企業でなければならない。
⸻
第3の企業時間
ここまで第6章では、
第1節でFashionを見た。
変化の速い時間。
第2節でFragrance & Beautyを見た。
日常的に反復される時間。
そして本節ではWatch & Fine Jewelryを見た。
長く保持され、継承される時間。
この三つを並べると、CHANELという企業の特殊性が見えてくる。
Seasonal Time
Recurring Time
Generational Time
異なる商品時間を一つのブランドが持っている。
そのため、一つの市場が変動しても企業全体を別の時間が支えることができる。
⸻
商品から場所へ
しかし商品だけでは、これらの価値を顧客へ届けることはできない。
ジャケットを見る場所。
香水を試す場所。
バッグに触れる場所。
時計を腕へ置く場所。
ジュエリーを身につける場所。
販売スタッフと話す場所。
その役割を担うのがブティックである。
デジタルが発達しても、CHANELが物理店舗へ巨額の投資を続ける理由はここにある。
ブティックは商品を並べる場所ではない。
Fashion・Beauty・Watch・Jewelryと、人間の身体を接続する場所なのである。
次節では、CHANELという企業の物理的な最前線へ進む。
第4節 ブティック
なぜデジタル時代になっても、CHANELは世界最高の立地、建築、接客へ巨額の資本を投入し続けるのか。
第4節 ブティック
CHANELにとって、ブティックは商品を販売するだけの場所ではない。
ツイードジャケットを着る。
バッグを肩へ掛ける。
時計を腕へ置く。
ジュエリーを身につける。
素材に触れる。
鏡を見る。
販売スタッフと話す。
オンライン上では分離して存在する画像、価格、商品説明が、ブティックでは一人の顧客の身体を中心に統合される。
だからCHANELが世界各地の店舗へ大きな資本を投入してきた理由を、「販売面積を増やすため」だけでは説明できない。
ブティックは、ブランド・商品・人間・身体・都市を接続するCHANELの物理的な最前線なのである。
カンボン通りから始まる
CHANELの店舗史を考えるとき、起点にはパリのカンボン通りがある。
ここには単なる住所以上の意味が蓄積されている。
ガブリエル・シャネルが仕事をした場所。
オートクチュール。
鏡張りの階段。
アトリエ。
顧客。
そしてブランドの記憶。
CHANELが世界企業になった後も、このパリの起源は消えない。
東京。
ニューヨーク。
ロンドン。
上海。
ソウル。
ドバイ。
世界各都市へブティックが広がっても、その店舗は完全に独立した地域ブランドになるわけではない。
どこにあっても、CHANELという一つのメゾンへ接続されている必要がある。
⸻
店舗は商品の「最後の工程」である
通常、商品の製造は工場やアトリエで完了すると考えられる。
しかしラグジュアリーでは、それだけでは十分ではない。
美しいバッグをつくる。
そのバッグを無秩序に棚へ積む。
十分な知識を持たない販売員が扱う。
照明や空間もブランドと合わない。
それでは商品の価値は完全には伝わらない。
つまり、商品そのものが完成していても、
顧客がその価値を理解できる環境
が必要になる。
その意味でブティックは、製造後に置かれる販売施設ではなく、商品の価値を顧客体験へ変換する最後の工程でもある。
⸻
空間が価格を説明する
CHANELの商品は高価格である。
高価格であるほど、顧客は商品だけでなく、その周囲のすべてを見る。
店舗の立地。
入口。
建築。
照明。
素材。
静けさ。
商品配置。
販売員の知識。
待ち時間。
包装。
購入後の対応。
もし商品だけが高価で、その周囲の体験が一般的な小売店と変わらなければ、価格との不整合が生じる。
したがってブティックへの投資は、単なる装飾費用ではない。
価格と顧客が感じる価値を接続する投資でもある。
⸻
商品を大量に並べない
一般的な小売業では、商品を多く陳列することに合理性がある。
選択肢が増える。
在庫が見える。
比較しやすい。
しかしラグジュアリーでは、空間そのものに余白が必要になる。
一点のバッグ。
一着のジャケット。
一つのジュエリー。
商品と商品の間に空間を置く。
顧客が一つのものを見る時間を確保する。
この余白は、一見すると売場効率を下げる。
しかしCHANELでは、その非効率が価値になる。
大量の商品を効率的に処理する場所ではなく、一つの商品へ注意を集中させる場所をつくるからである。
⸻
一等地というブランド資産
CHANELは世界の主要都市で、高級商業地区の重要な立地に店舗を展開してきた。
この立地選択には複数の意味がある。
富裕層が訪れる。
観光客が来る。
他の最高級ブランドが集まる。
都市の象徴性がある。
そして、限られた一等地そのものに希少性がある。
パリの特定の通り。
ニューヨークの特定地区。
東京の銀座。
ロンドンの高級商業地区。
そこで店舗を構えること自体が、
「CHANELはこの都市の最高級商業空間を構成するブランドである」
という社会的な位置を可視化する。
⸻
RetailとReal Estate
ここでブティックには二つの価値が重なる。
一つはRetail。
商品を販売する場所。
もう一つはReal Estate。
長期間ブランドが都市に存在するための物理的基盤。
特に戦略的重要性の高い場所では、不動産の取得や長期的な拠点確保そのものが企業資産になり得る。
つまり店舗投資は、
短期の売上
と
長期の都市資産
を同時に持つことがある。
非上場で長期投資を行えるCHANELにとって、この時間軸は重要である。
⸻
ブランドは都市の一部になる
店舗が同じ場所に長期間存在すると、さらに別の効果が生まれる。
「あそこにCHANELがある」
という認識が都市の記憶へ入る。
建築。
ショーウィンドウ。
季節ごとのディスプレイ。
人の流れ。
街並み。
するとブランドは広告として都市に現れるだけではない。
都市の風景そのものを構成する。
これはデジタル広告では簡単に再現できない。
ブティックは、ブランドが都市へ定着する方法でもある。
⸻
ブティックはメディアである
ファッションショーが一時的なブランドメディアなら、ブティックは常設のブランドメディアである。
毎日開く。
顧客が入る。
ウィンドウを見る人もいる。
商品を買わなくても建築を見る。
写真に写る。
街の中で認識される。
つまり店舗の価値は、そこで発生した売上だけでは測れない。
ブランド認知。
顧客関係。
文化的存在感。
都市での可視性。
これらを継続的に生み出している。
⸻
Digital時代に店舗は不要になるのか
インターネットとECの発達によって、小売業全体では店舗の役割が大きく変化した。
商品を探す。
価格を比較する。
注文する。
決済する。
配送してもらう。
これらはオンラインでできる。
ならば、高コストな一等地の店舗を維持する意味は薄れるようにも見える。
しかしCHANELの場合、逆に物理店舗の価値が明確になる。
なぜならデジタルで代替できるのは、購買プロセスの一部だからである。
⸻
画面では伝わらないもの
ツイードの感触。
革の柔らかさ。
バッグの重さ。
ジャケットを着たときの肩の感覚。
ジュエリーの光。
時計が腕に乗ったときのサイズ。
香水が自分の肌でどう変化するか。
これらを画面から完全に理解することは難しい。
特に価格が高くなるほど、顧客は実物を確認したい。
だからデジタル時代になっても、CHANELの中心的商品ではPhysical Experienceが大きな価値を持つ。
⸻
デジタルは店舗の敵ではない
ただし、物理店舗を守ることとデジタルを拒否することは違う。
顧客は店舗へ来る前にスマートフォンで商品を見る。
ショーを見る。
SNSを見る。
予約する。
販売スタッフと連絡する。
商品情報を確認する。
購入後にもデジタルで関係が続く。
すると、
Digital
→ Boutique
→ Digital
という連続した顧客体験が成立する。
重要なのはチャネルを競わせることではなく、
一人の顧客から見て、一つのCHANELとしてつながっていること
である。
⸻
販売員という人間インターフェース
CHANELのブティックで最も重要な存在の一つは、販売スタッフである。
商品を棚から持ってくるだけではない。
商品の歴史を説明する。
素材を説明する。
サイズを見る。
顧客の好みを理解する。
以前の購入を覚える。
新商品を提案する。
場合によっては修理やアフターサービスへつなぐ。
ここで店舗スタッフは、
企業と顧客の間に立つHuman Interfaceになる。
⸻
商品知識だけでは足りない
高級接客では、知識だけでは十分ではない。
顧客はそれぞれ違う。
話したい人。
静かに見たい人。
時間が限られている人。
長く相談したい人。
初めてCHANELへ来た人。
数十年間通っている人。
相手に応じて距離を調整する必要がある。
過度に売ろうとすれば、顧客は圧力を感じる。
距離を取りすぎれば、特別なサービスにならない。
この微細な判断は、マニュアルだけでは完全に定義できない。
販売にも暗黙知がある。
⸻
Client Advisorという資産
だから優れた販売スタッフは、単なる人件費ではない。
長期的な顧客関係を持つ企業資産である。
顧客はCHANELという抽象的な会社だけと関係するわけではない。
「いつもの担当者」と関係することがある。
その人物が好みを知っている。
体型を知っている。
過去の商品を知っている。
人生の節目を知っている。
そこでブランドとの関係が人格化される。
Client RelationshipがHuman Relationshipを通じて形成される。
⸻
人が退職したら関係も消えるのか
ここに企業側の課題がある。
販売スタッフ個人に顧客関係が集中しすぎれば、その人が退職したとき知識も失われる。
一方、すべてをデータベースへ変換すれば、接客が機械的になる。
必要なのは、
人間が持つ関係性
と
企業が保持する顧客情報
を適切に接続することである。
ここにCRM、データ、そしてAIの役割が生まれる。
⸻
AIは販売スタッフを置き換えるのか
AIは、店舗でも大きな支援能力を持つ。
過去の購入履歴を整理する。
顧客が好みそうな商品を提示する。
在庫を検索する。
別店舗の商品を確認する。
商品情報を即座に表示する。
翻訳を支援する。
しかしAIが顧客の人生の節目にどう寄り添うべきかを、すべて自動的に判断することには限界がある。
ラグジュアリー接客では、効率よりも重要なものがある。
タイミング。
配慮。
沈黙。
信頼。
AIはこれらを支援できる。
しかし最終的な関係は人間が担う余地が大きい。
⸻
Private Boutiqueという方向
CHANELは2020年代、特に重要な顧客との関係を深めるため、よりプライベートな顧客空間を展開する方向も強めてきた。
ここには一般的な店舗拡大とは異なる思想がある。
より多くの人を一つの店へ入れるのではない。
顧客一人ひとりに、より多くの時間と空間を提供する。
つまり成長を、
来店者数
ではなく、
Relationship Depth
から捉える。
これはウルトラ・ラグジュアリー化の重要な一側面である。
⸻
排他性だけでは説明できない
しかしPrivate Boutiqueを、「富裕層以外を排除する場所」とだけ理解すると不十分である。
高額商品を扱う最重要顧客には、
プライバシー。
セキュリティ。
時間。
商品選択の幅。
個別の相談。
が必要になる。
そのための専用環境にはサービス上の合理性がある。
ただし、その仕組みが過度に閉鎖的になれば、未来の顧客がブランドへ憧れる入口を失う可能性もある。
CHANELには、
ExclusivityとCultural Openness
の均衡が必要になる。
⸻
初めて来る顧客
世界最高峰ブランドでも、新しい顧客は毎年生まれる。
初めて香水を買う人。
初めてバッグを見に来る人。
初めて時計を試す人。
その人にとって、CHANELの100年の顧客関係は存在しない。
最初の数分がすべてである。
高級ブランドだからといって威圧的でよいわけではない。
むしろ初回体験が悪ければ、将来数十年続く可能性のあった関係を失うことになる。
したがってブティックは、
現在のVIPを守る場所であると同時に、
未来の長期顧客が最初にCHANELと出会う場所
でもある。
⸻
観光客から現地顧客へ
パンデミック以前、世界のラグジュアリー市場では国際旅行者の購買が大きな役割を持っていた。
しかし2020年、旅行が止まる。
そこで現地顧客との関係の重要性が改めて認識された。
観光客が一度訪れる店舗。
それだけではなく、
同じ地域の顧客が繰り返し来る店舗。
この違いは大きい。
後者では、店舗が一回の取引の場所から、長期関係の場所へ変わる。
⸻
世界ブランドから地域関係へ
CHANELは世界ブランドである。
しかし実際の顧客関係は地域で起きる。
銀座の顧客。
パリの顧客。
ニューヨークの顧客。
ソウルの顧客。
文化も生活も異なる。
したがってブティックは、
グローバルに統一されたブランドコード
と、
ローカルな人間関係
を接続する場所になる。
ここでは標準化だけでも、完全な現地化だけでも足りない。
⸻
同じCHANEL、異なる場所
ブティックのデザインもこの問題を持つ。
世界中すべて同じ内装なら、ブランドの一貫性は強い。
しかし都市の個性は消える。
すべて現地文化へ合わせれば、CHANELとしての統一感が弱くなる。
だから必要なのは、
CHANELとして認識できる。
同時に、その場所にも属している。
という設計である。
ブランドと都市との関係は、この微妙な差から生まれる。
⸻
建築というブランド表現
このためCHANELの店舗では、建築そのものが企業活動の一部になる。
ファサード。
石材。
光。
階段。
家具。
アート。
商品との距離。
顧客の導線。
すべてにブランドの考え方を表現できる。
店舗建築は、広告のように一瞬で消費されるものではない。
場合によっては数十年残る。
だから建築投資には長い時間がある。
⸻
Artとの関係
CHANELの店舗や関連空間では、アートとの関係も重要になる。
ラグジュアリーが単なる小売空間から文化的空間へ近づくことで、顧客は商品だけではなくブランドの知的・美的世界を体験する。
ここでも短期的な販売効率だけでは測れない価値が生まれる。
ブランドは、何を売るかだけでなく、
何を美しいものとして選び、どのような空間を社会へ提示するか
によっても評価される。
⸻
Repairへの入口
ブティックには販売後の役割もある。
バッグを修理したい。
時計を点検したい。
ジュエリーをメンテナンスしたい。
商品について相談したい。
そこで再び店舗へ戻る。
するとブティックは、
販売の終点
ではなく、
所有期間全体を支える接点
になる。
これは次章のクラフト、さらに第8章の長期価値へつながる重要な機能である。
⸻
購入後こそ関係が始まる
従来型の販売管理では、購入すれば取引完了である。
しかし最高級ラグジュアリーでは逆に考えることができる。
購入前はまだブランドとの関係が浅い。
購入後、
使用する。
相談する。
修理する。
別の商品を見る。
店舗スタッフとの関係が続く。
ここから本当の長期顧客価値が形成される。
したがってブティックは、
Transaction PointからRelationship Pointへ
進んでいる。
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売上密度だけでは店舗価値を測れない
もちろん店舗には売上目標がある。
高額な一等地を維持する以上、生産性は重要である。
しかし店舗価値を平方メートル当たり売上だけで判断すれば、一部しか見えない。
新規顧客獲得。
重要顧客維持。
ブランド認知。
アフターサービス。
地域市場の情報収集。
文化的存在感。
これらも店舗が生み出す。
つまりブティックは複数の機能を持った長期資産である。
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店舗スタッフは市場を観測する
さらに販売スタッフは、顧客を最も近くで見ている。
何を試すのか。
何を買わないのか。
何に驚くのか。
価格をどう感じるのか。
どの商品への問い合わせが多いのか。
どのサイズが必要なのか。
こうした情報は、本社の販売データだけでは完全には見えない。
店舗は商品を市場へ出すだけではなく、市場から知識を企業へ戻す場所でもある。
⸻
現場知を経営へ戻せるか
ここで企業組織の質が問われる。
本社がすべて決め、店舗は指示された商品を売るだけなのか。
それとも店舗で得られた顧客理解が、商品企画や経営へ戻るのか。
後者なら、世界中のブティックは巨大な情報ネットワークになる。
これはリーナ・ナイルが重視する人間中心の組織とも接続する。
現場の人間は実行者だけではない。
顧客についての知識を持つ主体でもある。
⸻
価格が上がるほど接客の価値も上がる
CHANELの主要商品の価格帯が上昇すれば、店舗体験への期待も上がる。
100万円の商品。
200万円の商品。
さらに高価なジュエリー。
それを一般的な小売体験で販売することは難しい。
商品価格が高くなるほど、
知識。
時間。
信頼。
プライバシー。
アフターサービス。
が重要になる。
したがって高価格戦略は、販売スタッフや店舗への投資を同時に要求する。
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ブティックは企業文化の鏡でもある
顧客がCHANEL本社を訪れることはほとんどない。
CEOと話すこともない。
企業文化についての内部資料も読まない。
顧客が実際に接するCHANELは、
商品。
店舗。
販売スタッフ。
である。
つまり社内でどれだけ立派な理念を掲げても、店舗スタッフが疲弊し、顧客を粗雑に扱えば、その理念は顧客には存在しない。
企業文化はブティックで顧客体験へ変換される。
この意味で人的資本への投資と顧客体験は分離できない。
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ブティックと環境
物理店舗には環境負荷もある。
建築。
照明。
空調。
電力。
資材。
商品の輸送。
改装。
店舗網が世界へ広がるほど、その影響も大きくなる。
したがって今後のブティック設計では、高級感と環境性能を同時に考える必要がある。
再生可能エネルギー。
建物効率。
素材。
廃棄物。
物流。
ここでも、
Luxury
と
Sustainability
を対立させず設計する必要がある。
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店舗は増やせばよいのか
企業成長では店舗数が一つの指標になる。
しかしCHANELでは、店舗を増やせば増やすほど成功というわけではない。
一つの店舗を十分な商品で満たせるか。
優秀なスタッフを配置できるか。
既存店舗の顧客体験を薄めないか。
希少性を損なわないか。
その市場に長期的な顧客がいるか。
これらを考える必要がある。
したがって店舗戦略も、
QuantityよりQuality
が重要になる。
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ExpansionからRelationへ
20世紀後半から21世紀初頭まで、CHANELは世界へ店舗網を拡大した。
これは必要だった。
世界ブランドになるには、世界の顧客がCHANELへアクセスできる場所が必要だからである。
しかし一定のグローバル網が形成された後、次の成長は店舗数だけでは測りにくくなる。
既存店舗の顧客関係をどれだけ深くできるか。
顧客一人ひとりをどれだけ理解できるか。
購入後の関係をどれだけ長くできるか。
そこで小売の中心は、
ExpansionからRelationへ
移っていく可能性がある。
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ブティックは人間とCHANELが出会う場所
結局、ブティックの本質は非常に単純である。
CHANELという巨大な企業は抽象的な存在である。
売上高。
組織。
サプライチェーン。
アーカイブ。
何万人もの従業員。
それらを顧客が一度に見ることはできない。
しかし一つのブティックへ入れば、
商品に触れられる。
人と話せる。
試せる。
選べる。
そこでCHANELが具体的な経験になる。
企業が人間へ変換される場所。
それがブティックである。
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商品、場所、人間
第6章はここまで、CHANELの主要な事業を見てきた。
Fashionでは、ブランドの現在をつくる。
Fragrance & Beautyでは、世界中の日常へ接点を広げる。
Watches & Fine Jewelryでは、長い時間の物質価値をつくる。
そしてBoutiqueでは、それらの商品を人間の身体と生活へ接続する。
しかしこれらすべては、一つの国だけで行われているわけではない。
欧州。
米州。
日本。
中国。
韓国。
中東。
東南アジア。
世界各地で顧客構造、所得、文化、旅行、為替、地政学が異なる。
次に問うべきなのは、この一つのCHANELを世界の異なる市場でどのように経営するのかである。
第5節 世界市場
世界ブランドでありながら、特定の一国や一地域へ過度に依存しないこと。その難しさが、2020年代のCHANELの経営を決めていく。
第5節 世界市場
CHANELはフランスで生まれた。
しかし2026年のCHANELは、フランスだけでは成立しない。
欧州。
北米。
日本。
中国。
韓国。
東南アジア。
中東。
そして新しい富裕層が形成されつつある地域。
世界各地の顧客がCHANELの商品を購入し、その地域ごとの文化、所得、生活、身体、美意識のなかでCHANELを受け取っている。
したがってCHANELの世界市場戦略とは、単に海外売上を増やすことではない。
一つのブランドを維持しながら、異なる世界と関係をつくること。
そして、一地域への過度な依存を避けながら、長期的な顧客基盤を世界へ分散すること。
そこに、グローバル企業CHANELの経営課題がある。
世界市場とはCHANELを世界へ同じ形で広げる場所ではない。世界の違いとCHANELの同一性を同時に経営する場所なのである。
⸻
パリを失わず世界企業になる
世界へ拡大すると、企業には標準化の力が働く。
同じ商品。
同じ店舗。
同じ広告。
同じサービス。
同じシステム。
規模が大きいほど、統一した方が効率的になる。
しかしCHANELの場合、世界化によってフランス的・パリ的な起源まで薄めれば、ブランド価値そのものを弱める可能性がある。
CHANELの価値には、
カンボン通り。
オートクチュール。
フランスのメティエダール。
ガブリエル・シャネル。
パリのファッション文化。
という起源が含まれている。
したがってグローバル化とは、起源を世界標準へ薄めることではない。
Parisという強い起源を保持したまま、世界の顧客へ接続することである。
⸻
欧州という起源市場
欧州はCHANELにとって単なる販売地域ではない。
ブランドの歴史そのものが存在する地域である。
パリ。
フランス。
英国との文化的関係。
欧州の芸術、建築、ファッション、職人文化。
これらがCHANELの歴史を形成してきた。
さらに欧州には、現地の富裕層だけではなく、長年世界中から観光客が集まってきた。
そのため欧州店舗は、
Local Client
と、
International Traveler
の双方を扱う場所だった。
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観光消費への依存
ラグジュアリー産業では長期間、旅行と消費が強く結びついてきた。
パリへ行く。
CHANELへ行く。
現地で購入する。
旅行そのものがブランド体験になる。
しかし2020年、パンデミックによって国際旅行は急減した。
その瞬間、旅行者消費へ依存するモデルの脆弱性が明確になった。
欧州市場を強くするとは、世界から旅行者を集めることだけではない。
欧州に住む顧客との長期的な関係を維持することも必要である。
⸻
米国という巨大市場
米国は、CHANELの歴史において早くから重要な市場だった。
1954年にガブリエル・シャネルがファッションへ復帰した際にも、フランス国内より米国側で高く評価されたことは象徴的である。
その後、米国は世界有数の富裕層市場としてラグジュアリー企業にとって不可欠な地域となった。
ニューヨーク。
ロサンゼルス。
マイアミ。
その他の主要都市。
所得・資産規模だけではない。
文化、映画、音楽、著名人、メディアを通じて、米国市場はブランドの世界的イメージにも影響する。
したがって米国は、
Sales Marketであると同時にCultural Market
でもある。
⸻
日本という成熟市場
日本もCHANELの世界市場を理解するうえで重要である。
1980年代以降、日本は世界のラグジュアリー市場で極めて大きな存在感を持つようになった。
日本の顧客は、
品質。
細部。
職人技。
サービス。
商品状態。
ブランドの歴史。
に高い要求を持つ傾向があり、世界の高級ブランドにとって重要な市場となった。
CHANELにとって日本は、単なる販売数量の市場ではない。
長期顧客。
成熟したブランド理解。
高水準の店舗サービス。
こうした能力が試される市場でもある。
⸻
成熟市場は成長しない市場ではない
成熟市場という言葉は、ときに「成長余地のない市場」と誤解される。
しかしラグジュアリーでは、顧客数だけが成長ではない。
顧客との関係を深くする。
カテゴリーを広げる。
FashionからJewelryへ進む。
BeautyからFashionへ進む。
修理やサービスを充実させる。
若い世代へブランドを継承する。
つまり成熟市場では、
Customer ExpansionよりRelationship Development
が重要になる。
日本はその典型的な市場の一つとして考えられる。
⸻
中国という巨大な変化
21世紀のラグジュアリー市場を大きく変えたのが中国である。
経済成長。
都市化。
富裕層・中間層の拡大。
海外旅行。
若い消費者。
これらによって、中国人顧客は世界のラグジュアリー産業に巨大な影響を与えるようになった。
中国国内だけを見るのでは足りない。
パリ。
東京。
香港。
シンガポール。
世界各地で中国人旅行者による購入が発生した。
その結果、ラグジュアリー企業にとって中国は、
「一地域」
ではなく、
世界市場全体へ影響する顧客圏
になった。
⸻
成長市場への過度な依存
しかし、一つの市場が急速に成長すると、企業はそこへ資本を集中したくなる。
店舗を増やす。
在庫を増やす。
マーケティングを増やす。
中国需要が伸び続けるという前提で事業を組み立てる。
短期的には合理的である。
だが経済成長率が鈍化する。
不動産市場が弱くなる。
消費者心理が変化する。
規制が変わる。
地政学的関係が悪化する。
そうなれば、一地域への依存度が高い企業ほど影響を受ける。
だからCHANELの世界市場経営には、
GrowthとDiversification
の両方が必要になる。
⸻
中国から離れるのではない
ここで「中国依存を減らす」という言葉を、「中国市場から撤退する」と理解してはいけない。
中国は依然として重要なラグジュアリー市場である。
必要なのは、
中国を重視する。
しかし中国だけを前提にしない。
ということだ。
米国。
欧州。
日本。
韓国。
中東。
東南アジア。
新興する富裕層市場。
複数の地域に顧客基盤を持つ。
それによって、世界市場全体の変動へ耐えやすくなる。
⸻
韓国という文化発信市場
韓国も2020年代のラグジュアリーを考えるうえで重要性を増した。
高いブランド関心。
都市集中。
ファッション。
音楽。
映像文化。
グローバルな文化発信力。
韓国では消費市場そのものに加え、K-popや映画、ドラマなどを通じて、著名人の着用がアジアや世界へ波及する。
つまり市場価値には、
その国でどれだけ売れるか
だけではなく、
その市場からどれだけ文化的影響が外へ広がるか
も含まれる。
⸻
中東という別の富裕層市場
中東にも独自の市場構造がある。
高い購買力を持つ富裕層。
ドバイなどの国際都市。
旅行。
ファミリー単位での顧客関係。
プライバシーへの高い要求。
ジュエリー、時計、ファッションへの需要。
こうした条件は欧米市場とは異なる。
したがってグローバル戦略とは、世界中へ同一の販売方法をコピーすることではない。
ブランドの根幹は同じでも、
顧客との関係のつくり方は異なり得る。
⸻
東南アジア
シンガポールをはじめとする東南アジアの主要市場も、富裕層の増加とともに重要性を増している。
東南アジアは一つの均質な市場ではない。
所得。
宗教。
文化。
都市構造。
観光。
政治制度。
それぞれ異なる。
企業側には、この複雑さを「Asia」という一語へまとめない能力が必要になる。
世界企業ほど、地域を細かく理解しなければならない。
⸻
インドという長期市場
そして、将来のラグジュアリー市場を考えるうえで無視できないのがインドである。
巨大な人口。
経済成長。
起業家・専門職・資産家の増加。
若い人口構成。
独自の宝飾文化。
世界各地へ広がるインド系富裕層。
これらは長期的な市場可能性を持つ。
しかし中国の成長モデルをそのままインドへコピーできるとは限らない。
都市。
所得格差。
文化。
伝統。
小売インフラ。
消費習慣。
すべて異なる。
だから新興市場への参入には、長い時間が必要になる。
⸻
リーナ・ナイルの背景
2022年からCEOを務めるリーナ・ナイルがインドで育ち、世界企業の経営へ進んだ人物であることは、CHANELの世界市場を考える際にも興味深い。
ただし、彼女の出身地だけからCHANELのインド戦略を説明するべきではない。
より重要なのは、世界市場を欧米だけの視点から見るのではなく、
異なる文化。
異なる人材。
異なる顧客。
を経営の内部から理解できることにある。
グローバル企業では、経営陣そのものの経験の多様性が市場理解へ影響する。
⸻
世界市場は「売上地図」ではない
企業資料を見ると、世界市場は地域別売上として表示される。
Europe。
Americas。
Asia。
数字で比較する。
もちろん必要である。
しかしラグジュアリーでは、それだけでは市場を理解できない。
一人の中国人顧客が、
上海でBeautyを買い、
東京でバッグを買い、
パリでHaute Coutureを見る
こともあり得る。
つまり顧客は国境を越える。
世界市場とは地域別店舗の集合だけではない。
移動する顧客のネットワークでもある。
⸻
パンデミックが変えた世界地図
2020年のパンデミックは、この構造を一度分解した。
国境を越えられない。
旅行できない。
そこで消費が顧客の居住地域へ戻る。
これはCHANELに重要な教訓を与えた。
国際旅行が強くても、現地顧客基盤を失ってはいけない。
パリの店舗は観光客だけのためではない。
銀座の店舗も旅行客だけのためではない。
それぞれの都市に根を持つ顧客関係が必要になる。
⸻
世界からLocalへ、そして再び世界へ
パンデミック後、旅行は再開する。
しかし企業は以前とまったく同じ状態へ戻る必要はない。
現地顧客との関係を深くする。
そこへ再び国際旅行者が加わる。
すると店舗には、
Local Client
+ International Client
というより強い顧客構造を形成できる。
これは一地域の売上変動への耐久力にもつながる。
⸻
為替という見えない市場変化
世界市場では為替も重要である。
円。
ドル。
ユーロ。
人民元。
ポンド。
通貨が動けば、同じ商品の実質的な価格が地域ごとに変わる。
ある国で買った方が大幅に安い。
そうなれば顧客は旅行先で購入する。
転売業者も動く。
そのためCHANELを含むグローバルラグジュアリー企業は、地域間価格差を無視できない。
⸻
価格の国際的整合性
CHANELは長年、主要市場間の価格差を調整する方向で価格政策を運営してきた。
これはすべての国で完全に同一価格にするという意味ではない。
税制。
関税。
為替。
流通条件。
が異なるからである。
しかし極端な差を抑える。
そうすることで、
為替差を狙った購入。
並行流通。
転売。
を一定程度抑えられる。
同時に各地域のブティックが、現地顧客との関係を構築しやすくなる。
⸻
世界価格とLocal Relationship
ここには興味深い組み合わせがある。
価格は世界規模で整合性を高める。
一方、接客は地域ごとに深くする。
つまり、
Global Pricing
× Local Relationship
である。
これはCHANELのグローバル経営を理解する一つの鍵になる。
世界で一つのブランドでありながら、顧客関係は一人ひとり異なる。
⸻
地政学
世界企業は経済だけを見ていればよいわけではない。
戦争。
制裁。
国家間対立。
人権問題。
貿易規制。
関税。
輸出入規制。
政治的変化。
これらが店舗やサプライチェーンへ直接影響する。
2022年のロシアによるウクライナ侵攻後、CHANELを含む多数の国際ブランドはロシアでの事業を停止・縮小する対応を取った。
企業は、
「売れる市場ならどこでも売る」
だけでは世界事業を運営できない時代へ入っている。
⸻
ブランドには立場を問われる
現代では企業の行動そのものがブランド評価へ影響する。
どの市場へ進出するのか。
どの市場から撤退するのか。
どの規制へ従うのか。
人権問題へどう対応するのか。
従業員をどう守るのか。
一つ一つが社会から観察される。
したがって地政学は外部環境ではなく、ブランド経営の内部へ入ってくる。
⸻
世界市場とサプライチェーン
販売市場だけを分散しても十分ではない。
原材料や生産が特定地域へ集中していれば、別のリスクが残る。
素材。
部品。
包装。
物流。
エネルギー。
企業は、
どこで売るか
と同時に、
どこからつくるか
も世界規模で考えなければならない。
パンデミックと地政学的緊張は、この両方を経営課題にした。
⸻
世界拡大の限界
1980年代から2010年代まで、ラグジュアリー企業の大きな成長源の一つは地理的拡大だった。
新しい国へ行く。
新しい都市へ行く。
店舗をつくる。
顧客を増やす。
しかし主要な世界都市にすでに存在するCHANELにとって、この方法だけで永遠に成長することはできない。
新しい市場は残っている。
だが市場を増やすほど、次の都市一つが企業全体へ与える影響は小さくなる。
ここで成長の質を変える必要がある。
⸻
GeographyからRelationshipへ
世界市場の第一段階は、
Where?
だった。
どの国へ進出するか。
第二段階では、
Who?
が重要になる。
その地域の誰と、どのような関係をつくるのか。
つまり、
Geographic ExpansionからClient Relationshipへ
重心が移る。
これが成熟した世界ブランドの次の経営になる。
⸻
富裕層を一括りにしない
「富裕層」と言っても一種類ではない。
起業家。
経営者。
投資家。
専門職。
王族。
芸術家。
スポーツ選手。
長い資産家系。
新たに富を得た人。
年齢も違う。
価値観も違う。
欲しいものも違う。
したがって世界市場を「富裕層人口の多い国」という統計だけで考えることにも限界がある。
必要なのは、人間を理解することである。
⸻
CultureはDataだけでは読めない
AIによって世界の販売データを統合すれば、何がどこで売れるかを高度に分析できる。
しかし文化は数字だけでは理解できない。
なぜこの色が好まれるのか。
なぜこの商品が贈り物として重要なのか。
どこまでの接客距離が好まれるのか。
宗教や社会習慣が身体表現にどう影響するのか。
そこには現地の人間が持つ知識が必要になる。
世界企業が強くなるには、
Global DataとLocal Knowledge
の両方が必要である。
⸻
多様な人材が市場能力になる
ここで従業員の多様性は、単なる人事指標ではなくなる。
世界中の顧客を理解する企業が、意思決定する人々だけは一つの国、一つの文化、一つの性別、一つの経歴へ極端に偏っている。
それでは見えない市場が生まれる可能性がある。
異なる背景の人間がいることによって、企業が観測できる世界が広がる。
多様性には、
Market Intelligence
としての価値もある。
⸻
グローバル企業と一つのブランド
しかし多様性を重視するあまり、各地域が勝手なCHANELをつくることもできない。
ロゴ。
商品。
ブランドコード。
品質。
価格体系。
企業倫理。
これらには一貫性が必要である。
したがってCHANELには二つの力が同時に必要になる。
Global Consistency
と
Local Sensitivity
である。
一方だけでは世界ブランドを維持できない。
⸻
市場を支配するのではなく、関係をつくる
従来のグローバル企業論には、新市場を「攻略する」という言葉が使われることがある。
しかしラグジュアリーでは、その発想だけでは長期的な関係は築きにくい。
文化を理解する。
顧客を理解する。
その土地で働く人を育てる。
都市との関係をつくる。
長期間そこに存在する。
世界市場は、一方的に商品を送り込む場所ではない。
企業と地域が互いに関係を形成する場所である。
⸻
世界市場の分散は財務の問題だけではない
市場分散にはリスク管理上の意味がある。
中国が弱くても米国が支える。
欧州が弱くても日本が支える。
ある地域で地政学問題が起きても、企業全体を維持できる。
しかし分散の意味はそれだけではない。
異なる市場と接触することで、企業そのものが学習する。
異なる美意識。
異なる顧客行動。
異なる店舗文化。
それらがCHANELの内部へ戻る。
つまり世界市場は、
収益源であると同時に、
Learning Network
でもある。
⸻
世界に広がるほど、一つのCHANELが重要になる
CHANELが10店舗しかなければ、創業者の直接的な感覚で統一することもできるかもしれない。
世界規模になればそうはいかない。
何千、何万という従業員がCHANELを表現する。
だから世界へ広がるほど、
ブランドコード。
組織文化。
教育。
データ。
ガバナンス。
が重要になる。
世界化とは分散することだが、その分だけ企業内部には強い共通基盤が必要になる。
⸻
ExpansionからRelationへ
ここまで世界市場を見てくると、CHANELの成長モデルの変化がもう一度見える。
20世紀後半。
Expand。
世界の都市へCHANELを置く。
21世紀前半。
そのネットワークが大きく完成してくる。
すると次に必要なのは、
Relation。
既存市場の顧客と深く関係する。
さらにその関係から学び、商品、店舗、サービスを更新する。
Expandが終わるわけではない。
しかしExpandだけでは、成熟した世界ブランドの次の成長を説明できなくなる。
⸻
世界市場は一つではない
結局、「世界市場」という単数形の市場は存在しない。
多数の地域。
多数の文化。
多数の通貨。
多数の政治制度。
多数の顧客。
それらを企業側から一つの表にまとめているだけである。
CHANELに必要なのは、その違いを消すことではない。
違いを理解しながら、一つのブランドとして接続することである。
One CHANEL, Multiple Markets.
この能力が、次の世界経営を決める。
⸻
世界市場から数字へ
そして世界市場を経営すれば、その結果は最終的に数字として企業へ戻る。
どの地域でいくら売れたのか。
どの商品カテゴリーが伸びたのか。
利益はいくら残ったのか。
どれだけ投資したのか。
どれだけの財務余力があるのか。
CHANELは長く非上場企業としてその数字を外部にほとんど見せなかった。
しかし2018年以降、一定の財務情報を公表するようになり、世界有数のブランドの背後にある巨大企業の姿がより明確に見えるようになった。
次節では、華やかなブランドイメージから離れ、CHANELという会社を数字から見る。
第6節 収益と経営体力
100年以上のブランドは、実際にはどれほどの収益を生み、その資金によってどのように独立性・投資・創造を支えているのか。
第6節 収益と経営体力
CHANELという企業を数字から見ると、ブランドの華やかな表面とは別の姿が見えてくる。
2025年、CHANEL Limitedの売上高は約195億ドル、営業利益は約47億ドルだった。前年2024年には売上高約187億ドル、営業利益約45億ドルであり、2025年には再び増収増益へ転じている。2023年には売上高約197億ドル、営業利益約64億ドルという非常に高い水準に達していたため、2024年はいったん調整局面となったが、2025年には売上が回復した。
ここで重要なのは、単に「約200億ドルを売るブランド」と見ることではない。
CHANELは非上場企業である。
巨大な外部株式市場を使わず、単一のメゾンを中心として、この規模の売上、利益、投資能力を形成している。
この財務構造が、
独立性。
価格決定力。
職人への投資。
店舗。
サプライチェーン。
環境。
そして次の創造。
を可能にしている。
CHANELの経営体力とは、巨大な利益を持つことではなく、自ら生み出した資本によって次のCHANELをつくり続けられる能力なのである。
⸻
約200億ドルの企業
CHANELは、長年財務情報を積極的に公開する会社ではなかった。
しかし2018年以降、CHANEL Limitedは年次の財務結果を公表している。公式サイトでは2017年以降の年度別結果を確認できる。
この公開によって明確になったのは、CHANELが単なる「有名なファッションブランド」ではないということである。
Fashion。
Fragrance & Beauty。
Watches & Fine Jewelry。
世界のブティック。
それらを合わせた巨大なグローバル企業である。
売上が約200億ドル規模になるということは、ブランドの文化的価値が、非常に大きな経済価値へ転換されていることを意味する。
⸻
売上とブランド価値は同じではない
しかし売上が大きいからブランドが強いとは限らない。
大量の商品を低価格で販売しても、大きな売上はつくれる。
CHANELの場合、重要なのは売上の質である。
高価格。
高い粗利益を生み出し得るブランド力。
限定された流通。
強い顧客需要。
複数カテゴリー。
世界的な市場。
ここから収益が形成される。
つまりCHANELの売上は、
VolumeだけではなくValue per Product
によって支えられている。
⸻
Pricing Power
この構造の中心にあるのが価格決定力である。
顧客がCHANELへ高い価格を支払う。
それは単なる原材料費への支払いではない。
歴史。
デザイン。
クラフト。
ブランドコード。
希少性。
店舗。
顧客体験。
修理能力。
社会的認知。
これらの総体へ支払っている。
この価格決定力が、CHANELの財務体力の源泉の一つである。
⸻
2023年という高水準
2023年、CHANEL Limitedは売上高約197億ドル、営業利益約64億ドルを公表した。売上高は前年比で大きく伸び、営業利益も前年を上回った。さらに同年の投資額は約24.6億ドルに達した。
この数字は重要である。
約64億ドルの営業利益。
これはブランドの強さが、実際のキャッシュ創出能力へ転換されていることを示す。
しかし、同時に約25億ドル規模の投資を行っている。
つまりCHANELは、
利益を出す。
その利益の一部を再び企業へ戻す。
という循環を大きな規模で実行している。
⸻
2024年の調整
ところが2024年には状況が変わる。
CHANELの公式発表によれば、2024年の売上高は約187億ドルとなり、前年比4.3%減少した。
営業利益は約44.8億ドルで、前年比約30%減少した。
ここだけを見ると大幅な悪化に見える。
しかし企業分析では、数字の背景を見る必要がある。
ラグジュアリー市場の減速。
地域ごとの需要変化。
中国を中心とした市場環境。
高水準の投資。
人材。
店舗。
サプライチェーン。
ブランド更新。
複数の条件が重なる。
つまり2024年は、CHANELのブランドが突然弱くなった年と単純化することはできない。
⸻
利益率が下がっても投資する
ここでCHANELの経営を見るうえで重要なポイントがある。
利益率が高いときだけ投資するのではない。
市場が減速しているときにも、
店舗。
サプライチェーン。
人材。
クラフト。
デジタル。
環境。
へ投資を続ける。
短期的には利益を圧迫する。
しかし長期的には企業能力を強化する可能性がある。
これは第5章で見た非上場・長期資本という構造と一致する。
利益が下がったから未来投資を止めるのではなく、将来の競争力を維持するために現在の利益を使う。
⸻
2025年の回復
そして2025年、CHANELの公式発表では売上高が約195億ドルへ戻り、営業利益は約47.1億ドルとなった。
営業利益は2024年比で約5%増加している。
ここから見えるのは、2024年の減速を経ながらも、企業の収益基盤そのものが失われていなかったことである。
ただし2023年の営業利益約64億ドルと比べれば、依然として利益水準は低い。
したがって2025年は、
「完全に2023年へ戻った」
というより、
巨大投資を続けながら再び成長軌道を探る年
として読む方が適切である。
⸻
売上だけでは経営体力を測れない
経営体力を見るなら、売上だけでは不十分である。
必要なのは、
営業利益。
キャッシュ創出力。
投資額。
負債。
流動性。
在庫。
資本構造。
そして将来投資を継続できる能力。
である。
特にCHANELの場合、外部株式市場への依存が小さいため、
自らどれだけ資金を生み、自らどれだけ再投資できるか
が独立性へ直結する。
⸻
Financial StrengthとStrategic Freedom
財務体力が強ければ、経営には選択肢が生まれる。
重要な工房を支援できる。
不動産を取得できる。
新店舗をつくれる。
経営が減速している時期でも人材を維持できる。
環境投資を続けられる。
新しい素材企業へ投資できる。
次のデザイナーへ十分な創造環境を与えられる。
つまり財務の強さは、単に倒産しにくいという意味ではない。
Strategic Freedomを生む。
⸻
Cashが時間をつくる
これは長寿ブランドにとって特に重要である。
新しいクリエイティブ・ディレクターを迎える。
最初のコレクションが必ず成功するとは限らない。
新興市場へ進出する。
すぐに採算が取れるとは限らない。
新しい素材技術へ投資する。
実用化まで何年もかかることがある。
その間を支えるのが財務余力である。
資金があることで、
結果が出るまで待てる。
財務体力とは時間を持つ能力でもある。
⸻
Capexという未来への数字
企業の将来を見るうえで、利益と同じくらい重要なのが投資額である。
2023年、CHANELは約24.6億ドルを投資したと公式発表した。
これは巨大な金額である。
ブティック。
生産。
サプライチェーン。
テクノロジー。
不動産。
こうした投資が含まれる。
つまりCHANELは、現在の商品から得た利益を、未来の企業インフラへ変換している。
⸻
財務諸表には未来が一部しか見えない
しかし投資をすべて数字から理解することはできない。
新店舗は資産として見える。
設備も見える。
しかし、
職人の技能。
ブランドの信頼。
アーカイブ。
販売スタッフと顧客との関係。
企業文化。
新しいデザイナーの創造可能性。
こうしたものは貸借対照表に完全には現れない。
にもかかわらず、CHANELの将来価値を左右する。
したがってCHANELの企業価値を分析するには、
Financial Capital
だけでなく、
Intangible Capital
を見る必要がある。
⸻
Intangible Capital
CHANELが持つ無形資産を考える。
CHANELという名称。
ダブルC。
N°5。
2.55。
ツイード。
カメリア。
100年以上のアーカイブ。
ガブリエル・シャネル。
ラガーフェルド。
世界の顧客の記憶。
職人技。
これらを現在ゼロからつくろうとしても不可能である。
お金があっても100年の時間は買えない。
だからCHANELの本当の財務体力は、現金だけではない。
Capital × Heritage × Capability
の組み合わせにある。
⸻
価格を上げれば永遠に利益は増えるのか
もちろんそうではない。
価格には限界がある。
顧客は比較する。
CHANEL。
Hermès。
Dior。
Louis Vuitton。
Bottega Veneta。
その他の選択肢。
そして高級品そのものを買わないという選択もある。
価格だけを上げ、商品・創造・サービスが追いつかなければ、需要は弱くなる。
したがってPricing Powerは固定資産ではない。
毎年再確認される能力である。
⸻
2024年が示したもの
その意味で2024年の減収減益は重要である。
強いブランドでも市場環境から完全に自由ではない。
需要は変化する。
地域市場は変化する。
顧客の評価も変わる。
つまりCHANELの財務力は強い。
しかし無条件ではない。
だからこそ、
創造。
商品。
顧客関係。
店舗。
クラフト。
への再投資が必要になる。
財務力はブランド力の結果だが、その財務力を次のブランド力へ戻さなければ循環は続かない。
⸻
2025年の増益をどう読むか
2025年の営業利益が2024年比で増加したことは、CHANELに一定の回復力があることを示す。
しかし本書では、一年単位の増減だけを成功・失敗として評価しない。
重要なのは長期的な方向である。
2022年にはリーナ・ナイルがCEOとなった。
2024年末にはマチュー・ブレイジーの就任が決まった。
2025年には新しい創造体制が始動する。
環境・循環素材への投資も進む。
つまり2025年前後の財務数字は、
企業全体を更新している途中の数字
でもある。
⸻
利益率より重要な問い
もちろん経営者は利益率を管理しなければならない。
しかしCHANELのような100年企業には、それより長い問いがある。
10年後にも、
世界最高水準の職人を持っているか。
最高品質の素材を確保できるか。
若い顧客がCHANELへ憧れているか。
重要顧客がブランドを信頼しているか。
優秀な人材が入りたい企業であるか。
マチュー・ブレイジーの後にも新しい創造者を迎えられるか。
こうした問いは単年度営業利益率には現れない。
⸻
財務余力と危機耐性
パンデミックは、この意味でも重要だった。
店舗が閉鎖される。
旅行が止まる。
売上が急減する。
そうしたとき、財務体力の弱い企業は投資を削らざるを得ない。
従業員を減らす。
店舗を閉める。
在庫を処分する。
しかし強い財務余力があれば、危機を通過する時間を買える。
これは企業のResilienceである。
⸻
Resilienceとは余裕である
企業経営では効率性が重視される。
余剰現金を持たない。
在庫を持たない。
能力を限界まで使う。
しかし効率化しすぎれば、予想外の危機に弱くなる。
CHANELのような長期企業には、
一定の財務余力。
供給余力。
人的余力。
が必要になる。
つまり経営体力とは、平常時の利益率だけではなく、危機時に選択肢を失わない余裕でもある。
⸻
非上場だから数字を無視できるわけではない
ここでも誤解してはいけない。
CHANELには株価がない。
だから業績を気にしない、ということではない。
むしろ外部から資本を簡単に調達せず独立を維持するなら、内部の財務規律は重要になる。
利益を出す。
現金を生む。
投資案件を選ぶ。
リスクを管理する。
経営の質が低ければ、非上場企業でも財務は悪化する。
独立には、強い自己規律が必要である。
⸻
単一ブランド集中のリスク
CHANELの財務体力には、もう一つ特徴がある。
巨大コングロマリットほどブランド分散されていない。
CHANELという一つのブランドへの集中度が高い。
これは利益をCHANELへ集中投資できる強みである。
同時に、
CHANELそのもののブランド価値が大きく損なわれた場合、
他ブランドで補うことが難しいというリスクでもある。
したがって財務戦略とブランド戦略を分離できない。
⸻
Financial RiskはBrand Riskでもある
CHANELでは、
創造が弱くなる。
顧客が離れる。
価格への納得が弱くなる。
その結果が財務へ来る。
逆に財務が弱くなれば、
職人投資。
店舗投資。
環境投資。
創造投資。
が難しくなり、さらにブランドへ戻る。
つまり、
BrandとFinanceは循環している。
良い循環にも、悪い循環にもなり得る。
⸻
だから最初に創造がある
CHANELの収益モデルを最終的に遡ると、数字の前に一つのものがある。
商品である。
さらにその前に創造がある。
顧客が欲しいと思う商品がなければ、売上は生まれない。
高い価格を支払う理由もなくなる。
したがって財務は創造の反対ではない。
創造が市場から評価された結果を数字に変換したものでもある。
そしてその数字を再び創造へ戻す。
⸻
Revenueは目的ではなく循環の一部である
CHANELを単年度の企業として見るなら、
Revenue
→ Profit
で終わる。
しかし100年企業として見るなら、
Revenue
→ Profit
→ Investment
→ Capability
→ Creation
→ Product
→ Client
→ Revenue
まで見る必要がある。
利益が再び次の価値へ戻ったとき、企業は長寿化する。
⸻
2026年のCHANELの経営体力
2026年時点で、直近の公式財務結果は2025年度である。CHANELは売上高約195億ドル、営業利益約47億ドルを持つ巨大な独立企業として、店舗、クラフト、サプライチェーン、環境、組織、クリエイションへ大規模投資を続けることのできる財務基盤を保持している。
しかし、この数字の価値は残高の大きさだけではない。
何へ使えるかにある。
⸻
47億ドルの利益の先
営業利益が約47億ドルある。
重要なのは、
その数字をどれだけ大きくするか
だけではない。
その利益から、
どれだけ職人を育てられるか。
どれだけ次の素材を開発できるか。
どれだけ優れた店舗をつくれるか。
どれだけ環境負荷を減らせるか。
どれだけ次の創造者へ自由を与えられるか。
という問いである。
財務は、未来の選択肢へ変換されて初めて企業能力になる。
⸻
経営体力とは「未来を選べること」
ここまでを一つにまとめれば、CHANELのFinancial Strengthの本質は明確になる。
売上が大きいことでもない。
利益が大きいことだけでもない。
現金を多く持つことだけでもない。
必要なときに必要な投資を行い、それでも独立を維持できること。
それが経営体力である。
市場が弱いときにも投資できる。
長期間回収できない案件にも投資できる。
職人へ時間を与えられる。
新しいデザイナーへ時間を与えられる。
そして、短期的な市場の変動によって企業の方向をすべて変えなくてよい。
財務が、企業の時間を支えているのである。
⸻
数字から一つのメゾンへ
しかし、ここまで見てきたFashion、Fragrance & Beauty、Watches & Fine Jewelry、Boutique、世界市場、Financial Strengthは、それぞれ別々の会社ではない。
すべてCHANELである。
異なる商品。
異なる顧客。
異なる価格帯。
異なる専門知。
異なる時間。
それらを一つのブランド、一つの企業、一つの資本配分のなかでどう統合するのか。
第6章の最後で問うのは、この問題である。
第7節 一つのメゾンを経営する
巨大企業になっても、CHANELはいかにして多数の事業の集合ではなく、「一つのCHANEL」であり続けるのか。
第7節 一つのメゾンを経営する
CHANELという企業を分解すると、多数の事業が見える。
ファッション。
フレグランス。
ビューティ。
時計。
ファインジュエリー。
バッグ。
シューズ。
アクセサリー。
ブティック。
さらに、その背後には、
デザイン。
職人。
研究開発。
製造。
物流。
不動産。
デジタル。
人材。
財務。
環境。
サプライチェーン。
がある。
これほど多くの事業と専門領域を抱えながら、顧客から見たCHANELは一つでなければならない。
顧客は「CHANELの組織図」を買わない。
バッグを手に取る。
香水をまとう。
ジャケットを着る。
時計を見る。
そして、そこに同じCHANELを感じる。
したがって巨大企業CHANELの最も難しい経営課題の一つは、事業を拡大することそのものではない。
複雑になり続ける企業を、一つのメゾンとして維持することである。
⸻
企業が大きくなるほど分業が進む
小さなメゾンなら、一人の創業者が全体を見ることができる。
ガブリエル・シャネルの初期には、その構造に近かった。
デザインする。
顧客を見る。
商品を決める。
店を見る。
ブランドの基準が一人の人間の感覚に集約されている。
しかしCHANELが世界企業になれば、それは不可能になる。
一人のCEOがすべての商品を見ることはできない。
一人のデザイナーが化粧品研究から時計ムーブメント、物流、不動産まで判断することもできない。
だから企業は分業する。
専門化する。
組織をつくる。
これは成長に不可欠である。
しかし分業が進むほど、新しい問題が起きる。
企業が部分の集合へ分解される危険である。
⸻
Fashionだけの論理
FashionにはFashionの合理性がある。
シーズン。
ショー。
クリエイション。
素材。
アトリエ。
トレンド。
顧客。
一方、Fragrance & Beautyには別の合理性がある。
研究開発。
安全性。
処方。
工業生産。
大量の品質管理。
高い再購入頻度。
流通。
Watches & Fine Jewelryにも独自の論理がある。
貴金属。
宝石。
ムーブメント。
精密加工。
修理。
長期間の所有。
これらを同じ方法で管理することはできない。
⸻
同じにしないから一つになれる
ここで重要なのは、一つのメゾンだからすべてを同じにする必要はないということである。
時計職人と刺繍職人には異なる技術が必要である。
調香師とファッションデザイナーにも異なる専門性がある。
Beautyの研究者とブティックの販売スタッフも違う。
その違いを消して統一しようとすれば、専門性が失われる。
必要なのは、
Differenceを維持しながらBrandを共有すること
である。
一つであることと、同じであることは違う。
⸻
共通するのはブランドコードだけではない
CHANELを一つにするものとして、ブランドコードは重要である。
黒と白。
カメリア。
キルティング。
チェーン。
ツイード。
N°5。
ライオン。
コメット。
しかし、記号を同じ商品に付ければ一つになるわけではない。
バッグにもカメリア。
口紅にもカメリア。
ジュエリーにもカメリア。
それだけでは表面的な統一になる。
より深いところで共有すべきものがある。
品質基準。
身体への考え方。
素材への姿勢。
細部への注意。
創造性。
クラフト。
顧客体験。
長期性。
つまり一つのメゾンを成立させるのは、
Visual Identityだけではなく、判断基準の共有である。
⸻
「これはCHANELか」という問い
世界中のCHANELでは、毎日無数の判断が行われる。
この素材を使うか。
この店舗デザインでよいか。
この顧客サービスを採用するか。
この広告を出すか。
この包装を変更するか。
このAIを利用するか。
この工房へ投資するか。
そのすべてをCEOが判断することはできない。
だから巨大企業には、各現場の人間が判断するための共通基準が必要になる。
最終的には非常に単純な問いへ収束する。
「これはCHANELとして適切か。」
しかし、この問いに答えるためには、企業の歴史と価値観が組織の内部で理解されていなければならない。
⸻
ブランドはマニュアルではない
もちろんブランドガイドラインはつくれる。
ロゴの使い方。
書体。
色。
店舗表示。
写真。
しかしCHANELのすべてをマニュアル化することはできない。
もしすべてがマニュアルで定義できるなら、新しい創造は不要になる。
逆に、何の基準もなければ世界中で違うCHANELが生まれてしまう。
したがって組織には、
明文化できる規則
と、
経験によって身につける判断
の両方が必要になる。
ここでも暗黙知が重要になる。
⸻
アーカイブは企業の共有記憶である
この判断を支えるものの一つがアーカイブである。
過去の商品。
写真。
映像。
広告。
デザイン。
素材。
ショー。
ガブリエル・シャネルの世界。
ラガーフェルドのコレクション。
企業の歴史。
アーカイブは単なる保存庫ではない。
企業にとっての共有記憶である。
新しい人材が過去を見る。
次のクリエイターが読む。
経営者がブランドの長い時間を理解する。
すると、個人の記憶を超えて企業として記憶を保持できる。
⸻
人間は去るが、企業は覚える
ガブリエル・シャネルは去った。
ラガーフェルドも去った。
ヴィアールもCHANELを離れた。
経営者も交代する。
販売スタッフも職人も世代交代する。
しかし、そのたびに企業がすべてを忘れていたら、100年企業にはならない。
一人の人間が去っても、
記録。
作品。
技能。
教育。
アーカイブ。
組織文化。
を通じて知識が残る。
長寿企業とは、組織として記憶できる企業でもある。
⸻
しかし記憶だけでは現在をつくれない
企業が記憶しすぎることにも危険がある。
「昔はこうだった。」
「ラガーフェルドならこうした。」
「ガブリエル・シャネルはこう言った。」
すべての判断を過去へ求めれば、ブランドは現在を失う。
だからアーカイブは答えではない。
材料である。
過去を読む。
しかし現在の顧客と身体を見る。
その両方が必要になる。
ここにマチュー・ブレイジーのような新しい創造者を迎える意味がある。
⸻
一つのブランドと複数の顧客
CHANELには複数の商品カテゴリーがある。
当然、顧客も異なる。
初めて口紅を買う若い顧客。
長年バッグを購入してきた顧客。
オートクチュールの顧客。
時計愛好家。
ハイジュエリー顧客。
しかし企業側がそれぞれを完全に別人として管理すれば、一つのCHANELとしての顧客理解を失う。
同じ人が、
Beautyを買い、
バッグを持ち、
時計を買い、
ジュエリーへ進むこともある。
つまり部門をまたいで一人の顧客を見る必要がある。
⸻
Client Journeyは組織図を越える
企業内部では、
Fashion Division。
Beauty Division。
Watch & Fine Jewelry。
と分かれている。
しかし顧客の人生にはその境界がない。
18歳で初めて香水を買う。
25歳でバッグを買う。
35歳で時計を買う。
人生の節目でジュエリーを選ぶ。
50歳になっても同じブランドとの関係が続く。
こう考えると、顧客価値は商品カテゴリー単位ではなく、
数十年のClient Journey
として見えてくる。
⸻
データは企業を横断できる
このとき重要になるのがデータである。
顧客がどの商品を持っているか。
どの店舗と関係しているか。
修理履歴。
嗜好。
もちろん、プライバシーを尊重した上で扱う必要がある。
適切なデータ基盤があれば、組織内部の分断を越えて一人の顧客を理解しやすくなる。
しかし、ここにも限界がある。
データは人間そのものではない。
履歴を知っていることと、人を理解していることは違う。
⸻
AIは統合を助ける
AIは巨大企業の統合に大きな可能性を持つ。
部門をまたいだ情報検索。
在庫。
商品情報。
顧客関係。
サプライチェーン。
需要。
環境データ。
世界中の店舗から得られる情報。
これらを横断的に理解することができる。
つまりAIは、巨大化によって断片化した企業情報を再び接続する技術になり得る。
しかしAIを入れればCHANELが一つになるわけではない。
AIが最適化する目的を、人間が決めなければならない。
⸻
最適化しすぎる危険
たとえばAIが売上最大化を目的にすれば、
最も売れる商品を増やす。
最も利益率の高い商品を推す。
最も購買確率の高い顧客へ集中する。
という判断をする可能性がある。
短期的には合理的である。
しかし、
新しい創造を試す。
若い顧客を育てる。
職人技を守る。
利益率の低い文化的活動を続ける。
という長期価値が削られるかもしれない。
したがってCHANELのような企業では、
Efficiencyの最適化より、企業価値全体の最適化
が必要になる。
⸻
ファッションと財務
同じ問題は人間の経営にもある。
財務部門から見れば、巨大なショーは費用である。
職人への長期投資も費用になる。
デザイナーから見れば、それらは創造に必要である。
どちらかだけが正しいわけではない。
経営とは、この異なる論理を調整する仕事である。
創造性を無制限にすれば財務が持たない。
短期利益だけを優先すればブランドが弱くなる。
必要なのは、
Creative ValueとEconomic Disciplineを同じ企業の中で両立させること
である。
⸻
商品と環境
今後はさらに別の論理も入る。
環境である。
ある素材が美しい。
顧客も欲しい。
利益も高い。
しかし環境負荷が極めて大きい。
そのときどう判断するのか。
従来なら、
Creative。
Commercial。
の二つで考えられた。
今後は、
Environmental。
Social。
も加わる。
意思決定が複雑になる。
⸻
一つの商品の中に企業全体が現れる
たとえば一つのバッグを考える。
デザイン。
革。
金具。
職人。
工房。
物流。
店舗。
価格。
顧客。
修理。
環境負荷。
データ。
ブランドの歴史。
一つの商品に、企業のほぼすべての能力が重なっている。
つまり最終商品は、複数部門の合作である。
だから組織が分断されれば、商品にもその分断が現れる。
一つのメゾンを経営するとは、一つの商品を通じて企業全体を整合させることでもある。
⸻
サプライチェーンもメゾンの内部である
従来、企業の境界は自社従業員までと考えられがちだった。
しかしラグジュアリーでは、素材供給者や専門工房の品質がそのまま商品へ現れる。
ならば企業価値を守るには、サプライチェーンとの関係まで見る必要がある。
買い叩く。
短期契約する。
安い供給者へ毎年変える。
これでは長期クラフトは育ちにくい。
CHANELでは、重要な専門能力について投資や長期関係を形成する理由がここにある。
⸻
メゾンとは関係の束である
ここまで見ると、「Maison」という言葉の意味も変わる。
建物ではない。
デザイナーだけでもない。
所有者だけでもない。
商品だけでもない。
職人。
顧客。
スタッフ。
供給者。
経営者。
歴史。
都市。
自然。
それらが長期間関係し続けることでメゾンが形成される。
つまりCHANELとは、
多数の専門性と多数の関係を、一つのブランドへ結び続ける企業
なのである。
⸻
CEOの役割
ここでCEOの仕事も明確になる。
すべての商品を自分で決めることではない。
すべての部門を直接管理することでもない。
各専門領域が能力を発揮できるようにしながら、それらが別々の方向へ進まないようにする。
資本を配分する。
人を選ぶ。
組織文化をつくる。
長期的な優先順位を示す。
つまりCEOの仕事は、
複雑性を消すことではなく、複雑性を一つの企業として機能させること
である。
⸻
リーナ・ナイル時代の意味
この観点から見ると、リーナ・ナイルの経歴は興味深い。
彼女はFashion Designerではない。
調香師でも時計職人でもない。
一方、長期間、人と組織を扱ってきた。
巨大企業が多くの専門家によって成立するなら、それらを接続する組織設計が重要になる。
人材。
文化。
対話。
組織学習。
多様性。
これらが、単なる人事政策ではなく企業統合の問題になる。
⸻
人間を中心に置く理由
巨大企業では、システムやプロセスが必要になる。
しかしプロセスだけで一つのメゾンにはならない。
最後に判断するのは人間である。
商品をデザインする。
刺繍する。
店舗で顧客を見る。
投資を決める。
次の人材を採用する。
AIが提示した候補から選ぶ。
人間の判断が無数に積み重なってCHANELになる。
だから、人材を単なる費用として管理する企業と、人間を企業能力として育てる企業では、長期的に差が生まれる。
⸻
多様性も一つにするために必要である
ここで多様性は「違う人を増やす」だけの話ではない。
世界中で事業をする。
複数カテゴリーを持つ。
異なる顧客がいる。
それなら企業内部にも複数の視点が必要になる。
しかし視点が増えるだけで意思決定がまとまらなければ、組織は混乱する。
したがって必要なのは、
Diversity × Shared Purpose
である。
違いを持つ。
しかし同じ企業価値へ接続する。
これはCHANELが複数事業を一つへ統合する構造と同じである。
⸻
一つにすることは中央集権化ではない
巨大企業を一つにしようとすると、すべてを本社で決めたくなる。
しかしそれでは現場の知識が失われる。
東京の顧客については東京のスタッフが詳しい。
時計については時計職人が詳しい。
刺繍については刺繍職人が詳しい。
必要なのは、すべての判断を中央へ集めることではない。
適切な判断を適切な場所で行いながら、共通する方向だけを共有することである。
これが成熟した分権型企業に必要になる。
⸻
共通する「中心」
では、何を共通させるべきなのか。
すべての商品ではない。
すべての方法でもない。
より深い基準である。
創造性を尊重する。
高品質を守る。
クラフトを長期的に育てる。
顧客との関係を短期取引にしない。
歴史をコピーせず更新する。
企業の独立性を維持する。
将来のために再投資する。
これらが共有されれば、部門ごとに方法が違っても一つのメゾンとして機能できる。
⸻
MaisonとConglomerate
ここでCHANELの独自性がもう一度見える。
コングロマリットでは、複数ブランドが一つの企業グループに属する。
CHANELでは、複数事業が一つのブランドに属する。
前者は、
One Group → Multiple Maisons
である。
CHANELは、
One Maison → Multiple Businesses
である。
この違いに優劣はない。
しかし経営の中心は異なる。
CHANELでは、すべての事業投資が最終的に「CHANELをどれだけ強くするか」という一点へ戻りやすい。
⸻
単一ブランド集中の強さ
ブランドが一つだから、学習を蓄積できる。
Fashionで生まれたコードをJewelryへ使う。
Beautyの植物研究がブランドストーリーを深める。
WatchmakingのEngineeringが技術企業としての能力を高める。
店舗で得た顧客理解を他カテゴリーへ還元する。
環境投資を複数の商品へ適用する。
一つのブランドの内部で知識が循環する。
ここにCHANELの企業的な強さがある。
⸻
そして集中の危険
一方で、ブランドが一つであることはリスクでもある。
一つの大きな失敗。
品質問題。
企業倫理上の問題。
創造の長期停滞。
顧客との信頼低下。
それがCHANEL全体へ波及する。
別ブランドへ逃げることができない。
したがって一つのメゾンを経営するということは、
すべてを一つに集中できる強さと、すべてが一つに連動するリスクを同時に持つこと
である。
だからブランド管理が極めて重要になる。
⸻
一つのメゾンは完成しない
CHANELはすでに巨大企業である。
だから完成したようにも見える。
しかし世界市場は変化する。
デザイナーは変わる。
CEOも変わる。
技術も変わる。
AIが入る。
環境条件が変わる。
顧客も変わる。
したがって、一度組織を統合すれば終わりではない。
毎年、毎世代、
異なるものを接続し直す必要がある。
⸻
第6章の結論
CHANELという企業をここまで分解してきた。
ファッション。
フレグランスとビューティ。
時計とファインジュエリー。
ブティック。
世界市場。
収益と経営体力。
一つずつ見れば、まったく異なる事業である。
しかし最終的には、すべてが一つの問いへ戻る。
それはCHANELの価値を高めるのか。
この問いによって、複数の事業を一つのメゾンへ統合する。
だからCHANELは、巨大企業になっても単なる事業ポートフォリオにはならない。
一つのメゾンとして経営される。
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第Ⅲ部から第Ⅳ部へ
ここまで第Ⅲ部では、CHANELを企業として支える構造を見てきた。
ヴェルテメール家。
非上場。
所有と経営。
長期資本。
再投資。
Fashion。
Beauty。
Watch & Fine Jewelry。
Boutique。
世界市場。
Financial Strength。
これによって、CHANELがなぜ長期間独立して巨大企業を維持できたのかが見えてきた。
しかし、まだ一つ大きな問いが残っている。
では、CHANELの商品そのものの価値は、どこから生まれるのか。
ブランド名だけではない。
価格だけでもない。
広告だけでもない。
その奥には、人間の手がある。
素材がある。
工房がある。
技術の継承がある。
そして、商品を長く使う顧客の時間がある。
次の第Ⅳ部では、企業構造から商品の価値形成へ移る。
第Ⅳ部 価値
――CHANELの価値はどこから生まれるのか
最初に見るのは、CHANELというメゾンの物質的な基盤である。
クラフトマンシップ。
愛と敬意を込めてmandala
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