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「ひきこもり」という問題に向き合うことは、子どもを変えることではない

「ひきこもり」になった子どもを、どうにか出来さえすれば、それでこの問題が解決する、元の生活に戻れるという発想が僕は好きじゃない。


だけど、ひきこもりに悩む親や政府など、子どもをどうにかすれば、この問題は解決する、元の生活に戻れると思っていたりするんじゃないだろうか。


もし、あなたが、子どもの「ひきこもり」のことで悩んでいて、それがいつまで経っても、解決の兆しが見えなかったり、ズルズルとただ時間だけが過ぎているのであれば、この機会にちょっと考えてみてほしい。


あなたの子どもが「ひきこもり」になる前と、今の状況というのは、親子の関係は以前と同じだろうか。

  • 言いたいことが言えなくなった。

  • 重要な話になると遮られる、または、蔑ろにされるようになった。

といった具合に、親として子どもを導こうにも、それが出来なかったり、親子としての体を成していないということはないだろうか。


もし、このような状態のまま、子どもが働きに出るようになったとして、親としてみれば、このような状態であろうと、やっと元の生活に戻れる、子どものことで悩まされずに済むと、安堵することだろう。

だけど、子どもがその職場でうまくやっていけなかったりした時、子どもは子どもで、元の「ひきこもり」には戻るまいと、どんなに頑張っていても、精神的に追い詰められれば、出戻ることだってあり得る。

そうなった時、「またあの生活が繰り返されるのか」と、落胆するのではないだろうか。

これは、親もそうだし、子どもも同じだ。


親に迷惑をかけたい「ひきこもり」はいないと僕は思っている。

そんな中、親が「またあの生活が繰り返されるのか」と落胆し、そんな姿を子どもが目にしたら、子どもは何を思うだろうか。

また親に迷惑をかけてしまうという自責の念から、もうこれ以上、親に迷惑をかけないように、これ以上、自分自身が苦しまずに済むようにと、自分の命をぞんざいに扱う決断をしてしまったら、その親は何を思うのだろうか。



僕は、30を超えて「ひきこもり」なった。

専門学校を卒業した後、一応就職もし、職を転々としながらも、親元を離れて生活していた時期もあった。

僕の親は、基本的に放任主義で、僕が学生だった頃も、最低必要源の会話はあったと思うが、記憶に残るようなものはほとんどない。なので、常日頃から毎日のように会話をするような、仲睦まじい親子ではなかったと思う。

とはいえ、少なくとも、親を避けるようなことはなかったし、親子として、重要な話はちゃんと出来ていたと思うし、親子であることが当たり前で、そこには無自覚ながらも信頼のようなものはあったと思う。

そして、何よりも、僕は一人っ子だが、孤独というものは感じなかった。


だけど、僕が、「ひきこもり」になってからは、全く真逆のものとなった。

親を憎むようになり、誰からも理解されない苦しさから、孤独のようなものを常に感じていた。

親が僕に何か言おうものなら、適当な返事でそれを返すか、無視するなど、とにかく俺に構うなと言わんばかりに、高圧的な態度で親を遠ざけた。

当時の僕は、親子としての絆のようなものや信頼といった、目には見えない何かを完全に見失った。


僕がひきこもっていた当時、母は、車で買い物に出た時など、車の中でよく一人泣いていたと言う。

親からしてみたら、なんでこのような状況になっているのか、どうして良いものか、もう訳がわからなかったんじゃないかと思う。

自分の育て方が悪かったのか、何がいけなかったのか、母は自分を責めたと思う。


我が子が「ひきこもり」になって、平然としていられる親は、ほとんどいないんじゃないだろうか。

きっと、あなたも、当時の僕の母のように、自分を責めたり、この先どうして良いものかわからずにいるんじゃないだろうか。


我が子が「ひきこもり」になってしまったことで、色々と失うものは多いと思う。

親としての威厳やプライド、親子としての絆や信頼関係、親としての存在意義や価値など、目には見えない何かを、色々と失っているんじゃないだろうか。


僕を「ひきこもり」という闇から救ってくれたのは、間違いなく母あってのものだ。

当時は、常に腫れ物に触るような扱いしかしてこなかった母が、ある時から、その腫れ物に触るような空気感がなくなったのを覚えている。

親(特に母)との関係が変わり出したのはそこからだ。


今では、「ひきこもり」になる前よりも、いろんな話をするようになったし、母が「紅葉が見たい」と言えば、日光などに一緒に出かけるようにもなった。

僕が学生の頃や、ひきこもっていた当時では考えられないことが今は起こっている。


当時の僕は、親を憎んでいただけに、親との関係を修復しようなんて気持ちは、これっぽっちもなかった。

今の関係が築けているのは、母の変化があってのものだ。

母が変わることがなければ、今の僕は間違いなくここにはいない。

だから母には、本当に感謝をしている。


親に散々辛い思いをさせた僕が言えることではないのかもしれないが、

「ひきこもり」という問題と向き合うことは、親としての強さと、本来あるべき親子の姿を取り戻すことだと僕は思っている。


本来あるべき親子の姿というのは、持ちつ持たれつ、互いを助け合うことが、自然と当たり前のようにできる関係だと僕は思っている。


親子であれば、このような関係は当たり前に思えることかもしれないが、どちらかが助けをや援助を求めた時、嫌な顔をされたり、それを負担と捉えられれば、それは、「自然と当たり前のように」とは言えないのではないだろうか。

親であれば、子に助けや援助を求められれば、それに応えようとするかもしれないが、子どもはどうだろう。

親は子どもに負担をかけまいとする方も多いと思うが、いざという時や必要な時に、嫌な顔をされたり、面倒、負担と思われながら支援を受けたり、負い目を感じながらというのは、精神的にも辛くはないだろうか。


残酷なことを言うようだが、「失ったものを子どもは与えてはくれない」というのが僕の持論だ。

もしかしたら、永遠と待ち続けていたら、失ったものを子どもが与えてくれる時が来ることもあるのかもしれないが、それが果たしていつになるのか、生きている間にそれは叶うのかは正直わからない。


最近では、「親ガチャ」という言葉が出てきて、ハズレだの当たりだのという表現が目立つようにもなった。

僕がひきこもっていた当時、この言葉を僕が使っていれば、ハズレと思っていたかもしれない。

我が子に、「親ガチャ、ハズレた」と思われることほど、親としては悲しいものはないんじゃないだろうか。


僕は、「ひきこもり」というものを経験し、親子の大切さを身をもって知ったからこそ、親と子の出会いは、必ず意味があってのことだと思っている。

仮に、今、子どもにハズレだと思われていても、当たりに変えることは間違いなく出来る。


そのためには、親としての強さと、本来あるべき親子の姿を取り戻し、「この親で良かった」と我が子に思ってもらえることではないだろうか。


ひきこもりになっている我が子をどうにかすれば、元の生活に戻れる。親子の関係なんて、後からでもいくらでも取り戻せるというのであれば、ぜひ、ご自身の信念に従ってもらいたい。


だけど、この「ひきこもり」という問題が、あなたを悩ます厄介ごとではなく、何かしらの意味があってのことだと思うのであれば、僕はあなたのお役に立てるかもしれない。


あなたは、この「ひきこもり」という問題を解決するにあたり、どのような未来を手にしたいのだろうか。






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