短編連載小説「知床の息遣い」④
〈 風の声を聞く人 〉
知床五湖の森に、夏の終わりを告げる風が吹いていた。
ミズナラの葉は濃い緑から少しずつ色を変え、湿った土の匂いには、どこか秋の気配が混じり始めている。
倭雄は、ビジターセンター裏のバンガローの前に立ち、ゆっくりと空を見上げた。
二〇一九年七月三十一日。
この日もヒグマ活動期の最終日だった。
毎年この日を迎えると、倭雄は胸の奥に、言葉にできない感情が湧き上がる。
安堵、寂しさ、達成感、そして――また来年もこの森に戻ってくるという確信。
「今年も……終わりだな」
誰に聞かせるでもなく、倭雄はつぶやいた。
倭雄が知床五湖登録引率者として活動するようになって、すでに十年以上が経っていた。
その間、彼は数えきれないほどの観光客を案内し、数えきれないほどの自然の表情を見てきた。
親子グマとの遭遇。
老夫婦の命をつないだ救助。
深手を負ったエゾシカの保護。
どれも忘れられない出来事だった。
だが、倭雄にとって最も大切なのは、派手な事件ではなく、
森が静かに息をしている日々そのものだった。
朝霧が湖面を覆う瞬間。
風が木々を揺らし、葉の影が湖に踊る午後。
夕暮れに、ヒグマの遠い鳴き声が響く黄昏。
そのすべてが、倭雄にとっては宝物だった。
斜里の市営官舎では、妻の育代と、もう中学生になった律子が待っている。
毎年、五月十日から七月末までの約三か月、倭雄は家族と離れて森で暮らす。
寂しさはある。
だが、育代はいつも笑って送り出してくれた。
「あなたが守っている自然は、律子の未来でもあるんだから」
その言葉が、倭雄の背中を押し続けてきた。
律子は最近、動物に興味を持ち始めている。
「お父さんみたいに、自然の仕事がしたい」と言ったこともあった。
倭雄は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
夕暮れが近づくと、森は金色に染まり、湖面は鏡のように静かになった。
倭雄は、一湖の展望デッキに立ち、ゆっくりと目を閉じた。
風が頬を撫でる。
遠くでエゾシカの鳴き声がする。
湖面には、知床連山の稜線がくっきりと映っていた。
「……この景色を、ずっと守りたい」
それは、誰に向けた言葉でもなく、倭雄自身の誓いだった。
知床の自然は、厳しく、美しく、そして脆い。
人間が踏み込めば壊れてしまう場所もある。
だからこそ、倭雄は毎年この森に戻り、観光客を導き、自然と人間の距離を守り続ける。
ヒグマの活動期が終わっても、知床の自然は休まない。
海は流氷を迎える準備をし、森は冬に向けて静かに変化していく。
倭雄は、湖面に映る夕日を見つめながら、静かに息を吐いた。
「また来年も、この森で会おう」
その言葉は、風に乗って森の奥へと消えていった。
そして――
倭雄は、森の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、ゆっくりとビジターセンターへ戻っていく。
知床の自然は、今日も息づいている。
そして明日も、明後日も――。
人と自然が共に生きる未来のために。
