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短篇連載「沙流川往来」①

この物語はフィクションであり、クマの行動など現実と大きく乖離している内容も多く含まれます。ここ数年、日本各地で多発しているクマによる事故が多発している現状を踏まえ、クマの危険性を充分理解した上で、お読みください。本文は誤解を与える内容を数多く含んでいることを、ご承知置きください。

杜江馬龍から読者へのお願い

北海道 平取町へ
 北海道の沙流郡さるぐんに位置する平取町びらとりちょうは、まるで時が止まったかのような静寂に包まれていた。総面積七四三、〇九平方キロメートルという広大な大地に、四千人余りの人々が暮らすこの町は、アイヌ語の「ピラ・ウトル」―崖の間― という意味を持つ名前の通り、険しい山々に抱かれた処である。
 町の中央を悠々と流れる沙流川さるがわは、日高山脈の雪解け水を集めながら太平洋へと向かう。その清冽な流れは、オショロコマ、ウグイ、ヤマメ、ニジマスといった渓流魚たちの楽園を育んでいる。川岸には蝦夷松や白樺が立ち並び、初夏には約十五ヘクタールに及ぶ野生のすずらん群生地が甘い香りを漂わせる。

 この町に、毎年夏になると一人の男が訪れるようになった。東京から遥々やってくる準大手建設会社の現場主任、原藤俊介である。
 八月二十五日の朝、新千歳空港のレンタカーカウンターで手続きを終えた原藤俊介は、慣れ親しんだ道を平取町へと向かっていた。四十二歳の彼の顔には、東京での激務の疲労の跡が深く刻まれている。不精髭を生やした精悍な顔立ちは、建築現場で鍛えられた逞しい体躯と相まって、都会的な洗練とは程遠い野性味を醸し出していた。
「今年も来たな」
 ハンドルを握りながら原藤は独り言をつぶやいた。毎年この時期になると、彼の心は北海道の大地に向かう。都内のマンション建設現場で監督として働く日々は、工期と資材の納期の心配や現場責任の重さで心身を消耗させていた。
 結婚を考えていた女性とも三年前に別れ、今では仕事以外に生きがいを見出すのが困難になっていた。唯一の救いが、年に一度の渓流釣りの旅だった。

 平取町びらとりちょうに到着した原藤は、いつもの民宿「山里」に荷を下ろした。七十代の老夫婦が営む小さな宿で、原藤のような一人旅の釣り人を温かく迎えてくれる。
「今年もよく来てくださいました」
 女将の佐藤ミエ子が深々と頭を下げる。この地方特有の訛りが混じった優しい口調が、原藤の心を和ませた。
「今年はどうですかね、川の調子は」
「そうですねえ、魚影は濃いようですが‥‥」
そう言うミエ子の表情が曇る。そして言葉を継いだ。
「ただ、今年はヒグマの目撃情報が多くて。つい先週も、町の外れの畑にまで降りてきたという話です」
 原藤は頷いた。事前にニュースでも聞いていた情報だった。近年、北海道全域でヒグマの人里への出没が増加している。温暖化の影響で山の生態系が変化し、餌となる木の実や川魚などの食料が不足していることが原因とされていた。
「気をつけてくださいね。熊鈴は必ず持参して、一人で奥には入らないでください」
「承知しました」
 その夜、原藤は久しぶりに安らかな眠りについた。都内の雑踏や工事現場の騒音とは無縁の、静寂に包まれた夜だった。