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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[060]龍の岩山に登る

第3章 羌族のドルジ
第3節 龍の岩山
 
[060] ■2話 龍の岩山に登る
 暑さが少し収まったある朝、ナオトはフヨの入り江の南にあるというルゥオの岩山に向かった。西の丘を越えて、クルトの牧場の方に下りていくとドルジが待っていた。馬に乗らないナオトを自分の後ろに乗せようとするドルジに、
「いや、吾れはお前の後を走っていく。ただ、あまり速いと付いていけないぞ」
 と言って、ナオトは先に走り出した。入り江の西の原の先までは何度か行ったことがある。
 ――あの岩の壁が見えてくるところまでならば、善知鳥うとうの里から十三湊まで行くよりも近い。なんということはない……。
 馬で行くドルジがナオトの前に出て気の向くままに走り、浅瀬を渡ろうと立ち止まってナオトを待った。その先には、海寄りの土地とは見るからに違うフヨの大草原が広がっている。
「この瀬を渡って南に向かう。このまま西に進めばフヨの都だ。王庭は、三つ目の大きな川の南の岸にある丘の上だ」
 と、ドルジがナオトに教えた。
「オウテイ……。そうか、フヨの王は都の丘の上にいるのか……」
「吾れはまだ会ったことがないがな」
 ドルジが笑いながら言った。同じように笑い、南の岩山を指差してナオトが言った。
「吾れたちはこれから、あそこに見える岩の山に登ろうというのだな?」
「そうだ。あれがルゥオの岩山だ。上に立てば、なぜそう呼ばれているかがわかる」
「ドルジ、ルゥオとは何のことだ?」
「龍は大きなヘビのようなものだ。海の底から現れて、空を飛び、雲の上まで昇るそうだ」
「まさか……」
「ははは、吾れがまだ小さい頃にセイで聞いた話だ。昔の人は、いろいろと面白いことを考えて過ごしていたらしい。ナオト、まだ走れるか?」
「おおっ、走れるとも」

 その岩場まで、森と小川を一つずつ越えて草原を駆け抜けた。雲が去り、戻った夏の日射しが目にまぶしかった。
 その岩山は、突然、目の前に立ちはだかった。近くで見ると、それは山というよりも、西の海を渡って来たときに見えた海におろす岩のがけのようだった。
 ――やはりこれは岩山というよりも壁だ……。
 近くの枝に手綱たづなを巻き付けると、ドルジが振り返って言った。
「ここから登ろう。登る途中で穴を見つけてものぞき込むなよ。オオカミの巣かもしれない」
「……?」
 さっさと登りはじめたドルジにナオトが続く。岩山の下の方は低い木で覆われていて動きにくく、上の方はこけと草で滑りやすい。いただき近くの岩はもろくなっていて、手を掛けると崩れる。そうとは知らずに、ナオトは岩に手を掛けてよじ登り、ようやくてっぺんに着くと辺りを見回した。
「おおっ……!」
 思わず声を上げた。切り立った岩の峰が、まるで原を進む大きなヘビのように曲がりながら続いていて、いまどうにか立っている岩の上からは、前も後ろも、右も左も遠くまで見渡すことができる。
 ドルジがようやく追いついた。枝に引っ掛けたか、頭を覆ういつもの布が取れ掛かっている。左耳の後ろに大きな傷痕が見えていた。
「ナオト、お前は見掛けと違って命知らずだな。ここから転げ落ちたら首の骨を折るぞ」
「……?」
 ナオトは、いまのいままで落ちることは考えなかった。
 ――言われてみればそうだ。
 とがった岩が空に向かってもり切先きっさきのように突き出ている。しかも、その銛は一本ではなく、何本も束ねてあるように見える。岩の向こう側には、ところどころに木立の見える草原がはるか南まで続いていて、その先には、なだらかな白い山並みが左右に広がっている。
 慣れてしまえば、岩山のてっぺんの風は気持ちよく、少し動き回っても足元が怖いという感じはしなかった。気持ちが落ち着いてくると、東寄りに見えている海はフヨの入り江だと気付いた。
「ドルジ、このように海から近い原にも遊牧の民はいると思うか?」
「どうだろうか? ヒンガン山脈の麓の草原ほどではないだろうな。この辺りは王の一族の原だと聞いている。水場もあって過ごしやすいので、厳しい寒さを避けようと冬前に何家族かで移ってくるということはあるかもしれない」

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