【ショートショート】ジーンズの霊
夏休み初日、朝起きると、ジーンズが死んでいた。
死ぬ間際、私に助けを求めていたのか、ベッドの端に切りっぱなしの右裾をかけた格好で息絶えている。奥に見える床には、夜中にのたうち回った形跡の青い血痕が広がっていた。
「気づいてあげられなくてごめんね」
床に貼りついたジーンズをぺりっと剥がし、持ちあげてやる。
ジーンズは陶器のように冷たく硬直していて、両膝のダメージ加工を今さら縫ってあげたところで、とっくに間に合いそうになかった。先週末、古着屋で手に取ったときは、その傷をもろともしない勇敢な戦士のようないで立ちに一目惚れして買ったのだけど、傷口は思ったよりも深かったらしい。
夏休みはこれを履いて出かけようと決めていたのに、結局、一度も履けなかった。
私はショックの中、ジーンズの亡骸を買ったときの紙袋に入れてやり、床についた青い血を掃除した。それを一通り終えると部活の時間が迫っていて、制服に着替えた私は、ジーンズをゴミに出しがてら自転車で学校へ急いだ。
この時期、私の高校の美術部は、コンクールに向けた準備でそこそこ忙しい。
学校にいる間は、死んだジーンズのことなど忘れていた。しかし、家に帰ってきて自分の部屋に入るなり、私は蘇ってくる今朝の記憶とともに仰天した。どうして。捨てたはずのジーンズが、硬直したまま床の上に置いてあった。
怖くなった私は、すぐさまジーンズを新たな袋に入れて捨てにいった。
ところがだった。
ジーンズは何度捨てても、いつの間にか部屋に戻ってきた。
それからというもの、さらなる怪奇現象にも悩まされることになった。
身の回りのものが、ふいに青く染まるのだ。
トーストや文庫本、リビングの水槽で飼っている金魚——。
といっても、大抵のものは少しかまってあげれば、気が収まったように元の色に戻った。例えば、トーストなら一口かじってやる、文庫本なら一ページ読んでやる、金魚ならエサをひとつまみ与えてやるといったことをするだけで解決した。
そんな中、絵の具だけは違った。
赤や緑、黒——何色の絵の具にいたっても、いざパレットに絞ってみると青い。
仕方なく、私はニセモノの青でキャンバスに遠く離れた海を描いてやるのだけど、それでも絵の具は「染めたりない」とでも言わんばかりに、いつまでも元の色に戻ってくれないのだ。
結局、コンクールに出す予定の絵は一ミリも進まず、海の絵ばかりが積みあがっていった。
そうして夏休みが一週間過ぎた、ある日のことだった。
ついに、私の顔までもが青く染まった。
いつものように海の絵を描いていた最中、顧問の先生に「具合悪い?」と訊かれて気づいた。まさかと思い、トイレに駆けこんで鏡を確認すると、そこには血色が悪いというレベルを優に超えた群青色の顔が映っていた。
早退することになり、家に帰るとすぐに顔色は元に戻った。
なんだよ、もう——。
自分の部屋に入り、またもや戻ってきているジーンズを見て溜め息をついた。
「一度も履いてあげられなかったこと、悪いとは思ってるよ」
そう語りかけてみるが、ジーンズは答えない。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
出てみると、美術部で同じ女子部員のサキチだった。
「よかった。ミワリン、顔色戻ったんだね」
「うん。ありがとう。てか、部活は?」
「今日はもう中止になった」
「中止?」
「これ見て」
そう言うと、サキチは取りだしたスマホである動画を見せてくれた。
それは、私が帰ったあとの美術室を後ろから撮った映像で、美術部全員の持つパレットが青一色に染まっていた。それぞれの部員の前に置かれたキャンバスには、どれも途中の海が描かれている。
サキチは困ったというより、むしろ好奇心に満ちあふれた様子で言った。
「ねぇ、ミワリン。いったい何があったの?」
「たぶん、死んじゃったジーンズが原因でね——」
私はとうとうあのジーンズにまつわる、一連の出来事を話した。
ダメージ加工の傷口が思ったよりも深かったこと。一度も履いて出かけられなかったこと。何度捨てても戻ってくること。身の回りのものが青く染まること。大抵のものが少しかまってあげれば元の色に戻る中、絵の具だけがそうはいかないこと。
サキチは確信したような口調で答える。
「ジーンズの霊だね。完全に取り憑かれちゃってる」
「やっぱり、サキチもそう思う?」
「死んだ人が霊になる条件ってね、無念の死を遂げたときなんだって。昨日、怖いテレビで霊媒師の人が言ってた。……とすると、今回の場合は、一度も履かれることがなく、街へ出かけることもできなかった無念がジーンズ自身を霊にしたんだ」
「だとしても、青く染まるって何? 絵の具にかぎっては元の色に戻らないし」
「恨みでしょうか……。何か、こちらに強いメッセージを訴えかけているのかもしれませんねぇ……」
サキチが霊媒師風の喋り方をして言うので、私もそれに付き合ってあげることにする。
「サキチさん、私はいったい何をしたらいいのでしょう?」
「成仏させてあげるのです……」
そう答えたサキチはあっさりと普通に戻り、玄関先に止めていた自転車にまたがった。
「ミワリン、行くよ!」
「え、どこに?」
「決まってるでしょ。ジーンズと一緒に街へ出かけるんだよ!」
私はコクリとうなずくと、サキチに急かされるままに、部屋からジーンズの亡骸を持ってきた。そして、それを自分の自転車のカゴに入れると、先に出ていったサキチの背中を立ち漕ぎで追いかけた。
自転車を漕いでいると、街のものも次々と青く染まっていった。
まず染まったのは、通りがかった公園のベンチだった。
私たちは横に自転車を止め、青くなったベンチに腰かけた。夏の日差しにさらされていたはずなのに、不思議とひんやりとしていて気持ちいい。そこで、たわいもない話をして盛りあがった。さすがはサキチ。夏休み一週目に、この夏の目標を百個も立てたらしい。
ベンチが元の茶色に戻っていることに気づくと、私たちは立ちあがり、ふたたび自転車を漕ぎだした。
次に染まったのは、道端の自動販売機だった。
よく見ると、本体だけでなく、スポーツドリンクのところのボタンも青く染まって光っていた。サキチがにやりと笑ってそこを押すと、お金を入れていないのにスポーツドリンクが出てきた。私も押してみると、私の分も出てきた。
「どっちがⅭⅯっぽく飲めるか勝負しようよ」
サキチの提案で、私たちはスポーツドリンクを大げさに喉を鳴らして飲みはじめた。私はあまりにも下手で笑われた。一方のサキチはやけに小慣れていて、そのわけを尋ねると、毎晩お風呂あがりに牛乳で練習しているからだという。
またも自転車を漕ぎだすと、街路樹に止まった青いクワガタを見つけた。
サキチはためらうことなく、そのクワガタを鷲掴みにして捕まえた。それから、「こんなめずらしい色のクワガタをどうしようか」という話になったのだけど、動画サイトで飼育日記を公開してひと稼ぎすることが決まった途端、クワガタは元の黒色に戻って逃げてしまった。
その後も、スイカ、フェンス、野良猫……と、街中で青く染まるものを次々と追いかけた。
そんな中、あるときすれ違った一台の車が青く染まったような気がして、急いであとを追っていたときのことだった。
いつしか知らない街にまで来ていて、私はもうヘトヘトに疲れていた。一度見失った車を、自転車で探すなんて無謀だ。それなのに、美術部員離れした体力を持つサキチは、私のことを置いてどんどんと先に進んでいた。
何度も呼びかけているのに、サキチは全然待ってくれない。
「ねぇ、サキチってば!」
とうとう叫び声を上げると、サキチがようやく自転車を止めてこちらを振り向いた。
追いついた私に向かって、サキチはぶっきらぼうに言いはなつ。
「あきらめるの?」
その一言にカチンときた私は、これまでの不満をつい口にしていた。
「あきらめるも何も、そもそも追いかけて何になるの? こんな暑い中、街中を自転車で走り回ってさ、ほんとにこれでジーンズが成仏するわけ? 全然、そんな兆しが見えてこないんだけど」
「何その言い方。ミワリンのためにやってるのに」
「別に頼んでないし」
「だったら、一生成仏させないつもり? そんなの迷惑なんだけど。美術部全員、ミワリンのせいでいつまで描きたくもない海を描かなくちゃいけないわけ?」
サキチの強まった語気に、私はさらに食い気味に言い返そうとする——。
しかし、そのときふいに空が分厚い雲に覆われて、激しい雨が降ってきた。
私は少し冷静になり、もごもごと口を動かすだけになった。
「……海以外にだって、青いものはあるよ。空とか」
「……たしかに」
冷静になったのは、サキチも同じだったようだ。
しばらく沈黙に雨音だけが響く中、サキチが急に笑いだした。
「何がおかしいの?」
「よく考えたら、なんか青春のワンシーンって感じがしてきてさ。きっと私たちの一日も青く染められてるんだよ」
そんなことを恥ずかしげもなく口にするのが、まったくもってサキチらしい。
そう思うと、私もなんだか笑えてきた。
今までの雨がウソだったかのように、空が晴れ、風が吹く。
その直後、私とサキチは顔を見合わせていた。自転車のカゴに入っている、硬直したジーンズの切りっぱなしの裾が、風になびいたように見えたのだ。
遠くのほうで、今さっき吹き去った風が青く染まっている。
私たちは慌ててペダルに足をかけ、その風を追いかけた。
いくつか知らない角を曲がった先で、突然、急勾配の下り坂が現れた。ブレーキから手を放し、猛スピードで下っていく。やがて坂を下りると、今度は上り坂になって立ち漕ぎをした。
そして——。
坂のてっぺんにまできた瞬間、私たちは急ブレーキで止まっていた。
突如として開けた視界に、晴天の青と凪いだ海の青がどこまでも広がっている。
「いつの間に、こんなところまで来てたなんて……」
「ジーンズは、どうしても本物の海が見たかったのかもしれませんねぇ……」
サキチは思いだしたように、霊媒師風の喋り方で答えた。
気づけば、自転車のカゴに入っていたジーンズがなくなっている。
視線を戻すと、空はさっきよりも深い青に染まり、海とを分かつ水平線は切りっぱなしの裾のようにほつれていた。
