The Monkeesを再評価する - Part 12:ピーター・トークとスティーヴン・スティルス(2)
前回Part 11で1967年6月のティーン向け音楽雑誌『TeenSet』に掲載されていたスティーヴン・スティルスのピーター・トークに関するインタビュー記事の和訳を載せた。
今回は同じ1967年6月、及び翌月の7月の2回にわたって音楽雑誌『Tiger Beat』に掲載されたスティーヴン・スティルスの寄稿を和訳してみた。
こちらもなかなか貴重だと思う。編集者がいるものの体裁としてはスティルス自身が寄稿した体裁になっているので、より一人称の印象があるだろう。
ピーター・トークの演奏やパフォーマンスがスティーヴンに大きく影響を与えたことなどを独白している。
ちょっとしたすれ違いがなければピーターが(後にバッファロー・スプリングフィールドになったであろう)スティーヴンのバンドのメンバーになっていてもおかしくなかったようなことにも触れている。
また、この当時カリフォルニアに来れば何かあるだろうとやってきた若きミュージシャン達がきっかけが見つからず「何でも良いから何かしたい」と悩んでいた姿も垣間見れる。モンキーズのオーディションに飛びつく若者の、藁にもすがるような切実な思いが良く伝わる内容だと思う。
この時期スティーヴン・スティルスは、この60年代後半に様々なカリフォルニアのミュージシャンがこぞって住むようになった有名な地域であるローレル・キャニオンのピーターの最初の家に居候している。その経緯や、ピーターの家に人が勝手に出入りしてギター弾いたりあれこれ話して過ごしているようなローレル・キャニオンのライフスタイルにも触れている。これは完全に60年代後半に爆発するヒッピームーブメントの下地と言える。モントレー・ポップ・フェスティバル前夜(取材時)である。
以下、その和訳全文である。
6月号と7月号を続けて記載する。
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『僕の友人ピーター』
Tiger Beat誌 1967年6月 P40-41


同じモンキー? ピーターは確かにあご髭が有る人と無い人の2人がいるように見える。

これがピーターの家。2階がLDK。1階の半分は2つのベットルーム。
バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴ・スティルスによる寄稿。
(注:この記事ではStephenではなくSteveと記載されているので、原文通りスティーヴとする。)
ピーターと僕はかなり前から友達です。僕らはそれぞれ独自のキャリアを持っています。ピーターとモンキーズ、そして僕とバッファロー・スプリングフィールドなわけですが、グリニッチビレッジで一緒に演奏していた初期の頃を思い出すのは素晴らしいことです。
ピーターに初めて会った時のことを覚えています。4日前からみんなから「おい!お前と似たようなガキを見なかったか?!」と、そしてピーターも後で僕について同じことをほぼ同時期に聞いたと言っていました。
僕らは最終的にはフォーウィンズカフェで出会い、彼は僕にこう言いました。「君が僕のように見えるガキだな!」 そしてそうやって僕達は出会ったのです。僕はカントリーブルースやフォークをやって一人で歌っていました。もちろんピーターもビレッジ界隈でバンジョーを演奏していました。

スティーヴとピーターが2年前にビレッジで出会った時、バッファロー・スプリングフィールドは結成されていない。現在バッファローはピーターのお気に入りのグループの1つだ。
僕はすぐにピーターが好きになりました。彼は本当にいい人だと思いました。彼はとても暖かく、とてもオープンで、話したりコミュニケーションしたりすることをいとわなかった。僕は僕が彼の演奏を見る前から彼を知ってはいました。しかしピート(注:ステーヴンは時々ピートという愛称で呼ぶらしい)は僕の演奏のやり方に大きな影響を与えたのでした。彼の動き方、アクセントの使い方、シアター、シアター全体に対する彼の全体的な態度、それらが彼の素晴らしい基礎となっていたのです。
彼は、人々を楽しませるために、そこにいるべきだという事実を決して見過ごしません。そして、彼がそこに上がる度に、彼は演奏し、彼の曲を全て演奏し、できる限りの全ての個性を発散し、また素晴らしいコメディールーティンも幾つかやっていました。僕はほとんど彼を見ながらその一部を拾っていたんです。

これは新しく購入したロールスロイスでポーズをとっているスティーヴ。
かなり長い間、僕らは一緒にたむろして、一緒にたくさんのことをしました。ルームメイトのジョン・ホプキンス、ピーターと僕は、それぞれ自分で歌うことに飽きて、一緒に歌うことにしました。それで僕らはトリオを結成しました。ピーターはバンジョーを演奏し、ジョンと僕はギターを演奏したのですが、それは本当に素晴らしかったです。
僕らはコーヒーハウスでバスケット(注:投げ銭のカゴ)を渡していたので、給料が支払われなくてもかまいませんでした。僕らのバスケットに45ドルも入っていた夜もありました。僕らが演奏していた頃ずっと、僕らは自分達の名前をつけていませんでした。この時ピートはウェストビレッジに住んでいて、ジョンと僕はイーストビレッジにいました。
しばらくしてトリオに飽きてしまったので、ジョンはロングアイランド(注:ニューヨークの高級住宅街がある地域)にギターを教えに行きました。ピーターはコネチカットに数回戻って、その後家族と一緒にベネズエラに行きました。僕はロックンロールバンドを一緒にやろうと思っていたのですが、もしピーターがその頃にいてくれたら、タラレバではありますが、彼が参加していたかもしれなかったのです!
ピーターはロックンロールが好きでしたが、演奏してきたのはフォークミュージックでした。彼はいつもあらゆる種類の音楽が好きで、偏見はありませんでした。多くのフォークミュージシャンは彼らの小さな民族的偏見でフォークにとらわれがちですが、ピーターはそれをやるにしてもあまりにもプロフェッショナルでした。それでも彼はロックンロールベースを弾き始めていました。
ピーターがベネズエラに向けて出発したとき、僕らはお互いの消息が分からなくなりました。来月号では、僕がモンキーズに挑んだこと、どのようにしてカリフォルニアでピーターに出会ったか、そして彼がモンキーズに挑んだことなどをお話します。そして僕はここ数ヶ月ピーターと一緒に住んでいるので、彼のグルーヴィーな日常生活についても書きます。
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『僕の友人ピーター パート2』
Tiger Beat誌 1967年7月 P10-11

先月、ピーターと僕がどのように出会ったか、名前のないトリオで一緒に演奏していたことや、ピートがベネズエラに向けて出発したことや、(しばらくして)僕がカリフォルニアに向けて出発したことについてお話しました。
僕はサンフランシスコに行きました、そして次の春(1966年)まで僕は再びピーターに出くわすことはありませんでした。彼はハンティントンビーチ(注:ロサンゼルス郡の南に位置するオレンジ郡の都市)のゴールデンベアで働いていました。そこで彼は何でもやっていました。皿洗いをし、人々をバックアップし、サポートのプレイヤーが必要な時は彼の名前が挙がる。彼はバンジョーを弾いていて、目と鼻の先に住んでいました。
ロン・ロングと僕はバッファロー・フィッシュというデュオを組んでいたのですが、そのデュオはロンの昔のグループ、シャギー・ゴリラズからバッファロー・フィッシュを差し引いたものでした。俺らは半分リズム&ブルースを歌っては ただただ馬鹿騒ぎしていました。彼らは僕らを 「ファンキーフォークロック&コメディ 」だと言っていました。それで俺たちはベアにブッキングされたのだけど、2夜を除いてはギグは本当に酷いものでした。その2夜ではピーターが上がってピアノを弾いてくれたのです。
ピーターの野心
ある朝、一緒に朝食を食べていて、僕はこう言いました。「ピーター、あそこで何をしようと思っているんだ?」 彼はこう言いました。「わかんないよ。何かしたいんだ。 何でもいいから何かしたい。」 僕は「何か見つけたら連絡するよ」 と言いました。
MFQ(注:モダン・フォーク・カルテット)のジェリー・イェスターが僕にモンキーズのオーディションについて話してくれたのはちょうどこの頃でした。彼は僕に、ビートルズをモデルにしたテレビシリーズに妥当な4人の男性ミュージシャンとコメディアンが必要だと言っていました。僕は、毎週テレビでビートルズを見られる、これはかなりいいアイデアだと思いました。
それで僕は面接に行きました。そして彼らは僕と面接して、僕を見渡して、僕は彼らのために演奏もしました。僕がそこを出た時、僕にチャンスがあったとは思えませんでした。僕はミュージシャンの気質が強すぎたなと自覚しました。たぶん彼らは僕がちょっと自分の音楽にのめりこみ過ぎで良いコメディアンにはなれないと判断したのだろうと思いました。それに、歯並びが悪く髪も酷かった。
まっすぐな歯
僕がプロデューサーのボブ・ラフェルソンに最初に言ったことはこうです。「あなたが僕を気に入らなければ、僕の兄になれるくらい僕に似ている奴で、もっとマシなアクターで、まっすぐな歯の持ち主を知っていますよ!」僕はピーターが僕より良いコメディアンであることを知っていたので、このことをピーターに話しました。
彼が最初の面接に行った後、どうだったのか聞いてみたところ、彼はこう言いました。「どうなるかな。」 そして彼らはピーターに何度も電話をかけるようになりました。ピーターはマイケル・ネスミスを気に入っていました。それが最初に起こったことでした。
それは一年前の春のことで、スプリングフィールドはまだ起きていませんでした。この直後、僕は立ち去り、ピーターの消息はわからなくなりました。それから僕はバッファロー・スプリングフィールドのことに取り掛かりました。
僕は数ヶ月ピーターを見ていませんでした。僕はテレビで初回のモンキーショーを見て気に入りました。ピーターは確かに間抜けな奴を演じていますが、彼は違います。彼はトミー・スモーサー(注:トム・スモーサー。60年代の有名な演奏するコメディアン、エンターテイナー)のキャラクターですよ。今では僕はこの番組をお気に入りと決めています。
本当に衝撃的だった
ピーターと再会したのは1966年11月のことで、その時は本当に衝撃的でした。僕ら(バッファロー・スプリングフィールド)はサンタモニカのシビック・オーディトリアムでKBLA (注:サンタモニカのAMラジオ局)のショーをやっていたのですが、(僕らが知らないうちに)ピーターが僕らを紹介しようと決めていました。僕らは彼がそこにいることさえ知らなかったのです。僕らは準備できていたのですが、突然ピーターがステージに登場して、完全に大騒ぎになりました。信じ難いことでした!
ほんの数ヶ月前、僕はウッドランドヒルズにある家のグルーヴィーな取引をしていました。緑豊かな木々と馬のいる納屋に囲まれていて、4つのベッドルームと全て揃っている! ただ1ヶ月くらい入居できない。するとピーターが「なあ、入居するまで僕と一緒にいなよ」と言ってくれました。
ピーターの家
ピーターの家は本当にグルーヴィーですよ。みんなただふらっとやって来て、僕らは話したり座ったりカラーテレビを見たりしています。特に好きな番組はないのですが、主にはカラーテレビが好きですね。時々僕らはそれをメチャクチャにしてドットとフラッシュだけにして僕らだけの光のショーみたいにしてみたり。
ピーターについて今まで知らなかったことを知るようにもなりました。例えば寒い家に住むのが好きとか。「72度(華氏。摂氏だと22℃相当)は十分暖かい」と彼は言うんですよ。彼は温度を上げるのが好きではないですね。あと、彼は中華料理が大好きですが、やむを得ない場合でも彼は料理をしません。彼は「料理してもらう」方が好きですね。
いつも家では毎日午後にファンのパレードがあります。ファン達はドアに近づいて、「ピーターはここにいますか?」とささやきます。そして逃げる。彼が家にいる時は彼は外に出てサインをしますが、彼はそれほど頻繁に家にいるわけではありません。彼はいつもは働いているので。
僕らはよく座ってギターを弾きます。彼の今のお気に入りの曲は「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」です。僕らが良く聴くグループは、スプーンフル、もちろんビートルズ、あとママス&パパス、そしてピーターはスプリングフィールドを掘り下げていますね。
僕らが音楽を演奏したり聴いたりしていない時は、大抵は物事に対してあれこれ言っていますね。グループ、人から聞いたアイデア、音楽の断片、お互いの頭の中などについて。
ピーターの何よりも尊敬する点は 彼の正直さです。僕が知っている誰よりも、ピーターは自分自身のことを話してくれます。もしあなたが何か問題を抱えているなら、それが何であれ、あなたはいつでも彼にある種の答えやある種の提案を頼ることができます。彼はあなたを怒らせることは気にしません。彼はただ正直になりたいだけなんですよね。僕にとって、それが本当の友人ということなのです。
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どうだろうか。前回と今回とで、かなりピーター・トークという人物がテレビ番組のボケキャラとは全く違う人物に見えてきたのではないだろうか。
この後、このピーターの家にはピーターの正直な助言を聞きにどんどん人が集まるようになり、ママス&パパスのママ・キャスの家と並んで連夜パーティーを繰り広げるミュージシャンの溜まり場となるが、

キャパが足りなくなって広い家に引っ越す。

この2番目の家は、バッファロー・スプリングフィールドはもちろん、
後にCSN&Yがここでウッドストックのリハーサルを行い、

ローリングストーンズが滞在してリハーサルを行い、




ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、ザ・フー、ホリーズ、ジョン・セバスチャン、バディ・マイルズなどが集まる場所となっていった。
考えようによっては、ピーター・トークは、モンキーズに入っていなければ、バーニー・レドンがフライング・ブリトー・ブラザースやイーグルスでやるよりも早くバッファロー・スプリングフィールドでギターとバンジョーを弾きマルチプレイヤーとして違った形でウェストコーストロックの歴史に名を刻んでいたかもしれない。
いや、或いは、モンキーズの成功があったからその莫大な収入でローレル・キャニオンにヒッピーコミュニティーの城を築き様々なバンドや音楽を産むキッチンの役目になれたのかもしれない。
何が良かったのか悪かったのか、とても複雑な思いがする。
そんな背景をひと通り知った状態で、このモントレー・ポップ・フィスティバルで華々しく新鋭のバッファロー・スプリングフィールドを紹介するピーター・トークを観て欲しい。(1967年6月18日)
なぜここにピーター・トークがいたのか、今ならわかると思う。
続く。
次回は4枚目のアルバムの制作に向けての話を書こうと思います。
