私たちはなぜ「奇妙な現代人」になったのかーージョセフ・ヘンリック『WEIRD』から考える、個人主義・識字・恥と罪・競争の起源【前編】

私たちは「人間一般」ではないかもしれない

私たちはふだん、自分たちの感じ方や考え方を、人間にとって自然で普遍的なものだと考えている。
自分の人生は自分で選ぶべきだ。自分らしく生きるべきだ。他人の期待よりも自分の信念に従うべきだ。
権威に服従するのではなく、自分で納得したルールに従うべきだ。努力によって未来を変え、現在の欲望を抑え、より大きな成果のために我慢することは望ましい。
法律や制度は、身分や血縁にかかわらず、誰に対しても公平に適用されるべきだ。

こうした考え方は、現代社会に暮らす私たちにとって、ほとんど説明を必要としないほど「あたりまえ」のものになっている。

むしろ、その反対の社会を想像すると、私たちは強い違和感を覚える。
自分の希望より家族や共同体の都合を優先し、自分の意見より年長者の判断に従い、個人の幸福よりも一族の名誉や地域の秩序を重視する社会は、しばしば前近代的で、抑圧的で、不自由なものに見える。
自分の将来を親族が決め、職業や結婚相手が共同体によって選ばれ、規則が個人の事情に応じて柔軟に運用される社会よりも、個人の自由と公平なルールが保障された社会の方が進歩している。私たちは半ば無意識にそう考えている。

しかし、ジョセフ・ヘンリックの『WEIRD 「現代人」の奇妙な心理 経済的繁栄、民主制、個人主義の起源』が提示するのは、その「あたりまえ」そのものを疑う視点である。
私たちが自然だと思っている心理は、人類に普遍的なものではない。それは人類史のかなり限られた時期に、特定の地域と制度のもとで形成された、きわめて特殊な心のあり方かもしれない。
私たちは、近代以前の人々より合理的で成熟した「人間の完成形」なのではない。長い歴史の中で偶然生まれた、「現代人」という特異な人間類型なのである。

本書が重要なのは、西洋社会の特殊性を指摘するだけではなく、私たち自身のものの見方を相対化する点にある。
自分を独立した主体と考えること。
心の内側に本当の自分が存在すると感じること。
周囲の期待より自己決定を重んじること。
抽象的なルールを人間関係より優先すること。
誰も見ていなくても、自分が定めた理想に反すると罪悪感を覚えること。
複雑な現象を要素に分解し、カテゴリーや法則によって理解しようとすること。
こうした心の働きは、私たちにはごく自然に感じられるが、人類史全体を見渡せば、決して標準的ではない。

『WEIRD』は、私たちが「人間」と呼んできたものの多くが、実際には「近代西洋的な人間」にすぎなかったのではないか、と問いかける本である。

WEIRDとは何か

WEIRDとは、Western、Educated、Industrialized、Rich、Democraticの頭文字を取った言葉である。日本語にすれば、西洋的で、教育水準が高く、工業化され、裕福で、民主主義的な社会に暮らす人々を指す。
同時に、英語のweirdには「奇妙な」「風変わりな」という意味がある。つまりこの名称には、現代西洋社会の人々こそ、心理的には世界の平均から大きく外れた、かなり風変わりな存在であるという皮肉が込められている。

近代心理学や行動科学は長いあいだ、欧米社会の人々、とりわけ大学生を主要な研究対象としてきた。研究者は、限られた文化的背景をもつ被験者を対象に実験を行い、その結果を「人間一般の心理」として扱ってきた。だが、世界各地の社会を比較する研究が進むにつれて、欧米人の反応は必ずしも普遍的ではないことが明らかになってきた。
自己の捉え方、公平さの感覚、権威への態度、家族への忠誠、他人との協力、時間の捉え方、罪や責任の感じ方、さらには視覚認知や推論の仕方まで、文化によって大きく異なる。
しかもWEIRDな人々は、人類の平均的な心理を代表するどころか、多くの項目で極端な位置にいる。
心理学が「普通の人間」だと思って研究していた人々が、実際には最も普通ではなかった可能性がある。

この問題は、単なる研究上の偏りではない。なぜなら、私たちの社会制度そのものが、WEIRDな人間観を前提として設計されているからである。
教育制度は、個人の能力や努力を測定し、個人ごとに評価を与える。
企業は、個人のキャリア、業績、職務、責任を明確にする。
法律は、血縁や地縁よりも、抽象的な権利主体としての個人を基本単位にする。
民主主義は、共同体や一族ではなく、自律した個人が自分の意思で投票することを前提とする。
市場社会では、見知らぬ他者同士が、契約と制度を介して取引する。
つまりWEIRDとは、単に特定地域の心理的傾向を指す言葉ではない。
個人、自由、選択、権利、契約、公平、自己責任といった、現代社会を支える基本概念の束なのである。

日本人はWEIRDなのか

私たちは西洋人ではない。その意味では、日本社会をそのままWEIRD社会と呼ぶことには慎重であるべきだろう。日本には、世間、空気、家、会社、地域、年功序列、先輩後輩といった、関係性を重視する文化が今も強く残っている。自己主張より調和が評価される場面も多く、欧米型の個人主義とは異なる感覚も根強い。
しかし同時に、現代日本人の多くは、かなり深いところでWEIRD的な世界観を共有している。自分の人生は自分で決めるべきだと考え、進学や就職を個人の選択として捉え、恋愛や結婚に本人の意思を重んじ、自分らしさや自己実現を求める。仕事では客観的な評価を期待し、政治や制度には公平なルールを求め、身内びいきを批判する。社会的役割から独立した「本当の自分」があると考え、自分の心や性格を分析し、他者との関係を言語化しようとする。

現代のグローバル社会に適応した人々は、国籍・民族にかかわらず、ある程度WEIRD化している。学校教育を受け、読み書きを習得し、資格や試験によって能力を評価され、企業や市場の中で働き、法制度に守られ、個人名義の財産と契約を持つ。そのような生活を送るかぎり、私たちは自分を独立した個人として理解するようになる。
したがってWEIRDは、単純な西洋対非西洋の区別ではない。むしろ、近代的な制度と生活様式が作り出した「現代人」の心理を指す概念として読む方がよい。
日本人は完全にWEIRDでも、完全に非WEIRDでもない。共同体的な感覚と個人主義的な感覚を同時に抱えた、混合的な存在である。この二重性は、日本社会の特徴であると同時に、現代人の生きづらさを考えるうえでも重要である。

WEIRD人の個人主義とは何か

WEIRD人の最大の特徴は、きわめて個人主義的であることだ。ただし、ここでいう個人主義は、自己中心的であるとか、他人に冷たいという意味ではない。もっと根本的に、人間という存在の基本単位を「個人」だと考えることである。
WEIRD人は、自分を人間関係や社会的役割より先に存在するものとして理解する。私は誰かの子であり、誰かの親であり、会社の一員であり、地域社会の構成員でもある。しかし、それらはあくまで私が持つ属性や役割であって、私そのものではない。役割をすべて取り去ったあとにも、なお「本当の私」が残る。現代人の多くは、ほとんど無意識にそう考えている。

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