華のないふたり【アマノ文筆クラブ】
砂埃纏う演劇場───。
主役は、君と、僕だけ。
赤茶色の座席がざっと百。緞帳は破れ、僕達を隠す物なんて無い。僕達を観る者だって居ないけれど──。天井は抜けて剥がれ落ちていて、灰色の混凝土が晒されている。座席にも瓦礫が詰まっていて誰も座れそうに無い。腐った土と雨の香り。臭い。汚い。唯一嬉しい事と言えば、照明が機能して呉れる事位だろうか。ヴェロリアと言えば、初めて来る劇場に辺りを見渡して、其れから舞台へと上がる。不法侵入で怒られないだろうか、と監視撮影機が無いか上を探る僕とは違って、ヴェロリアは草臥れた縁裳を手で掴んで回って魅せる。
───綺麗だ。まるで物語の登場人物の様な其の優雅さと、其れに似合わない華も品も無い装飾に、充足感と罪悪感が混ぜ合って仕舞う。否、良いじゃないか。僕達の逃避行は、確かに演劇にも勝る浪漫が有るだろう?然らば、此処で歌うも踊るも、偽るも、何だって自由じゃないか……。
低いヒールと床の擦れ合う音で虚偽めいた夢想は消え失せて仕舞う。其れでも気付かない振りをするヴェロリアに、一先ずは合わせておく。舞台の調整室で照明の向きを変えてみれば、光と煌めく埃達がヴェロリアに降り注がれる。女神が降臨したかの様な其の光景に、行き場の無い焦燥感は加速して、直ぐ様哀しみに変わってしまう。
「手震えてるよ、そんなに寒かった?」
眉を少し下げて投げ掛けて来る様子に、緊張した体内は暑くなって、先程との温度差で失神する感覚を覚える。別にしないけれども。
「いいや、大丈夫だよ。有難う」
取り敢えずで空気に触れた言葉は、其れだけでヴェロリアの不安を打消して仕舞えるものだったらしい。機嫌の治したヴェロリアは、先程迄の一人芝居を続ける様に、将又促す様に、顔に皺をつくらず微笑んで、ワルツを誘う。自信は無くとも此処には、僕とヴェロリアしか居ないのだ。失敗した所で誰も知らない。
「御一緒に踊って頂けますか?」
跪き、華奢な指先に口付をして。
自分でも、何をしているのだろうと思う。其れでも、ヴェロリアの絆けた口許と、林檎のように赤らんだ頬は、矢張り神を映した絵画の様で惚れ惚れする。
──音のしないワルツは初めてだ。拍の下手な僕に気付いたのか、美しき青きドナウの鼻歌を歌いながら滑らせる様にヒールを床に擦らせる。ヴェロリアは舞台上の照明を何処か嫌に思う様で、偶に視界を上へ移動させる。
「僕だけを見れば好いのに」
気持の悪い、言う筈も無い言葉が不意に出て仕舞う。ヴェロリアに嫌われて仕舞わないか、心拍が上昇して、運動不足からか、胸の苦しさを感じる。此処が舞踏会場で有れば賑やかさで誤魔化せたのに。ヴェロリアは鼻歌を止めて尋ねる。
「如何したの?突然」
其の通り。急に何を言っているんだろう。視界の揺らぎを何とか濁して、喉元で抑えた言葉を何とか吐き出す。
「照明が気になっているみたいだから」
正直に吐いた其の言葉は、今度こそヴェロリアの顔を曇らせて、僕は間違えた己を脳内で撃っておく。ヴェロリアに嫌われて仕舞う───
「私達に宛てた照明は、私達を悪者にするよ」
震わせた声は殆ど聞こえなかったけど、けれど、解る。屹度、ヴェロリアも終には既に気付いていた。耳鳴りは遠くで鳴る警笛と然程変わらない。詰まらない演劇。
照明が点滅を繰返す。
「もう、終わりかな」
囁き声とも取れる独り言を呟いたヴェロリアは、腕を丁寧に解き、舞台から降りていく。
次第に暗くなる時間が延びて、もう二度と光らなくなる。女神は終わり。演劇はもう、終わり。
───有るのは何だろう?
遺った物は、草臥れた衣服に、腐り果てた劇場、雨の染み込んだ麵麭、其れと、華の無い愛くらいだろうか。
