見出し画像

アール・ブリュットの手前で

作品は、誰のために作られるのだろう。
鑑賞者を想定せず、ただ自分自身と向き合うように制作された作品に、強く惹かれることがある。
それは「アール・ブリュット」の純粋さに似ていながら、どこか違う。
自分のために作ることと、他者に向けて公表すること――そのあいだにある曖昧な領域について考えてみた。

鑑賞者に寄り添ったり、訴えかける作品よりも、自分は作家が作家自身とだけ向き合っているかのような作品を愛好している。もちろん、それは自己満足と表裏だし、究極的には「アール・ブリュット」となろう(アール・ブリュットを決定づけるもっとも重要な点は、作家自身が公表を前提としない、そればかりか秘匿すらしている、完全に「作家自身のためだけの作品」であるところだ)。

ただし、自分はアール・ブリュット的な作品を愛好しても、アール・ブリュットそのものにはさほど惹かれていない。非常に微妙で中途半端だと、自分でも思う。
だが、同時に自分自身の趣味嗜好くらい、自分に正直でありたいとも思う。むしろ、他人へひけらかし、例えば教養を誇示するための趣味嗜好なら、そんなものはただのスノビズムだからやめてくれと思うし、はっきり言えば最低の悪趣味と唾棄してもいい。
まぁ、スノビズムを許容する人は少ないと思うけど。話を戻そう。

自分は自分のために制作する作家が好きだし、自分自身もそういう傾向がある。とはいえ、作品を公表する、しているからには、鑑賞者への応答責任があるとも思っている。

その責任を自覚しているかどうかが、重要と思うのだ。

#アールブリュット
#現代アート
#表現とは何か
#スノビズム批判
#芸術論
#自己表現
#創作と倫理
#noteエッセイ

いいなと思ったら応援しよう!

Morihiro Matsushiro ¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!