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そこへ導くための緻密さ

指揮は合わせさせるため、というよりは誘導するものだ。点を示すことよりも、点を予測させるものである。大縄跳びを回す感覚に似ているように感じている。


打点型の指揮というのは合わせさせる発想から来ている。確かに合わせやすいかもしれないが、音楽的というよりは音響的である。先日話題にしたようにフレーズの中の重心が多すぎて、流動的ではない結果に終わる。そう、運動性に欠けるのだ。


この問題を解決するのは、小節のなかを細かく執りながらも、その小節たちをフレーズ的に組み合わせるようにすることだ。細い図形を描くだけでなく、それらを組み合わせて大きな弧を意識することが必要なのだ。有名な指揮メソッドの細かさに厳密なタイプではあっても、その組み合わせが分かっている指揮者は見事に自然な誘導を実現できる。クモの巣を巡らせるような緻密さがある一方で、でも合わせさせるではなく、着実に誘導できる。


問題は指揮パートが楽曲の論理が読めているかにかかっている。


ブラームスop68の3/4andanteの最初のフレーズは0小節目を起点とする小節の4拍子で出来ている。その大きな4拍子を意識できないと、Andanteの本来の「軽さ」は実現できない。纏わりつく響きに押されてAdagioに劣ってしまう。それはロマン的なのではなく、怠惰に過ぎない結果なのだ。

そして、それは、小節の5拍子にリレーし、さらに4拍子に戻る。この4拍子、5拍子、4拍子の一連が見えて初めて、このAndanteの形が見える。ここまでが前奏であることに気がつく。


指揮というの行為はその一連の流れにメンバーを乗せて誘導する行為でなくてはならない。やみくもな足し算の連続に終わらせるような演奏に終わらせてはならない。


小節の中の打点が多くないとならないと感じているときは、まだ、その楽曲が把握出来ていないときなのだ。小節を越えるのにやっと、という視野ではメンバーを主題まで誘導することはできない。あのオーボのソロが始まるまでの過程が長過ぎる呼吸は、作品への愛ではない。楽曲ではなく、単に和音の響きに埋もれているだけでしかない。


演奏者、特に指揮パートとしては、その見極めがなくてはならないのだ。

自分は演奏というものは積分だと考えている。だが、微分の視野に陥ってはならないと自戒している。微分の視野に陥るのは点や部分しか見えていないからだ。

だが、積分だけでは誘導はできない。その点における角度が見えていなければ、最適な道のりから外れてしまうからだ。誘導するには緻密な微分の組み合わせによって、積分的な方向性を実現しなければならない。その両方が成り立たなければならないのだ。





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