花G 00| 序論 +G(ジェンダー)視点の自分史的背景
2024年 12月 9日/記
(敬称略)
日本の近代化の流れの中で、いけばなは、男性中心の文化から女性専科と言ってよいような特異な文化に変身した。男性中心を維持しようとした美術とは大違いである。ただし、いけばなを主導するのは少数派の男性なのだから、男による抑圧を内在化することで成立した女性専科ということにもなる。このように近代化の中身は分野ごとに特徴がある。
いけばなと芸者の関係を調べていた時に、〈明治以降の歌舞伎を支えてきたのは芸者たち〉との見解に出会って、ちょっと驚いたことがある。なるほど近代化によって崩壊しかねなかった文化を女性たちが担う、あるいは観客やパトロンになることで維持させた例は、いわゆる伝統文化と呼ばれるものには多い。いけばなも、そうした文化の一つであり、女性によって維持されてきた、いや、それどころか、大発展してきた文化なのである。
しかし、今、いけばな界が、いけばな人口という点では激減しつつあり、窮地に陥っている。危機に立ち向かうには、いろいろな再検証が必要だ。そこで、近代いけばな史を主材料に、G (gender ジェンダー) 視点を絡めながら、いけばな再考を試みたいと思う。
ただし、この序論では、私がG視点を加味したいけばな論を書くに至った動機や経緯を、自分史的な要素を絡めて書かせてもらう。本論とは直接の関係がないので、序論を飛ばして本論に進んでもらってもかまわない。
ジェンダー運動のうねりの中で
ジェンダー第2波とも呼ばれるウーマンリブ運動が、日本では1970年代に広がった。ただ、美術界がこの動きを本格的に受け止めたのは、先駆例を別にすれば、運動のピークより少しあとの、1980年前後(要検証、注1)だったと思われる。差別と美術表現との関係は微妙で、女性作家たちにとっても両者を直線的に結ぶことには抵抗があったと思われるが、それでも、うねりは彼女たちの心を静かに揺さぶった。
全国に様々な動きがあったと思われるが、東京方面では1981年に神奈川県民ホールギャラリーを会場にして沼尻昭子らによる「15人の今アート」展が開催された。この女性展に中部から参加した大嶽恵子、栗本百合子、ノブコ・ウエダが、1982年、地元の名古屋市博物館ギャラリーなどを会場とした「WOMEN'S ART NOW」展を企画し、地元作家と関東等の作家14人が参加した。いわゆる「女流展」ではなく、ジェンダー問題を意識した、中部で初の「女性展」だった。展覧会リーフレット掲載の「14人から無限大へ」で、大嶽恵子がこう書いている。
◆〈女性ばかり集まる ― やはり、女性差別の問題を避けて通ることは出来ない。この差別は、根拠が明確でなく、裏返しの劣等感かも知れず、男性が自己欺瞞のために制度化し、強固な連帯意識でガードしてきたもので、本来、不当で、無効である〉。
さらに、〈男女両サイドから考えていかねばならないのに、現状ではまだ、男性の抑圧が強く、あたかも女性だけの問題であるかのように、"女性問題″というラベルを貼り、女性の側に押しつけたままで関知したがらない〉、と男たちを指弾する。
美術との関わりについては、微妙な言い回しだが、「クリエイティヴ」という言葉で説明する。ウーマンリブ以降の多様な動きは、〈現状からのクリエイティヴな在り方への試みであり〉〈個の中で、在り方と、美術が、別々のものでないように、社会の中でも、人間の在り方が大きな弧を描く時、美術も大きなうねりが押し寄せてくる予感がする〉と。
展覧会リーフレットには、シンポジウム「女性展の意味」の案内があり、パネラーとして、なぜか私の名前だけが記されている。このシンポジウムでは、とっかかりに私が問題提起をして、あとは皆で議論したのではなかったか。しゃべった内容は覚えていない。
が、妙なことだけは覚えている。展覧会に協力していたギャラリー79のオーナー福田久美子が私の目の前に座っていて、私が一言しゃべる度に〈ウン、ウン〉と、大きく相槌を打って、励ましてくれたのだ。
名古屋でも現代美術画廊が増えてきた時代、福田もその先駆けの1人であり、この頃の彼女は地元にコミットする意欲が旺盛だった。当時、現代美術を目指す女性作家も多くなり、画廊界隈の空気が溌剌としていた。こうした美術状況と重なることでジェンダーを意識した動きが活性化したのではなかったか。
(注1) 1970年代の女性展について私は詳しい情報をもっていない。大嶽恵子によると、1970年代にも、女性展をやろうと、真島直子ら東京芸大「油画」専攻の同期卒業生に呼びかけ、東京で数回開催している。その第1回が1972年の「twelve」展(椿近代画廊)。
「女たちによる感性のモザイク111」展を企画

以上の動きを受けて、1984年、私は「女たちによる感性のモザイク111」展(以降「感性のモザイク111」)を企画した。活気に溢れる女性たちの動きを広く知らせるための装置のような展覧会であった。具体的にはこうだ。8号室に出入りしていた武谷直子の紹介で愛知県豊橋市の小木曽茂子に会った。その小木曽から豊橋に大型の画廊があり、無料で借りられるから、何か企画をしてくれないかと、私に依頼があった。彼女はのちに反原発運動のために青森六ヶ所村に移住するのだが、明るく活発な人で、豊橋の新しい文化グループの中心になっていたと思う。
それで「女性展」をやることに決め、豊橋の人たち、「WOMEN'S ART NOW」展後にグループ「WOMEN'S」として活動していた人たち、その他の人たちに企画協力者になってもらった。そこからは彼女らとの共同作業である。企画を練り、ジャンル横断的な展覧会にすることを決定し、彼女らに参加者を募ってもらった。結果、中部を中心に、関東関西などの人たちを加えた111人の参加となった。
企画協力者は、井上としえ、上松真美子、大井恵子、大嶽恵子、小木曽茂子、栗本百合子、後藤博子、小島悦子、沢井由美、武谷直子、永井千賀子、三浦幸夫、以上の12名である。男1人が混じっているが、紅一点ならぬ黒一点が心細くなって、8号室(1974-80)メンバーの若手だった三浦を引っ張り込んだのである。
「企画協力」という言葉は適切でなかったかもしれない。展覧会記録集に記したとおり〈協力者との会議が実質的な企画の決定機関〉であり、協力者こそが展覧会開催の主体だったと思う。

出品者や出品内容については、数や種類が多いので、全体に触れることはむずかしい。試しに図録を1ページ開いてみて、そこに掲載されている出品者の名前と本人申告の活動分野を列挙してみよう。K,イバタ(陶器)、梅村みやこ(エナメルワーク)、岸本清子(美術、政治)、花田真帆(草月流いけばな)、プルーPrudence Gargett (mother,arts,craft)、佐竹里美(未記載)、早川ゆみ(染織)、伊藤晴美(インダストリアルデザイン)、と多種多様だ。メッセージを書いている人もいるので、二、三を紹介しておく。
まずは岸本清子、彼女は1960年代の日本の前衛美術集団「ネオ・ダダ・オルガナイザース」に参加するなど、先端を走ってきた女性作家である。ジェンダーという点でも今日もっとも注目されている美術家の1人である。彼女はこう記す。
◆〈①自分の内部(の宇宙・自然の法)に忠実である事。②科学・芸術・宗教・政治・経済・教育の現体制の欺瞞に冷徹な分析を試み、敢然と挑戦する事。③常に「地球全体の幸福」という目的に自らの行動を捧げる事。④芸術を志す者はまず最低条件、天才である事。⑤覚醒者同志(男女の別なく)の連帯を(又はネットワークを)組む事。⑥女である事に誇りと喜びを持つ事。 以上〉。
岸本とはわりに親しくしていたが、電話をかけてきた時に、〈もしもし、地獄の使者です〉と名乗るようになった。私の方はノリが悪いので〈もしもし、ああ、岸本さんか〉とノーマルに答えて、彼女をがっかりさせた。少々過剰な行動があったものの、根は実に誠実で、繊細、優しい人だった。
プルーは、オーストラリアの人。郵送された包みを開いたらセーターが出てきた光景を覚えているから、来日はしなかったと思う。彼女のメッセージは、◆〈Independent, free spirited, happy〉である。
早川ゆみ、彼女は暮らしの次元から世の中を改革しようとする、この頃盛んになっていた動きと連帯していたと思う。早川のメッセージは以下のとおり。
◆〈昔、女のサボテンが男のコヨーテに言った、「背中の袋の食べもの分けてくれない?」 男のコヨーテが女のサボテンに言った、「ちょっと、そのとげ まくって やらせろよ」とズボンをおろした。男のコヨーテと女のサボテンは仲よく暮らした。今、女のコヨーテもいる。男のサボテンもいる。長い不自然が、自然となった。どうして?〉。
名古屋在住だったが、常滑の陶芸関係者とも活動を共にしていた。おそらくその関係で、陶芸家の鯉江良二が参加したいと言ってきて、〈男は入れない〉と断った覚えがある。入れるべきだったか?

なお、展覧会の終了後、ルナミ画廊から同画廊発行のジャーナルに展覧会について執筆を依頼された。「感性のモザイク111」展についての当時の考え、経緯、内容、等々についての、もっとも詳しい資料となっている。けっこう長い文章だが、文末に付録として再録しておきたい。
いけばなに遭遇
ジャンルは実に様々な分野におよんだ。美術、工芸、染織、手芸、書、デザイン、イラスト、詩文、ビデオ、いけばな、等々である。いけばな分野の参加者は4人だった。そう、ここでいけばなに遭遇したのである。先ほど開いたページにも花田真帆の作品が掲載されている。もちろん、いけばなという分野があることは知っていたし、書物で古典の「立花」等々についても少しは知っていた。ただ、現実の現代いけばなの人や作品に接するのは、この時が初めてだった。
たしか、のちに花田真帆を介して名古屋地域の現代いけばなのリーダー、かとうさとると出会ったと思う。そして、かとうを介して、いけばな専門紙『日本女性新聞』や前衛いけばな作家の下田尚利につながった。これは私がいけばな分野に関わる一経路であった。
もう一つの経路がある。女性展企画の印象が『美術手帖』編集部に強く残ったのだろう、3年後、同誌1987年6月号に女性3人の『TO THE DEPTH』展(東京青山・スパイラルガーデン、キュレーター・南嶌宏)の批評を依頼された。実際にはジェンダー的意図のない企画だったが、ここでいけばな作家の崔在銀や谷口雅邦の作品に出会い、現代いけばなの最前線を知ることができた。
さらにその翌年には、植物を使うイギリス現代美術家アンディ・ゴールズワージーの展覧会の批評を同誌から依頼されて3月号に書いた。いけばな界が注目する美術家であり、批評をした私の存在もいけばな界の一部に知られるようになったようだ。当時の私は、この時点では、いけばな界をまったく意識していなかったのだが、いつの間にか接近の下地が出来始めていたのである。
ブログ別文に書いたとおり、もともと植物素材への関心があった。そこに2つの経路が道となって1990年頃から本格的に現代いけばなに関与していく。そう考えると、+G視点のいけばな論を書くのは、「女たちによる感性のモザイク111」展が起点であり原点なので、その時から予定されていた、ということにもなる。
かなり強引な結論だが、自分史は自分の都合のよいように懐古するものだから、許していただきたい。
※次回から始める「+G視点のいけばな論」は、『日本女性新聞』に連載執筆した「女たちのいけばな」を下敷きにしている。2015年1月から2018年3月まで、月に2回ほどの連載で、全55回も書いたが、もともとジェンダー視点を絡めた内容になっている。いけばな界的にはきわどい内容もあって、編集長はだいぶ困っていたと推測するが、一度も止められることなく、書かせてくれた。感謝している。
ただ、1回約1400字の制約があった。読み安いという利点があり、新聞連載としてはよかったものの、書く側としてはどうしても不満が残る。また、バックナンバーの入手が困難な新聞でもある。で、これを下敷きにして、今度は読みにくい長いものを書こうというわけである。申し訳ないが、お付き合いをお願いしたいのである。
付録
『Lunami Jounal』1985.3月-4月 37号 (GALLERY LUNAMI発行)より

"女たちによる感性のモザイク・111"展を企画して
三頭谷鷹史
現代の美術が見失ったもの、その中には、私たちにとってどうしても必要な何か、掘り返しておかねばならない課題が多くあるのではないか。そんな思いから、私は昨年2つの展覧会を企画した。その1つが「もうひとつの美術から」という展覧会である。(主催:ギャラリー・ウェストベス 名古屋市 7/16~8/4) 生活から掛け離れた美術ではなく、生活の中で想像力を生かそうとしている3人の作家を選び、生活と美術の接点から私たちの現在を照らし出そうとしたのである。また、さまざまな分野で活動している女性111人に参加してもらい、「女たちによる感性のモザイク・111」展を企画・開催した。(主催:トムギャラリー 豊橋市 12/13~12/23)
この2つの企画では、現代化の中で拡大再生産される"人間の病”に関わる課題を提示したかったし、私にとって2つの企画は密接につながっている。ただ、今回は、後者の女性展について述べさせていただきたい。それにしても、この展覧会は全体に流動的で、企画側にとって予測がつきにくい展覧会であった、その上、女性だけの展覧会という点で、よけいな誤解をまねきやすい要素もあっただろう。もし言葉によって伝えられる部分があるのなら、できる限りの説明をしておきたいと思う。
今回の展覧会にはさまざまな分野から参加をしてもらった。具体的には、美術、書、染織、手芸、生花、陶、人形、デザイン、竹細工、詩、ビデオ。そして、紙粘土?、デコレーション?、瓶絵?、点字デザイン?など。?と記したのは分野がよくわからないからである。無理をすれば既成の分野に入れられないこともないが、どうも入れにくい、そんな作品である。また、美術の方は、いわゆる現代美術から具象絵画・日本画を含む出品であった。参加者各1点で、111点。それぞれ80㎝×80㎝(立体は×80㎝)の枠内というきつい制限があり、参加者にとって強引な企画であったと思う。ともかく、さまざまな分野からの参加者111人に1つの画廊空間を埋めてもらったわけである。
この展覧会を理解してもらうために強調しておかねばならないことは、女たちの歴史的な登場である。家庭内における、社会における、さらには、不明瞭ながらも感性における彼女らの登場である。"女たちの登場”をどう認識するかによって、私たちは多くを得るだろうし、多くを失うことになるだろう。1960年代の後半から1970年代前半にかけてのウーマンリブの波が、目覚めた女たちによる前衛的な傾向をもっていたとすれば、今日のそれは大衆的であり、捕らえがたいほど多様である。目覚めた女たち、目覚めていない女たち、そして男たちにとっても避けられない課題になっているように思える。家事の役割分担や離婚問題から、経済的自立や社会的ポストまで。さらに、西ドイツの緑の人々に見られる女性の比重。グリーンハム・カマン英空軍基地での「ウーマンズ・ピース・キャンプ」の非暴力主義抗議行動など。場合によっては男たちを排除し、彼女たちは前へ進む。
美術領域ではどうだろうか。残念ながら私には確かな立証ができない。情報がスムーズに流れていないこともあるが、まとまった女性美術家の動きが少ないのかもしれない。それでも海外の動向のいくらかは伝わってきたし、東京方面での女性展の動きをその参加者から聞きおよんだ。ただ、私にとっては、1982年に開催された「WOMEN'S ART NOW」(栄セントラルパーク11/27~12/2 名古屋市博物館12/14~12/19)が今回の企画に至る直接のきっかけになっている。
女性現代美術作家14人による自主展であり、この展覧会のシンポジウムにパネラーとして参加し、多くを知ることとなった。また、シンポジウムの後、二次会のような席で、ある参加者が語った言葉を今も覚えている。彼女によれば、女性が4~5人程度までなら集まって話し合うこともあるが、それ以上の人数でまとまった話をする機会などこれまでなかったそうである。プライベートな会話はあるが、共同討議の経験がなかったということである。同席していた女性たちもほぼ同意見であった。創作活動に共同討議(あるいは共同作業)が直接結びつくわけではないが、プラスになる可能性も否定できない。まして美術を社会の中で成立させている背後には、たとえば展覧会を組織するための共同討議を含め、公式・非公式にさまざまな討議・作業がなされている。その大半を男たちが担っているはずである。
私はこの女性展に協力の形で参加し、多くを得た。今度は私の企画に協力をしてほしいと彼女らに持ちかけたのが、今回の女性展の出発である。「WOMEN'S」というグループとして活動を継続していた女性美術家4人、その他にも協力を依頼し、男性1人を含む12人に企画協力者として参加してもらった。展覧会までの準備期間は約1年。この間、私の原案を定期的なミーティングの場で討議・修正していきながら、実務的な作業も同時に進めていったのである。
ミーティングで第一に問題になったのは、企画者が男であること、ようするに私が男であることだ。このことはある程度予測していたが、展覧会が実際に始まってからも新聞・テレビ・政党機関紙のインタビューなどで答えねばならないはめになり、いささか閉口した。企画協力者には私への個人的信頼で了解してもらいつつ、展覧会への呼びかけ文で「一般に女性問題として語られがちなこの主題が、事実上は男性問題であること」や「男の自覚の遅れ」を強調したのである。しかし、これでパーフェクトに納得できる問題でないことも確かである。私は単純に"女の味方"になるつもりはないし、なれるものでもない。私自身の関心は現代の"人間の病"にあるのであり、女と男の関係にはその病のもっとも濃密な陰影が内包されていると理解している。そして、病からの解放の糸口は男社会のシステムだけでは見つからないという判断と、女たちの参加が世界を変えるだろうという予感の中で、まず女たちとの相互協力の可能性をさぐってみようと思ったのである。あるいは、未来をいち早く見てみたいという衝動が"女たちの登場"に反応したのかもしれない。
第二の問題点は参加者数である。さまざまな分野から参加してほしいという考えは全員が賛同した。各界の中枢に適当な人材を送り込んでいる男たちとはちがい、女たちの表現活動の現場はデコボコの状態である。伝統・慣習・制度のままに寸断されている。彼女らの表現の現在を知るには、より広い分野からの参加が望ましかった。そして、初め100人という案を出したが、協力者の間では、この数の参加を危ぶむ声が圧倒的であった。無理のないことだとは思う。ほとんどの企画協力者が名古屋の現代美術界に属しているといってもよく、名古屋地方における女性美術家の層の薄さをよく知っているからだ。それに、他分野からの参加は未知数である。しかし、この数は必要であった。50人程度までであったら、直接交流のある仲間たち、悪くすれば現代美術村の住人たちだけのグループ展に終わってしまう。寸断され、閉塞した美術村の壁を破れないだろう。ここで100人を数量ではなく質的な必要と考え、おし進めることにした。個人資格による自由な参加を原則に、さまざまな分野、さまざまな立場からの参加を呼びかけねばならない。さらに中部圏だけではなく、他の地方からも。
実際、この参加呼びかけがもっとも困難な作業であったが、幸いにして、1982年の女性展が有利な条件をつくってくれた。その女性展への遠方からの参加者が今回も参加。そればかりではなく、呼びかけの協力をしてくれたのである。前回の女性展の存在の重さをこの時に感じたし、歴史は継続しているのだとも思った。また、企画協力者に豊橋方面の人たちがいたことは、質・量の両面で、展覧会に大きく影響した。彼女らの呼びかけで実に多彩な分野から参加してもらえたからである。結局、予想を上回る参加希望があり、画廊スペースから見て111人が限界だろうということで打ち切ったのである。
その他、準備期間中に参加者にアンケートを試みたり、オリジナルポスターの制作を依頼したりした。また、これは失敗してしまったが、女たちの活動を知るための情報コーナーを設置しようと試みた。まだまだ語るべきことは多いが、最後に、展覧会の作品内容に関して気になっていることを述べさせてもらおう。
このような展覧会をやるのは初めてであり、私自身がまだとまどっている。反省もあり収穫もありといったところだ。特に意外な収穫という点では、分野がよくわからない作品がそうだろう。先に述べたように、既成分野に入れにくい作品がかなりあった。しかも、その中の多くが今回の展覧会をきっかけに生まれたものである。たとえば、日本画の作家が紙粘土作品を出品。瓶細工の工芸家が、普段の細工とはちがう、瓶絵というものを初めて試みる。生花の師匠が、私も説明できない「ある作品」をつくっている。どんな分野からでも参加可能とした条件が分野そのものを無化した例である。ある参加者は、新聞記者に「この作品は彫刻ですか、染織ですか」と聞かれ、「なぜそんなことを聞くのですか」と反論していた。彼女にとって無意味な質問であったわけである。
どうやら私たちは、彼女らに既成の見方をおしつけてはならないようだ。彼女ら"女たちの登場"は、予想しがたいところで世界を変えていくのかもれないからである。
(芸術評論家)
追記
40年前に書いた文章を読んでもらったわけだが、あの時代からどれほどの進化があったのだろうか。〈未来をいち早く見てみたいという衝動〉に駆られて行動した自分は、今、進化の停滞を前に無力感を味わっている。
しかし、この無力感は、底が浅い。まっしぐらに進化するなんてことは、やはり、ないのである。ジグザク、デコボコ、山あり谷ありは当たり前だし、山からいっきに転げ落ちることも稀ではない。
ともかく、今、やれることはやっておこう。あとのことは・・・
(花G 00| 序論 +G(ジェンダー)視点の自分史的背景 おわり)
