花女02| 明治のいけばな-様々な水脈
2025年6月10日/記
(敬称略)
いけばなの近代化には明確な道筋が見られない。明治国家が近代化に資する分野だとは思わなかったことも一因であろう。美術の場合、明治20年の東京美術学校の設立とか、明治40年の文展(文部省展覧会)の開始とか、国家主導の足跡がはっきりしているが、いけばなは、あくまで民間であり、雑草のように伸びていっただけなのである。
もちろん無関係というわけではない。国家の動き、時代の変遷、人心の変化は、いけばな界に大きな影響を与えるし、それらを受け入れ、あるいは巧みに利用しながら、逞しく生きていく。気がつけば、伝統的な男子専科からは予想もできなかった女性専科へと脱皮したのである。
一様な流れではなく、様々な水脈があって、それらが合流することで大きな流れになっていった。そして、ほぼ明治期の内に女性専科の文化構造が出来上がったと思われる。
🔴女学生のライフスタイル「授業+稽古事」
(初出「日本女性新聞」2015,3,1 第4回)

いけばな史の教科書と私が呼んでいるのが、工藤昌伸の『日本いけばな文化史』全5巻で、とりわけ近現代史の部分は貴重である。工藤は、いけばな界の重鎮という立場にありながらも、かつて前衛運動に献身した思いを忘れない人だった。どこにも忖度することなく、公平、客観的な見方を貫いて歴史を明らかにしようとしている。また、第3巻には「女性たちといけばな」の1章があり、この方面にも目を向けているのはさすがだと思う。
しかし、その工藤でさえ、女性の動きの把握はなかなか困難だったようだ。その原因の一つは、十分な資料や情報が入手できないということなのだろう。いけばな界の中枢にいた工藤ができなかったくらいだから、私には無理だ。少し暗い気持ちになるのだが、それでも輪郭だけは描いておきたい。
工藤は、西川一草亭の父親の門弟には商家の旦那衆が多かったという例などをあげた上で、明治30年代までは男性が中心ではないかと推測している。そういえば、『いけばな芸術』(注1)第5号(1950年)の座談会で、容眞流の大島一誠が興味深い発言をしている。昔は〈 今の反対で、男が7に女が3の割合 〉だったというのである。昔がいつなのかだが、前後の会話から推察すると明治30年代、早くても明治20年代後半ではないかと思われる。
もう一つ興味深いのは、二葉流堀口玉方の〈 花道家の職業化は明治の晩年から 〉という発言である。大阪に限定した話だが、花道家の多くが別に本業をもっていたらしい。東京でも、古流会頭の玉川理調について、明治41年の新聞(次々回で触れる)が、彼は高名な実業家であり、いけばなは余技だと報じている。いけばなの職業化は、まだマダラ状態だったようだ。
とはいえ、いけばな人口の増加、とくに女性の急増にともなって、いけばなで食べていける人が増えていったと推測できる。
女子教育を見ておこう。明治8年に国粋的女子教育を重視した跡見女学校が創立され、琴、茶、花なども学科に組み入れられた。生徒は華族や富豪の娘たちであり、いけばなに上流階級の流れがあることを伝えている。大水脈とはいい難いが、明治30年代に創刊される婦人雑誌にいけばななどをたしなむ令嬢が登場し、それを見て庶民があこがれる。その意味では無視できない水脈なのである。
公的女子教育の画期的な出来事が、明治32年の「高等女学校令」である。各府県に最低一校の設置が義務付けられ、明治41年には諸芸能を随意科におくことが認められたという(それ以前とする説もある)。すでに諸芸能がお稽古事として女性に相当広がっていたからこそ教育に取り入れられた、と見るべきである。
では女性専科の印象を与えるようになったのは、いつなのか。勅使河原蒼風の回想に次のエピソードがある。小学校卒業の時に先生が皆の将来について質問し、蒼風は〈 生花の先生になります 〉と答えた。すると皆がどっと笑い〈 先生も男の子の癖にというような調子でおかしがられた 〉〈 しばらくはこの事が私の心を苦しませていた 〉 (『鋏だこ』 注2)。蒼風の尋常小学校卒業は大正2年。もう女性専科のイメージが一般化していたかのようである。ちょっと早いという気もするが、蒼風にとっては深刻な事件であり、時期を間違えたとは考えにくい。
この頃の東京では役所や企業のサラリーマン、医師や弁護士などの専門職、すなわち「新中間層」が生まれていた。その娘さんたちの多くが高等女学校へ進学したであろう。東京府立第1高等女学校の大正2年の学外学習調査がある。それによると生徒の大半が稽古事をしていて、〈 その中身は、「琴」「長唄」「花」「茶」が圧倒的に 〉多く、ピアノやヴァイオリンなどは少数派だった (『女学校と女学生』 注3) 。
授業+稽古事という女学生のライフスタイルが、進学率の上昇とともに全国に広がっていった。女学生は文化を変える大水脈だったのかもしれない。
(注1)「明治大正 華壇回顧」『いけばな芸術』第5号、いけばな芸術社、1950年刊。
(注2)勅使河原蒼風『鋏だこ』生活社、1942年刊。
(注3)稲垣恭子『女学校と女学生』中公新書、2007年刊。
(図1)出典は、黒岩比佐子『明治のお嬢さま』角川書店、2008年刊。
🔴未亡人たちのいけばな
(初出『日本女性新聞』2015,3,15 第5回)

日露戦争が終結する明治38年、『女子の新職業』(注1)という本が出版された。緒言に〈近頃婦人社会で最も呼び声となっているのは女子の職業という声〉とある。中間層の女性に向けた職業案内書だが、女性の社会参加の進展があって出版されたのであろう。女性の職業として教員と看護婦などが先行していたが、この頃は造花・刺繍などの技芸職、役所・銀行の事務職、店員などに女性が参入し始めたのである。
良妻賢母主義に反発した平塚明(らいてう)らの『青鞜』が産声を上げたのは明治44年である。彼女たちのような「新しい女」の華々しさはないけれど、無名無数の女性が良妻賢母の枠をはみ出して職を求めた。いけばな界にも同様な動きがある。だが、その一部の人のきっかけは、不幸と苦難であった。それは未亡人のことだが、彼女たちも近代いけばなの水脈である。
昭和4年の『主婦之友』に「お花で成功した婦人の立志談」が掲載されている(図1)。3人の女性師範の回想なのだが、成功の喜びよりも、未亡人としての苦労を語る内容となっている。
日露戦争で夫を亡くし、子を育てるために花で身を立てるに至ったのが、東池坊の横山緑水である。明治37年12月のある日、彼女のところに麻布第1連隊から密使がやってきて、ひそかに営所に来いとの命令だった。駆けつけてみたら、夫の戦死の報である。しかも、〈 余りに沢山な死傷者のため、一時に発喪してはとの懸念から、しばらく秘密を守れとの内意だった 〉。ともかく家族を養っていかねばならないと、そこから彼女は懸命にいけばなを習い、職業いけばな人となった。
家元研究の西山松之助は、こう記している。〈 茶道裏千家流の長老鈴木宗保氏によれば、同流において女性門人が出入りするようになり、かつ女性の茶道師匠ができるようになったのは、日露戦争で戦争未亡人がこの道を志すようになったからだ 〉と(注2)。いけばな界にも当てはまりそうな話である。
未亡人とは違うが、類似した立場となったのが、池坊の本多美枝である。彼女は、没落した士族の宿命を背負い、それでも〈 亡びた本多の家名 〉の復興に努力した人のようである。
もともと兄が病弱だったらしく、早く亡くなることを予想してなのだろう、父は〈 昔風の考えで、私を「控え」ということにして、家に留め 〉、他家に嫁がせなかった。何より「家」が大事だったのだ。予想どおり兄は2人の幼児を残して死に、彼女は一家を支えるために花と茶の師範となった。生涯独身、なんとか貧乏のどん底を切り抜けた。そして、兄の遺児は女の子だったのか(雑誌記事では不明)、養子を迎えることで家名を守ったのである。また、のちに乃木大将夫人や宮家で稽古をする栄誉をえた。
この2人、残念ながら多くのことは分からない。3人目の平一鶯(たいら-いちおう 明治6~昭和20)は、少し資料がある。それをまじえて記しておこう。
平の実家は山形の裕福な庄屋で、仙台の第2師団の大尉と結婚した彼女は、何不自由ない生活をしていた。夫は日露戦争で負傷したものの無事帰還した。そこまではよかったが、その後夫は守備隊員として勤務していた朝鮮で病死し、彼女の人生は暗転する。明治40年のことであった。
残されたのは〈 生後2ヶ月にもならぬ嬰児の他に、12を頭に6人の子供 〉、それに老母。頼みの実家はこの頃衰退していて当てにならなかった。この時36歳の平は、いろいろ迷った末に、花で身を立てる決心をする。仙台で古遠州の花を学んでいて、すでに師範の免状をもっていたからである。すぐに看板を掲げたが、一家9人が食べていくのは厳しかった。幸い母校の女学校の花と茶の教授職をえて、ようやく生活が安定する。
しかし、平は満足しなかった。たまたま見た盛花投入れに感動し、その方面の名手を探し探して、大阪の小原雲心にたどり着く。明治45年、雲心に学んだのち仙台へ帰って稽古を再開する。興味深いのは次の回想である。〈 私は、花道に志して以来、前例のない一斉教授を考えておりましたが、婦人会に講習会を開いて、それを公開 〉したという。おそらく大正の始め頃のことで、文中の記事から大正6年以前と分かる。
一斉教授というと安達潮花が有名だが、昭和4年から始動したと『伝―安達潮花』(注3)にある。したがって、それよりずいぶん前に東北で開始されていたことになる。先駆性は明らかだが、その教授法の内容については詳細な検証が必要である。
平の一斉教授は〈 白熱的な歓迎を受け 〉、彼女は東北、北海道、関東、中部を駆け回り、小原流拡大に貢献する。そのことを証明しているのが『小原流史』(注4)である。その「支部のあゆみ」を見ると、実に多くの支部創設で彼女が重要な役割を果たしていたことが分かる。家元でなく、しかも女性という不利な条件をのりこえ、平一鶯は大きな足跡を残した。その足跡に見合うように、大きく再評価すべき人ではないか。
(注1)『女子の新職業』内外出版協会、1905年刊
(注2)『家元の研究』(西山松之助著作集1)吉川弘文館、1982年刊。(初版は校倉書房、1959年)
(注3)安達瞳子編『伝―安達潮花』花芸安達流、1987年刊。
(注4)『小原流史』上巻・下巻、財団法人小原流、1996年刊。
🔴『都新聞』が仕掛けた読者投票
(初出「日本女性新聞」2015,4,1 第6回)

明治、大正、昭和(戦前)と続いた新聞に『都新聞』というのがある。東京の地元紙の代表格であり、今日の『東京新聞』の前身である。文化・芸能に力を入れていて、記者として入社した中里介山が「大菩薩峠」の連載を開始したのもこの新聞である。
明治41年5月、その紙上に「生花名人投票」の予告がのった。紙面刷り込み用紙による読者投票で名人十傑を選ぶというもの。投票期間は1ヵ月。途中でなぜか「華道名人投票」に名が変わるが、中間発表が毎日あり、投票はいやでも盛り上がる。
各候補者はいずれも〈 本社附近へ事務所 〉を設けて懸命の運動をおこなった。流派の戦いではなく、個人の人気を競うので、同じ流派でも2つに割れ、3つに割れ、というか滅茶苦茶に割れた。〇〇派はみんな決まった徽章を付けて気勢を上げ、△△派は候補者自らが指揮をとり、××派は『都新聞』元主筆の黒岩涙香を参謀長にしたとか・・・。
順位はたえず変動して〈 競争は猛烈 〉、しかも投票締め切り間際に〈 10万票が舞い込み、これにて形勢一変 〉する。選挙運動さながらの熱い戦いが繰り広げられたのである。
その結果、24万6千票を獲得した玉川理調(古流)がダントツの1位となった。15万3千票の早出理秋(古流)が2位、14万9千票の石田是心軒(松月堂古流)が3位を獲得した。当時の状況を知る参考になるので続けて記しておこう。樹月庵一全(古遠州流)、福田理風(古流)、千友庵一鶴(遠州流)、相馬理國(古流)、大塚瓢楽庵(古流)、黒澤宗月(利休流)、松木晃雲(龍生派)、以上が十傑である。
もちろん「清き一票」といった投票ではない。なにしろ1ヵ月の投票総数が約2百万票、相当に強引な票集めがなければ出ない数である。組織的に動かない人は下位に甘んじるほかない。新聞社が仕掛けた、いわばお祭りであったが、いけばな界の全体像ではないにしても、一部の現実が生き生きと見えてきて面白い。とりわけ古流の勢いと活気に注目させられる。
前にも触れたとおり、古流が明治初期の衰退から復活を期して「花友会」を結成したのが明治31年(新聞記事には28年とあり、要検証)。それから10年で、ここまで復活したわけである。1位の玉川理調は、花友会の会長であり古流会頭だと記事にある。そして〈 玉川染工場の場主として有名なる実業家なり、花道はその余技 〉であると。しかし、私財をなげうって花道のために尽くすなどの貢献が得票に表れたと記者が分析している。
さて、以上は本題ではなく、本題の参考である。
私が注目したのは、主催者の『都新聞』が主に下町を地盤としていたことにある。いけばなには複数の水脈があり、前々回に上流階層と新中間層の流れに触れたが、ならば庶民層はどうなのか。それがこの新聞から読み取れないかということである。ちょっと保守的で頑固、そして江戸町人の芸能好きの伝統を守る人々。彼らこそ古流復活の基盤ではないかと思うのだが、今のところ実態解明にはほど遠い。
ただ、女性という視点から興味深い記事が目に入った。『都新聞』は花柳界とも縁が深く、この年、芸者紹介が延々と続いていたのである。次回は芸者といけばなの関りを探ってみよう。
(花女02|明治のいけばな おわり)
