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花女07 |夏目漱石の悲しい欠陥、精神病と家庭内暴力

2025年7月25日/記
 (敬称略)

 この漱石についての小論考は、いけばなとはほとんど無関係である。せいぜい西川一草亭との交流が関係するくらいだが、そこに的を絞って書いたわけではない。焦点は、女性の体験、見方、証言が表に出た時には、それまでの前提が音を立てて崩壊してしまうほどの力を発揮するという点にある。
 病が原因とはいえ、漱石の人格的欠陥は、残念であり、できれば知りたくなかった。しかし、事実を見過ごしたままの漱石像は、結局のところ歪んだ美化にすぎない。漱石の場合、人格者としても巨人ゆえに、より見過ごすことができない、悲しい欠陥なのである。


🔴妻から見た夫 その異常と恐怖

(初出「日本女性新聞」2016/3/1 第20回)

(図1)漱石と鏡子の見合い写真 明治29年結婚 漱石29歳 鏡子19歳

 女性に越境して女の側からいけばなを観察する。もちろん私は男だから本籍男で現住所は女という不安定な立場となる。その不安定さがかえって頭を自由にしてくれるので、あえてこの方法でこの連載コラムを書いている。そして、そうした頭で眺めると、鮮明さを増して見えてくる光景がある。夏目漱石(1867~1916)宅の光景である。
 ある日、子猫が家に舞い込んで、そこから漱石の出世作「吾輩は猫である」が生まれた、そんな楽しい話ならよいのだが、そうではない。見えてきたのは、漱石の家庭内暴力なのである。

 それにしても偉大な文学者として知られ、人格者としても評価の高い漱石が暴力とは、いったいどういうことなのか。急いで断っておきたいが、私は漱石を専門的に研究しているわけではない。ただ漱石作品が好きだし、わりと読んでいる方なので、それなりに知っているつもりでいた。ある本を読むまでは・・・。それが漱石の妻である夏目鏡子(1877~1963)の『漱石の思い出』(注1)という本だ。厳密に言うと鏡子が思い出を語り、それを漱石の弟子で、長女筆子の夫となった松岡譲が記録し、まとめた本である。

 大正4年に漱石の京都旅行がある。この旅行で文人花の西川一草亭と交遊し、漱石の「牡丹剪つて一草亭を待つ日哉」の一句が生まれている。実は旅行を勧めたのは鏡子だった。当時、彼女は漱石に精神病の発作(注2)が起きる気配を感じ、発作を抑えるため、親交のあった津田青楓に旅行に誘い出すよう頼んだのである。それで青楓の兄である一草亭も漱石の世話をすることになったわけだ。

 漱石の心の病については比較的よく知られているし、私もずいぶん前から知っていた。ただ、それも『漱石の思い出』が元になって広まったようだ。初出は雑誌『改造』昭和2(1927)年から翌年にかけての連載で、じきに本(改造社版)になった。妻が見た漱石の異常な言動が具体的に書かれていて、その奇妙さに驚かされる。
 その1つが、漱石宅の向かいにあった下宿屋の2階に住んでいた学生に対する言動である。学生の友達との会話が〈 夏目の異常な耳には、穏やかならぬ自分の噂や陰口に響く 〉。そして〈 高いところから始終こちらの方をのぞいて監視している 〉〈 あれは姿こそ学生だが、しかし実際は自分をつけている探偵 〉だという。そればかりか漱石は大声を出して〈 探偵君、今日のお出かけは何時だよ 〉などと挑発したというのである。それも毎朝である( 注3)。この異常さを、漱石は自覚していたのだろうか。
 ある日、鏡子が書斎に入ってみると、机の上に、次のような文が書かれた半紙があった。〈 予の周囲のものことごとく皆狂人なり。それがため予もまた狂人のまねをせざるべからず。ゆえに周囲の狂人の全快をまって、予も佯狂をやめるもおそからず 〉。佯狂(ようきょう)とは、狂人のふりをすることである。どうやら異常な言動への自覚はあるが、別の論理で合理化しているようだ。この半紙は漱石がいつの間にか捨てたらしく、残っていない。

 漱石が抱えた狂気は、本人を苦しめたし家族を困惑させたに違いないが、文豪漱石の名を汚す決定的な要素にはならなかったのではないか。芸術的狂気との親和性が緩衝となるからだ。しかし、暴力となるとそうはいかない。明確な被害者がいるわけだし、少なくとも人格者漱石のイメージを大きく傷つける可能性があった。
 ところが、鏡子の証言に対して、弟子たちは漱石の発作を直接には見ていないらしく、一部の弟子たちが強く反発する。漱石先生を守ろうとし、結果、鏡子は悪妻ということになった。果たして鏡子は悪妻だったのか。なるほど鏡子は、大雑把で、がむしゃらで、尊大、豪胆だったらしい。ただ、それだからこそ漱石と暮らしていけたと、長女の筆子は見ていた。〈 普通の女の人だったら早々と逃げ出すか、気が変になるか、自らの命を絶っていた 〉と、筆子は母鏡子を庇う(注4)。いったい漱石の家庭はどうなっていたのか。

(注1)夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思い出』文春文庫、1994年刊。
(注2)漱石の精神疾患については、鬱病説や統合失調症説などがある。本人が生きていた時に、専門医による診察で診断がなされたが、当時の医学の水準はどうだったのかという問題がある。また、当然ながら死後は、本人に対する直接的な診察ができないわけだから、病気の特定は相当に難しいはずである。
(注3)発作が起きた時期の「毎日」という意味だと思われる。
(注4)半藤末利子『漱石の長襦袢』文春文庫、2012年刊。(初出は「中根家の四姉妹」『文芸春秋』2004年12月臨時増刊号特別版)。
(図1)出典 松岡譲編『漱石写真帖』第一書房、1928年刊。


🔴妻と子供への激しい暴力

(初出「日本女性新聞」2016/3/15 第21回)

(図1) 漱石筆《あかざと黒猫図》大正3年、紙本墨画

 少し道草をさせてもらう。『漱石の思い出』(注1)を読んで、漱石の小説や絵の一部をアウトサイダーアート(≒アールブリュット、注2)的な見方で捉え直してみたくなった。とくに絵はそうだ。鏡子夫人の言う〈 頭が悪く 〉なった時、すなわち精神病の発作が起きた時、漱石は盛んに絵を描いた。山水画風の絵などが現存しているが、それよりも前に描かれたという絵が興味深い。〈 風景にしても人物にしても現実とは飛びはなれた浮世ばなれ 〉したものばかりで、〈 妙ちくりんな絵 〉だったという。
 それらを漱石の子供たちがもらい、部屋に飾っていた。人にやってはいけないとの条件付きだったのだが、親戚の人や子供たちが絵を見かけて〈 これはおもしろい、ぜひ1枚ください 〉とせがみ、いつの間にか少し減ってしまった。漱石が気づいて激怒し、残っていた絵はすべてクズカゴへ捨てたという。この当時の絵は相当に稚拙だったはずだが、興味深いのである。

 しかし、家庭内暴力となると痛々しい。精神病の発作に伴うものであろうし、本人も苦しかったらしく、ものや人に当たった。ある夜中、書斎でドタン、バタンとえらい騒ぎ。翌朝、漱石が出かけた後で鏡子夫人が書斎に入ってみるとランプは粉微塵に割れ、火鉢の灰は畳一面に降っている。掃除をしておくと〈 帰って来てまたけろりとして 〉書斎に入っている。
 暴力の犠牲者は鏡子夫人と子供たち、女中さんたちである。外部の人にはそうした面をあまり見せなかったらしく、漱石の弟子たちさえ十分には認識していなかった。
 発作には前兆があって、まるで酒に酔っぱらったように顔が真っ赤に上気する。すると翌朝辺りが危ないのである。〈 煙草(たばこ)がないといっていきなり莨盆(たばこぼん)を 〉〈 時計がとまってるといっては懐中時計を 〉放りつける。ある時は女中さんのミスにいきり立ち〈 1人を廊下から下へ突き落とし、1人が門のところへ出たのを追うて、門前の路の上で人が見てるところでポカポカなぐった 〉。女中さんは怒って、2人とも辞めてしまった。

 鏡子夫人がもっとも多く被害を受けているはずだが、自分への虐待をあからさまに語ることは控えたようである。しかし長女筆子の娘である半藤末利子(近現代史の著作で知られる半藤一利の妻)が筆子から聞いた話として次のように記している。〈 筆子自身もよく殴られたが、おおかた髪でも掴まれて引き擦り廻されたのか、髪をふり乱して目を真赤に泣き腫らして書斎から走り出てくる鏡子を、筆子はよく見かけた 〉〈 あんなに恐いなら、そしてあんなにお母様をひどい目に会わせるなら、いっそお父様なんか死んでしまった方がよい 〉と何度も思ったという(注3)。
 また、まだ赤ん坊だった次女の恒子を〈 漱石が品物のようにひっ掴んで庭に抛り投げ 〉たのを鏡子が見かけて、夢中で庭に跳び下りて拾い上げたという話も伝わっている(注4)。

 初めて『漱石の思い出』を読んだ時、これは本当のことなのかと疑ったが、その文章には悪意が感じられず、思い出を冷静に語っているという印象を受けた。また、さらに次男伸六の『父・夏目漱石』(注5)を読んで、暴力は事実だろうという気持ちになった。姉たちから、お父様が一番病気のいい時に育ったと言われる伸六でさえ、幼稚園児の頃、ささいなことが原因で〈 父の一撃を割れるように頭にくらって 〉地面に倒れた。〈 その私を、父は下駄ばきのままで踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して、私の全身へ打ちおろす 〉という虐待を経験している。
 漱石の子供は女5人に男2人(五女は早世)、漱石による暴力を直に受けたかどうかで、漱石に対する感情はずいぶん違っている。三女、四女には悪感情がないようなのだ。
 とはいえ、以上のような家庭内暴力があったとすれば、漱石の人格はあまりにも惨めである。

(注1)前掲書『漱石の思い出』。
(注2)アウトサイダーアート≒アールブリュット、私流の使い方であり、「=」ではないことに注意。画家ジャン-デュビュッフェが提起したフランス語「Art Brut」という概念を、再定義したのが英語「Outsider Art」である。日本ではアウトサイダーアートが先行移植されて広まったが、のちにアールブリュットの使用が増えて、今ではそちらが優勢となっている。定義がかなり違うので、本来は両者を比較検証して使われる必要があるが、なんとなく同じ意味を担った用語として使われているのが現実である。自著『宿命の画天使たち 山下清・沼祐一・他』美学出版、2008年刊の中で少しばかり論じているので参照されたい。
(注3)半藤末利子「解説」前掲書『漱石の思い出』所収。
(注4)前掲書『漱石の長襦袢』。
(注5)夏目伸六『父・夏目漱石』文春文庫、1991年刊。
(図1)出典 『夏目漱石遺墨集第4巻』求龍堂、1980年刊。


🔴非情の欠陥を超えて

(初出「日本女性新聞」2016/4/1 第22回)

(図1)津田青楓による漱石《死に顔スケッチ》大正5年の葬儀の朝に写生

 漱石が人格者であったことは確かである。とりわけ弟子たち、といっても漱石を慕って勝手に漱石宅に集まった連中のことだが、漱石は彼らに大きな精神的刺激を与えた。そして面倒見もよかった。津田青楓もその1人であり、やはり漱石から教わったり世話になったりしている。絵の方は逆で、青楓が教師役を務めた。
 鏡子夫人によると〈 あのぬうっとしておられる無口なところ 〉などが漱石に好かれたらしい(注1)。青楓がまだ貧しかった頃、油絵を最初に買ってくれたのは漱石だった。それだけでなく知人に青楓の作品を買ってやってくれと頼んだりもしている。ずっとのちにそのことを知って青楓は涙を流した。鏡子夫人が見た漱石はおそろしく几帳面で、約束などは厳守し、相手にもそれを求めた。しかし涙もろいタチで、人の気の毒な話などにはすぐに同情し、頼まれれば欲得を離れて骨折ったという。

 権力にはなびかない。小説『虞美人草』を書いている最中、総理大臣の西園寺公望が主催する有名文士を招く会があって漱石も招待されたが、漱石はハガキに一句書いて出席を断った。〈 ほととぎす厠(かわや)半ばに出かねたり 〉である。糞の途中=小説の途中ということなのだろう、西園寺も唖然としたのではないか。
 こんなこともあった。文部省が文学博士の学位を授与すると通告、漱石は辞退した。すると辞退できないと再通告してきたので、もらう義務などないと反論し、ついでに博士制度の弊害を指摘した。結局物別れ。漱石の頑固な一面がうかがえる事件である。

 すでに記したとおり、悲しいのは家族との関係である。病気が出た時の激しい暴力は長女や次女を恐怖させ、トラウマとなった。その後は、正常の時の漱石から優しくされても親愛の情をもつことができなかったという。ただ最大の被害者であるはずの鏡子夫人は違った。
 彼女は言う、〈 頭さえ悪くない時には、ずいぶんの子煩悩で、子供たちが何をしようと、にこにこ笑って見ているか、自分も相手になって遊ぶ 〉。子供たちが大騒ぎしても〈 いっこう気にもかからないらしく本をよんだりしていた 〉(注2)と。病気の時と真反対であり、ここには優しい夫、優しい父親としての漱石がいる。これが漱石、本来の漱石だと鏡子夫人は固く信じていた。だから医師から精神病と知らされ、一生なおりきることはないと告げられた時、〈 ようやく腹がきまりました。病気なら病気ときまってみれば、その覚悟で安心して行ける 〉(注3)と。そして添い遂げたのである。

 漱石没後10年余りして「漱石の思い出」を公表するが、精神病や暴力にも触れたことで、本当の事情を知らない弟子などから「天下の悪妻」のレッテルを貼られた。しかし、孫の半藤末利子によると、末利子自身も祖母の鏡子から漱石の悪口を聞いたことがないし、あれほど悪妻呼ばわりされても自己弁護や反論をしなかったという。そして鏡子からこんな言葉を聞きとった。〈 いろんな男の人をみてきたけど、あたしゃお父様が一番いいねぇ 〉(注4)。

 文豪、人格者、清廉潔白、そのどれもが漱石の真実である。しかし、そこにはもう一つの真実がトゲのように突き刺さっていた。それを知ったことで私たちの漱石像は歪むかもしれない。ならば知らなかった方がよかったのだろうか・・・。否である。負の漱石を知ることで、漱石像は歪むのではなく、深まるのである。非情の欠陥を抱えた漱石を受け入れた鏡子夫人の愛がそれを教えてくれる。負を超える深い理解こそが必要なのである。

(注1,2,3))前掲書『漱石の思い出』。
(注4)半藤末利子「解説」前掲書『漱石の思い出』所収。
(図1)出典 前掲書『漱石写真帖』。


(花女07 |夏目漱石の悲しい欠陥、精神病と家庭内暴力 おわり)


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