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花10| 古典という観念のオーラ ③ 前衛によって蘇る古典

2025年12月24日/記
(敬称省略)

 前回指摘したように、当時のアヴァンギャルドだった池坊二代専好の花は、彼の死後25年辺りで古典の殿堂に入った。その美しい氷結の花は、弟子たちに引き継がれ、長く、いけばなの支配的様式として君臨したようである。だが、いつまでも続いたわけではなく、時代が変われば、その座を次の様式に譲ることになる。座を降りて存在感を失うのである。そうした立花に再びスポットライトを当てたのは、ずっとのちの時代に勃興した、前衛いけばな運動であった。

立花様式の衰退と再評価

 立花様式は、二代専好の活躍で公家、僧侶、武士、そして町人にも浸透していった。山根有三によると、立花は〈 元禄年間(1688~1704)までその様式的生命力を保ち続けた 〉(注1)という。立花は江戸時代前期を代表するいけばな様式であったと見てよいのである。当然ながら、当時のいけばなのすべてではない。立花の横には茶花の大河があったし、底流には簡素な花があった。そして、江戸後期になると生花(せいか)様式が登場して、一世を風靡した。そうなると立花様式は傍流となり、存在感を失っていったようである。多くのいけばな史専門家が江戸後期における立花の衰退を明言している。
 しかし、古典は時々再評価されて時代の表舞台に浮上することがある。それが立花にもあった。なんと太平洋戦争後の時代、1950年代の前衛いけばな運動真っ盛りの頃にである。

 『芸術新潮』1954年3月号掲載の座談会「現代生花」が立花再評価の空気をよく伝えている。出席者は勅使河原蒼風(草月流)、小原豊雲(小原流)、永井華了(池坊)、柿谷理閑(古流)、そして青山二郎(司会)。この青山は、装丁家、美術評論家、数寄者、骨董収集などで知られる青山二郎(1901~79)だと思われる。

 興味深いのは、立花(記事では「立華」と表記)の話題が出た時に、青山が〈 その立花というのは何です 〉と聞いたことである。座談会冒頭で〈 僕はお花についてあまり知らないんだが 〉と断ってはいたが、立花成立の時期について〈 それは何時・・・? 〉といった調子だから、本当に知らなかったのだろう。あとで〈 絵で見たことはある 〉と語っているが、本当に見たのかどうか、それに〈 立花というのは世間じゃ誰も知らないよ 〉と強がっていた。当時50歳代で、小林秀雄たちと交流する趣味人である。立花のことは、世間が知らなくても青山くらいは知っていてもおかしくないのだが、それほど立花は埋もれた存在だったのだろうか、要検証である。

 立花再評価の急先鋒は、意外なことに、勅使河原蒼風(1900~79)であった。当時の蒼風は、造形性を強めた新しいいけばなを次々と発表(図1)、世間の常識としているいけばなから大きく逸脱し、〈 これがいけばなだろうか 〉といった疑念や衝撃を与えた。本人は「前衛」という言葉を好まなかったが、そうはいっても前衛いけばなを代表する存在であり、この頃には新聞雑誌に頻繁に登場し、彼の言動はいけばな界を超えて大きな影響を与えるようになっていた。その蒼風が立花の〈 あの精神をわれわれは今日生かしているんだ 〉として、立花再評価を語り、座談会の議論をリードしたのである。そして次のように語った。

◆〈 立花によって人生観とか個性とか理想とかいうものが表現される。それも厚味のある表現だ。厚味のあるということは、その人の感じが非常に強まって行くことで、ポンと挿した花よりもずっと純粋なものになっているんだ。立花の構成というのは実に人工的で思想的で、自然には見られないようなものをつくっているんだ 〉。

(図1) 勅使河原蒼風《汽関車》1951年

(注1)山根有三「立花様式の完成」( 『花道史研究』中央公論美術出版、19968年刊)。

古典、長い時を隔てての影響

 蒼風の発言は、立花への漠とした回帰ではなく、新しい時代における再評価であった。蒼風の立花への関心は、1933(昭和8)年頃の重森三玲との交流にまで遡る。三玲の学識を吸収し、自己流に解釈し、膨らませて、自己の創作に適用したのが蒼風だったと思われる。
 もう一つ、立花ということではないが、戦後の蒼風に大きな影響を与えた事柄がある。それは、1952年のインターナショナル・フラワー・ショーへの招待であった。これが初渡米だったが、彼はアメリカのいけばな熱に驚かされる。最初の記者会見にはニューヨーク・タイムズなどの新聞や雑誌の記者が50名、その後もラジオやテレビが全米に放送するといったふうで、滞在中は講習会、講演、デモンストレーションに忙殺された。いけばなが海外でここまで関心をもたれているとは、本人はもちろん、国内の誰も予測していなかったのである。
 いけばなは世界に通用するし、いけばなの歴史の中には〈 厚みのある表現 〉が可能な立花があった。そうしたいけばなだからこそ、その最先端に、美術とは異なる、いけばな発の現代的表現の可能性が見えてくる。おそらくそんな思いを抱えながら、この座談会の頃には世界に発信する準備をしていた。だから確信をもって語る。〈 過去において非常に技巧を凝らして、植物を一つの彫刻的な造形にこしらえたという、日本人の独得な発見というか、そういうことを解釈し、再発見して行けば、世界に誇る仕事 〉になると。〈 造形の世界でこのくらい活発に活躍しているものはほかにないのだ。絵画だって、彫刻だって、昔の通り西洋の真似だよ 〉と豪語する。

 この時点では大言壮語であり、いけばなごときが何を言うか、といった空気が日本にはあったと思われる。ところが海外はこの空気を意に介さず、蒼風を国際舞台へと引き上げていく。座談会翌年の1955年にはパリ市主催によるバガテル宮殿での個展、これが蒼風の現代作家として初の海外デビューであった。1957年にアンフォルメルの主唱者であるミシェル・タピエが蒼風を訪れ、1959年からタピエがプロデュースした海外連続個展などが実現する。その後はさらに重要な国際展への出品などの活躍によって世界的な評価をえていく。蒼風の全体像については自著『前衛いけばなの時代』に詳しく書いているので、そちらを読んでいただきたい。
 ここで注目したいのは、立花再評価のあり方である。蒼風の場合、すでに述べたように、立花への漠とした回帰ではなく、新しい時代の表現に関わる再評価であった。そして興味深いのは、〈 私の一番尊敬しているのは大住院あたりだ 〉と明言していることだ。新時代の表現にとっての古典は、大住院以信の花なのである。なぜ専好でなく、大住院なのか。立花の本家である池坊の永井華了でさえ、立花の説明を求められて、〈 立花は桃山時代から一層盛んになって、大住院なんか出たし 〉と語っている。大住院が池坊から排除された歴史を知っていると不思議な気がする。

 工藤昌伸によると、大住院の作品は海外においても評価が高いという。大住院の立花絵図が幕末から明治初年にかけて海外流出し、第二次世界大戦後の書籍にも一部が掲載された。そして1980年代の中頃、オランダのフラワー・デザイナーにもその影響が及んだというのである。日本のフラワー・デザイナーたちがオランダを訪れた時に、左右に動く奔放な曲線によるアレンジメントを多く見かけたので、その発想について尋ねたそうだ。すると大住院以信の影響だと答えたという(注2)。300年もの時を隔てての影響というわけだが、伝承とは異なる古典というものの存在感が見えてくる。もちろん大住院以信の再評価は、立花全体の再評価の流れの中の一コマであることを忘れてはならない。
 殿堂入りの、凍り付いた古典だけを見るのではなく、その手前の活気ある創造の場を想起する必要がある。このことは繰り返して強調しておこう。立花様式に関して言えば、初代専好、二代専好、大住院以信らが活躍した時代全体の空気が重要なのである。また、古典再評価には、再評価する時代の側に活気が満ちていることが必要であった。これが前衛いけばなの時代に立花が復活した背景である。立花は前衛いけばなによって蘇ったのである。

(注2)工藤昌伸『日本いけばな文化史2』同朋舎出版、1993年刊。

「場」の復活

 私は活気ある創造の「場」を重視する。創造の結果として生まれるモノ(作品)だけに執着してはならないからだ。鑑賞者、作者にとっても、モノは創造行為を伝える仮象に過ぎない。創造的活気に満ちた「場」は、創造行為を後押しし、結果であるモノを評価し、創造のさらなる持続を援護する。
 そのよい例が先ほどの前衛時代の蒼風である。門弟たちの家元制度ならではの追随は、模倣的前衛作品の氾濫となり、問題はあるにしても、「いけばな界異変」としてマスメディアの注目するところとなった。結果、異変の首謀者として蒼風は時代の寵児となった。それだけでは一過性の話題に終わったのだが、様々な人が集う磁場が成立し、蒼風の実験的作品のクオリティを高めることに貢献した。
 かつての盟友である重森三玲の忖度のない批評がそうだし、岡本太郎らの新しい考え方も蒼風に刺激を与えた。息子世代の「新世代集団」の若者たちは、熱い眼差しを向けて作品評価の声を上げた。実験者に、この道が正しいとの確信を与えたのは、こうした人たちなのである。
 中川幸夫にしてもそうだ。重森三玲の評価がなにより重要で、いけばな人としての自立を促し、旅立たせた。なるほど孤高の道を歩んだことは確かであるが、孤立していたわけではない。ライバルである伴侶半田唄子の存在は大きく、彼に対して優しくもあり、厳しくもあった。また、重森弘淹らが雑誌『いけばな批評』を立ち上げ、中川を応援し、いけばな界に彼の評判を定着させた。次世代の人たちは、中川を目標とし、あるいは対抗することで、前衛時代ほどの熱気はないにしても、いけばな界に活気をもたらした。1980年代まで、創造の「場」は持続していたのである。

 残念ながら、今は、こうした「場」は崩れてしまっている。その事実は認めねばならないが、これからはどうなのか。私は、「場」の復活はアリだと信じている。時代状況などが絡むので、その時期は分からないし、当然「場」の形も大きく変わるだろう。否、変わることで復活の可能性が出てくる。そして、その兆しがあるなら、老体にむち打って、参加したいと思っている。老体にはちょっとキツそうだが。

🔵追記

 伝承について一言。伝承によって伝えられいる古典花の再現には、精神と技術の高度な集積が必要とされる。現在のいけばな界では、この方面での専門家の活動が、外部からは見えないようになっているのではないか。これは今回の古典花議論以前の問題である。まずは力ある専門家にもっと光を当て、世に出そう、ということだ。
 また、流派に守られてきたからこそ伝承された、という一面がある。が、今後は流派の衰退、場合によっては消滅もあり、それが原因で継承不全が起きるかもしれない。そうであれば、なおさら、伝承花を流派の個別世界に閉じこめていてはだめではないか。みんなの花、みんなの古典花という意識に転換する必要がある。
 


(花10| 古典という観念のオーラ ③ おわり)


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