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花女09| 前衛時代は、女性躍進の最盛期でもあった

2025年8月15日/記 
(敬称略)

 戦争という悲劇が時代を動かす。あってはならない、繰り返してはならないことだが、非情の時代が女性に変革の機会を与えたことも事実だと思われる。戦争は一時的に日本の伝統的な家父長主義を緩めた。この国は、女性たちに、「家庭内に」留まれではなく、「家を出て」活動しろと、手のひらを返したような命令を発したのである。
 今回の3小論は、戦時下の活動でエネルギーを蓄積した女性たちの戦後いけばなを語り、当時の前衛いけばな運動との幸運な一致を描写する。ただし、楽観的な話ではない。いけばなの前衛運動は、1950年代の前半期、日本的体質をたっぷり抱えたまま突っ走り、挫折したのである。そして、前衛運動の失速とともに、多くの女性いけばな人も家父長主義の家元制度に回帰していった。
 非情の時代をへて女性たちが獲得したもの、それを守り抜き、発展させるためには、女性個々のさらなる覚悟と努力が必要だったのである。
 
 戦後の前衛運動に誰よりも深く没入し、その挫折を乗り越えて、孤高の生き方を貫いたのが半田唄子である。従来は中川幸夫の妻という立場で語られてきたが、それは誤りである。ここでは自立した1人のいけばな人、前衛いけばな活動を代表する1人として語らせてもらおう。また、結果的に、前衛の中にも潜む男女の分断という問題に至るかもしれない。


🔴女性たちは戦時下で脱皮した

(初出「日本女性新聞」2016/7/15 第26回)

( 図1) 戦中の供出花器修祓式 札幌、1943年

 昭和1945(昭和20)年、日本の敗北によって戦争が終わった(注1)。8月15日は、いわゆる「終戦の日」であり、公式には「戦没者を追悼し平和を祈念する日」である。厳密な意味で終戦日をいつとするかについては諸説(降伏文書に調印した9月2日など)があるが、この日、国民は玉音放送によって日本の降伏を知らされたのである。無謀な、そして悲惨な戦争によって多くの人が死に、あちこちが焼け野原となった。この悲劇と、なぜここに至ったかについては、戦争を知らない世代であっても、たえず立ち戻って考え続けなければならないと思う。
 女性も哀れであった。男手を戦争で奪われたばかりか、戦死や戦病死で彼女たちの夫、息子、兄、弟などが次々と死んでいった。あげくに空襲で自分自身が逃げ惑うことになった。

 近代の戦争は、軍事力だけでなく、国のあらゆる力を動員する総力戦である。だから組織、思想、物資、あらゆるものが戦争のために統制されていく。いけばな分野では1941(昭和16)年に大政翼賛会の一環として「全日本華道協会」が発足した。戦地慰問、軍用機献納運動、戦勝祈願花展、戦死者遺骨への献花などもそうした流れの中にある。
 武器などを製造するための金属花器の供出も全国でおこなわれた。前にも触れた木村如光の『華に生きる』(注2)によると、札幌では1943年に2回あったという。札幌文化花道協会が花器を集めて神社で荘厳な修祓式(みそぎ)をおこない、2日間公開。青銅の大水盤、象嵌入りの美術瓶、古銅骨董の高級花器もあった。長年愛用した貴重な花器たちなのだろうが、しかし供出のためには花器を壊して袋に詰めねばならない。この時、金槌で叩き潰す役が木村で、〈 腕に必勝の念力を鼓舞し、目には溢れる涙で実行した 〉という。

 総力戦下の国内で男たちの不在を補ったのが女性たちだった。農業がそうだし、戦争下では農業人口の6割以上を女性が占めたという見方もある。農業以外はどうだろうか。女性の工場労働といえば貧しい農村の娘たちが働いた紡績などが一般的だったが、総力戦は女性を重工業や軍事産業にも動員することになった。都市部の女性も同様である。ここに矛盾が露呈する。というのは男たちの伝統的な女性観、そして政府の政策も家父長主義であり、「女は家庭内に」というのが基本であった。それが政府主導で外に引っ張り出すことになったわけである。総力戦は女性の力を必要としたのである。そして彼女たちは過酷な条件下で男以上の働き手となった。また「隣組」「町内会」「防空演習」「慰問袋作り」などの地道な社会活動も担うようになった。

 彼女たちが社会活動や各種の産業に進出したことは、結果として新しい時代へ飛躍する大きなきっかけになった。女性史の開拓者でもある歴史家の井上清はこう明言する、〈 歴史は、どんな反動の時期にも進歩をやめない 〉(『日本女性史』、注3)と。男たちは女性の力を認めないわけにはいかなくなったし、女性たちも自分の力に自信をもつに至ったのである。こうして戦後の日本には、戦争下で脱皮した新しい女性たちが登場してくることになる。
 いけばなの女性たちの戦後はどうだったのか。次回、戦後の早い時期に創刊された『いけばな芸術』誌を通してそれを探ってみよう。

(注1)太平洋戦争は第二次世界大戦の一局面として1941年に始まるが、1931年以降の満州事変、37年以降の日中戦争を含めた、いわゆる15年戦争と見るべきかもしれない。
(注2)木村如光『華に生きる』「華に生きる」刊行会、1958年刊。
(注3)井上清『新版 日本女性史』三一書房、1967年刊。(初出は1948年)
(図1)出典 前掲書『華に生きる』


🔴『いけばな芸術』誌登場の女流作家たち

(初出「日本女性新聞」2016/8/1 第27回)

『いけばな芸術』1951年4月号の特集「女流作家(東西10人集)」

 いけばなの女たちの戦後はどうだったのか。その問題に応える直接的な資料は見当たらない。が、戦後の早い時期に創刊された『いけばな芸術』誌を観察すると、女性たちの動きが見えてくる。
 戦後のいけばな前衛運動がもっとも盛んな時期に出版されたのが、月刊の批評誌『いけばな芸術』である。創刊は終戦の年から4年後の1949年12月。雑誌を主宰したのは、いけばな批評の先駆者、庭園研究でも知られる重森三玲である。

 三玲によれば、この雑誌は家元制度を擁護するものではなく、日本のいけばなを国際的に意義あるものとし、高い芸術性を推進するための公正なジャーナリズムを目指すのだという。事実、果敢な編集を実行し、当時の進歩的いけばな人に多大な影響を与えたのである。また、それゆえに寿命も短く、6年足らずで廃刊を余儀なくされた。なお、『いけばな芸術』と両輪のようになって前衛時代を創出したのが前衛集団「白東社」で、主宰する重森三玲が直接指導する中から中川幸夫や半田唄子らが育った(注1)。
 編集の実務を担ったのは三玲の二男である重森弘淹だった。創刊当時23歳。編集スタッフは弘淹を含めて男性3,4人だったと思われる。まあ、完全な男所帯である。編集顧問に15人余りの名が記されているが男性ばかりだ。

 この雑誌に「女性」を意識した思考はなかったのではないか。編集スタッフの野心は芸術一本やりであり、いけばなを芸術の高みに登らせることだった。しかし時代は戦後である。たとえ意識はしなくても公正なジャーナリズムを目指す雑誌が女性を避けては通れない。その一例が1951年4月号の特集「女流作家(東西10人集)」である。それぞれスナップ写真1枚に軽いタッチの人物紹介が添えられている。

 古流家元の「池田理英」、小原流の重鎮「工藤光園」、松風流家元の「押川如水」。この3名は、人々の注目を集めた文部省主催「日花展」の運営に参与したとあるから、当時のいけばな界の実力者なのであろう。そして小原流の「平光波」、彼女は平一鶯の二女である。未生流の「大市清芬」は女流花道界になくてはならぬ存在だと紹介されている。御室流の「勝村翠滴」は御室流のピカイチ。未生流中山文甫の門下「建部絹甫」は、男優りで女流酒豪ナンバーワンとの評判。嵯峨流の「清水弘甫」はザックバランな大阪伝法口調が人気とある。遠州流の「今西玉好」は大阪の男子と肩を並べる堂々たる社交ぶりで、小原豊雲、河村萬葉庵、安部豊武らと親交を結んだという。千家古儀の「鬼塚静月」は九州女軍を代表する存在であったらしい。
 その他、誌面には都合で掲載できなかったのが池坊の「石山文恵」、草月流の「小川青虹」「岡野月香」、安達式の「安達武子」の4人である。
 合計14人、それが公正なジャーナリズムを目指した雑誌が選んだ女性たちだった。当時どんな女性が存在感を示していたか、ひとつの目安を提供してくれる。もちろん他にも優れた人はいたであろうし、あくまで業界的な力、いけばなの力、人気などを総合しての選択だったと見た方がよい。

 『いけばな芸術』がまったく独自の目で人を選ぶのは、この2年後の特集「新鋭作家40人集」の誌面においてであった。誌面には戦後的特徴がくっきりと現れている。ご丁寧に読者投票まであって、ここから半田唄子や勅使河原霞などが浮上してくるのである。それについては次回。

(注1)『いけばな芸術』の成立や廃刊、「白東社」などについては、自著『前衛いけばなの時代』を参照していただきたい。なお、このブログで引用・参考とする『いけばな芸術』は、復刻刊行委員会による合本形式の全6巻版による。この復刻版は、既発行の残部を合本したものかもしれないし、記事内容にはまったく変更がないようなので、復刻版情報は無視させてもらう。復刻に関わった北條明直とは存命中に何度も会っているのに、詳細を聞き漏らしてしまった。


🔴前衛いけばな時代に、女性たちは躍り出た

 (初出「日本女性新聞」2016/8/15 第28回)

『いけばな芸術』1953年8月号の特集「新鋭作家40人集」

 前回語ったとおり、『いけばな芸術』誌に「女性」を意識した思考はなかったと思われる。しかし女性という課題を避けて通れないのが戦後という時代である。その一例が前回触れた「女流作家」特集だった。そしてその後の特集で注目されるのが1953年8月号の「新鋭作家40人集」(実数41人)である。たいへん力の入った特集で、新作1点に本人の写真と略歴を加えたものを20ページ。さらに重森三玲、水澤澄夫、重森弘淹が論評を書くなど、誌面の多くを割いた大特集であった。

 「新鋭」がコンセプトであり、女性にこだわった特集ではない。が、選ばれた男女の比率が興味深い。ほぼ半々なのだ。「女流」といった分別ではなく、男女平等の条件下での選定だけに、より興味深い。編集部が選んでいるわけだが、それでも半数というのは画期的なのである。もともとは50人集の予定だったが、工藤昌伸、勅使河原宏、中川幸夫らの作品が間に合わなくて、結果的に41人になったという。
 ではどんな41人かというと、年齢差がかなりある。1902(明治35)年生まれの今西久孝(久甫、未生流)などが年長組で、当時の彼は50歳を超えていた。若い方を見ると、1932(昭和7)年生まれの勅使河原霞(草月会)20歳が入っている。彼女の作品写真は本文内ではなく、雑誌の表紙に使われているのは、ちょっとした特別扱いかも。

『いけばな芸術』1953年10月号

 この特集、8月号だけでは終わらなかった。掲載作品の読者投票を実施し、10月号で発表しているのである。女性という視点から見て、その結果がまた面白い。10位までを見ておこう。

 ①周藤真雄(高野真流)、②半田唄子(白東社同人)、③清水兼代(未生流、白東社同人)、④工藤和彦(小原流、新世代集団同人)、⑤小立千蓉(小原流)、⑥中村亮一(池坊)、⑦勅使河原霞(草月流)、⑧米戸豊春(小原流)、⑨葛原一男(池坊)、⑩重田一景(小原流)。

 以上であるが、1位の周藤と9位の葛原は、重森三玲が指導する白東社同人だったはずだが、なぜか肩書や略歴に書き入れていない。所属する流派への配慮が絡んでいるのだろうか。彼らを含めれば白東社同人は4名であり、やはり比率が高い。『いけばな芸術』読者の投票だから、ある種の偏りがあるのは当然であろう。しかし、それはどうでもよい。ここで注目したいのは、女性がトップテンの半数を占めたことだ。
 編集部が選んでいるのだから誌面に掲載する男女比は編集部が操作できる。が、不特定多数である読者の投票をコントロールすることはむずかしい。女性たちは実際に多くの読者から支持され、大挙して時代の最前線に躍り出たのである。『いけばな芸術』が存続した時期は前衛いけばなの最盛期であった。同時に、女性躍進の最盛期という見方もできる。ようやく表舞台に立つ機会をえた女たち、しかし、残念ながらその期間は短かった。

 いけばな界に保守的傾向が強まったらしく、『いけばな芸術』の販売数が低迷し、雑誌は1955年8月号をもって廃刊となった。同じ頃に白東社も自然消滅、若手前衛グループの新世代集団も存続が危うくなった。そして女たちが表舞台から姿を消していく。
 前衛時代に女性トップとなった半田唄子の、その後はどうなのか。彼女は中川幸夫の妻となって中川とともに孤高の道を歩んだことは知られている。ただ、いつも中川とセット扱いであり、残念ながら彼女個人の足跡は薄れてしまった。今回、その足跡に光を当てて見直し、再評価を試みたいと思う。


(花女09| 前衛時代は、女性躍進の最盛期でもあった おわり)


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