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花女11 | ともに花の道に生きよう — 半田唄子と中川幸夫の結婚

2025年9月3日/記 (敬称略)

 いけばなの前衛運動は、1950年代半ばで砕け散った。そして、大手の流派は、勅使河原蒼風の草月流や小原豊雲の小原流などが典型だが、前衛いけばなを流派内のカリキュラムに溶かし込み、いわば活性剤として利用していく。少なくとも表面的には古臭いいけばなのイメージを塗り替え、戦後大衆の嗜好に適う流派に脱皮し、いけばな界は史上最大の繁栄期を迎えるのであった。
 家元制度が、本来なら矛盾するはずの前衛運動を吞み込み、ますます肥るという、奇妙な現象が起きたのである。では、前衛運動の最前線で闘っていたいけばな人たちはどうなったのか。――全滅である。家元制度の外にいた人、家元制度の外に出ようとした人は、皆、挫折した(注1)。
 この挫折を乗り越えようとしたのが、中川幸夫と半田唄子である。彼らの行動は素早く、1956年には東京に転居し、2人は結婚して、〈芸術的共同生活〉(注2)を始めたのである。それは、貧しさや苦しさを甘受するしかない、厳しい創造の道であった。

(注1)挫折の実態については、下田尚利と私の2つの対談(『前衛いけばなの時代』と『いけばなと私』に所収)がもっともリアルに伝えている。また、のちに触れる『いけばな批評』の重森三玲追悼特集も参考になる。
(注2)佐藤和子の小説「拈華微笑」(『文学者』第16巻第2号、1973年2月刊)に出てくる言葉。おそらくそのとおりであり、2人の結婚には、愛情とともに、同志的な結束を含むものと思われる。

 

🔴『いけばな芸術』廃刊と白東社終焉

(初出「日本女性新聞」2016/11/1 第32回)

( 図1)半田唄子「題不詳」  萬蔦とカンナ  1953年

 半田唄子は1950年に白東社に参加した。ここで白東社について触れておこう。その性格だが、メンバーが白東社同人と名乗っていたとおり、同じ志をもつ人の団体という一面がある。が、厳密には、いけばなの研究者・評論家である重森三玲の指導下でおこなわれた研究会、というのが正しい。流派にとらわれない、超流派の研究会である。三玲の「白東社の足跡と進路」(注1)によると、この会は1949年11月7日に誕生した。新しい花を研究したいということで〈 小糸不挿庵、能勢竹窓、建部絹甫、日下部勇、大津隆月の諸氏が拙宅へ来られての研究が最初であった 〉という。

 初期の参加者は京都周辺だったが、たちまち全国に拡大して、1951年には60名に達した。重森邸では手狭となり、同年9月から近くの聖護院の書院を借りるようになった。原則月1回、早朝から参加者が各自花をいけ、午後1時に合評会が始まって夜7時頃まで続く。まず参加者が相互批評し、それから三玲が批評する。最初に三玲がやると誰もしゃべらなくなるからだが、それほど三玲は権威であり、大きな影響力をもっていたということである。
 こうして1952年には、前にも触れた第1回白東社展の開催に至る。白東社が全力で取り組んだ花展であり、その成果は中川幸夫の《ある瞬間》や半田の《天井に挑む》などに表れた。ただし参加した同人の数は極めて少ない。なんと9名(内1名は途中脱落)である。えっ、と思うのだが、美術評論家の水澤澄夫が展評「白東社展について」(注2)で〈 白東社同人は9人しかのこらなかった 〉と記しているのだ。いったい何が?

 同人9名という数には疑問があるが、激減は事実である。三玲は自分の批評が辛らつで〈 その為に最後まで努力出来ぬ人も出た 〉としている。しかし、それよりも〈 その他種々な関係で退会される人々も多かった 〉というのが実情だったのではないか。流派との板挟みで辞めていった同人が数多くいたようなのである。
 急拡大する白東社に流派社会の反発や警戒する空気が生まれたのであろう。三玲は流派を否定してきたが、判断するのは個人だとして同人の流派所属を容認。また、いけばな界に対して政治的野心はないとも公言していた。それでも流派の警戒心はゆるまなかったということか。
 1953年には参加者を「同人又は会員」と、区別して呼んでいる。どうやら研究会に参加しやすい「会員」制を増設したようである(要検証)。

 白東社の終焉は自然消滅である。『いけばな芸術』が昭和30(1955)年8月号で廃刊となっているが、おそらくその頃であろう。のちに中川は、〈 いけばなの世界が昭和30年から静かになったとき 〉〈 さむらいが皆、古巣に帰りましたから 〉と回想している(注3)。
 消滅の原因は、もはや流派次元の問題だけでなく、急速に進んだ時代転換、戦後日本の大転換にあるとも考えられる。『いけばな芸術』の編集実務のほとんどを担っていた三玲の次男重森弘淹は、廃刊についてこう回顧している。〈「前衛いけばな運動」は、昭和30年頃の、戦後最初の相対的安定期のなかで、解体するとともに、『いけばな芸術』の使命もまた終わった 〉と(注4)。皆が皆、必死になって生きた復興の時代が終わったのである。
 結果として、いけばなは戦後大衆に受け入れられて大繁盛し、それとは対照的に中川と半田は孤立した生き方を強いられることになった。最高水準のいけばな作家を見捨てながら、いけばな界は繁栄したのである。

 写真は第1回白東社展から1年後の半田作品。小品ながら《天井に挑む》のダイナミズムと開放感に通じるものがある。内側に凝縮していく中川作品とは性格が大きく異なることに注目したい。

(注1)「白東社の足跡と進路」『いけばな芸術』1952年8月号
(注2)「白東社展について」前掲書『いけばな芸術』
(注3)追悼特集・座談会「重森三玲氏の足跡と人間像」『いけばな批評』1975年6月号。
(注4)追悼特集・「父三玲を語る」『いけばな批評』同上号。
(図1)出典 『いけばな芸術』1953年8月号。

 

🔴東京転居、結婚、そして六畳一間で

(初出「日本女性新聞」2016/11/15 第33回)

中川と半田を紹介した『女性自身』1969年4月28日号

 半田唄子は中川幸夫に結婚を申し込まれて受け入れる。この結婚には〈 ともに花の道に生きよう 〉(注1)との約束が含まれていたと思われる。1956年の9月にまず中川が四国から上京し、11月に半田が九州から上京、そして結婚。中川38歳、半田49歳だった。
 それから13年後の1969年、『女性自身』が2人の紹介記事(注2)を掲載し、記事の冒頭で、結婚時の挨拶状を引用している。

◆〈 11月18日は、豊かな日であったことをご報告申し上げます。すべてを見つめて、私たちの結婚ができたことです。多くのあたたかいご協力を感謝致しますと共に、新しい仕事を含めた生活を切りひらき、皆様のご厚情にこたえるべく、努力し、つながってゆきたいと思います。(後略)  〉。

 筆者の鬼頭典子は、この一節を引用したのち、2人の過去、思い、生活などを巧みにまとめている。ただ雑誌の表紙には「華道界・伝説につつまれたナゾの神秘男」と、ちょっと恥ずかしい見出しが躍る。記事本文のタイトルは「異端の生け花作家中川幸夫の花と貧乏の物語」である。異端はよいとしても貧乏物語はどうなのか。
 鬼頭が中川に会ったのは〈 取材の交渉をはじめてから3ヵ月目 〉だったという。中川は他誌でも貧乏物語を書かれていて慎重になっていたのではないか。とはいえ一定の評価をえる前、中川に時々スポットライトが当たった理由の一つがこの貧乏物語だったことは否定できない。痛し痒し、の一面があったものと推測する。

『女性自身』1969年5月31日号掲載記事のタイトル部分
半田と中川、この写真は、2人が住んでいたアパート近くの哲学堂公園で撮影された。

 記事は2回にわけて掲載され、その内容は丁寧である。水澤澄夫の〈 蒼風の普遍性と、中川の独創性は、拮抗するくらいの力をもっている。中川の敵は、蒼風だけだ 〉という評価を紹介。また、鬼頭は、いけばな界内部に取材し、中川が高い評価を受け、畏敬の念をもたれていること。家元制度に反発し、流派をもたず、1人の弟子もとらず、黙々と自分の花だけをいけていることなどを知る。
 鬼頭は、こうした周辺取材をしたのち、中野区江古田の2人の住まいを訪れて驚く。〈 実力では、勅使河原蒼風氏と並ぶという人物が、六畳一間のアパート暮らし 〉だったからである。あらためて中川から家元制度の問題点や過去の経緯などを聞き、半田からもいろいろ聞いている。
 家元返上の件や、上京途中〈 静岡駅で駅弁といっしょに買った素焼きのお茶のビンに、焼酎を1合買い、ガランとした六畳に正座して、杯(さかずき)をかわしたのが、2人の結婚式 〉だったこと。そしてバーやクラブで花をいける現在の生活。さらに2人とも作家ゆえに起こる対立や葛藤、花材のアマリリス一輪の所有をめぐっての喧嘩。意見が対立したまま2日、3日と過ごすこともあって、その間一言も口をきいてくれない夫と暮らす半田の孤独、等々。
 こうしてみると、2人とも、取材に応えて意外に多くを語ったようである。記者は最後にこう書く。〈「池坊」門弟200万、「小原流」100万、「古流」130万、「草月流」100万、「中川幸夫と半田唄子の花」2人 〉。そして、2人の花には、いけばな界の地図を根底から描きかえる力があると結論する。

 いけばなに関わってから専門誌以外の雑誌、とりわけ女性誌が気になるようになった。重要な情報が入っているからである。ただ、今回の『女性自身』のように、タイトルなどが過剰に興味本位という場合もある。しかし、実際に中身を読んでみれば、多くを知ることができる。いろいろな制約があるなかで、記者たちは懸命に記事に取り組んでいたのである。

(注1)前掲の小説「拈華微笑」。
(注2)鬼頭典子取材-文「異端の生け花作家中川幸夫の花と貧乏の物語」『女性自身』1969年4月28日号。後半は5月31日号。 


🔴半田唄子、強い意志による貧乏

(初出「日本女性新聞」2016/12/1 第34回)

半田唄子 1961年 狭い空間だが、工夫を凝らして暮らした。

 半田唄子と中川幸夫の上京後の生活について、その現実をしっかり見ていく必要がある。そうしないと、その生活のなかで妻である半田が我慢したこと、断念したこと、それでも成し遂げたことなどを明らかにできないからである。

 『女性自身』の鬼頭が中野区江古田に住む2人を訪れた時、その住まいは〈くたびれた民間アパート〉の六畳一間だった。〈 実力では、勅使河原蒼風氏と並ぶ 〉中川、その住まいがこれとは、鬼頭はあまりのギャップに驚く。  
 取材は1969年の3月頃であり、この時の中川は50歳、半田は61歳になっていた。しかし、驚くのはまだ早い。上京後の一時期は、六畳一間に3人が住んでいたのである。
 以前にも触れた『日本女性新聞』のインタビュー(注1)で半田は、〈 長男が立教大学に通っておりましたので、六畳に、中川と3人暮らし。4年ほどそんな生活でした 〉と回想している。

 さらりと語っているが、実際にはどんな生活だったのか。その生活ぶりが『サンデー毎日』の児玉隆也の記事(注2)に書かれている。
 上京後の2人の暮らしは、〈 すぐさま3人になった。半田唄子の、東京で大学に通っていた長男は、母の結婚で仕送りが不可能になり、この六畳一間でいっしょに暮らすようになった。カーテンで仕切り、向こうは息子、こちらは2人の創作の畳3枚である。2人は、押入れで寝る 〉状態だったと。
 母子はまだよいとしても、中川と義理の息子の間はどうなのか。そのストレスは、経験がなくても容易に想像できるだろう。事実、何度もいさかいが起きた。
 ある日、息子の友人が酒をぶら下げてやってきて息子と飲んだ。そして息子がカーテン越しに、中川さんどうですかと声をかけた。しかし〈 花と対峙していた中川は「ぼくはいらん!」と大声で答え、妻は身を切られる 〉想いだったと。
 以上は児玉の取材記事だが、小説『拈華微笑』にも同様な場面が登場する。小説の方では、差し出された盃を中川がひったくって息子の方に投げつけたのである。盃はちゃぶ台にぶつかって砕け散り、倒れた徳利から酒がこぼれ出し、部屋全体が凍結したようにしんとなった。

 こんなことが繰り返されたと思うと、半田や中川、そして息子にも同情したくなる生活である。(なお、3人暮らしの期間は要検証)       

 ここで一考すべきことがある。以前、半田の福岡時代の戦後生活について、生活困窮とは次元が違うと指摘した。東京生活も同様で、2人の生活はたしかに貧乏だが、生活困窮とは次元が違うと私は見る。生活困窮では息子を東京の大学、まして私学などにはやれないだろうからである。2人が上京した1956年当時の大学進学率は13パーセント程度で、猫も杓子もという時代ではない。
 そう考えると、ここから半田の家族に対する愛情や責任感がはっきりと見えてくる。自分の貧乏は仕方がないとしても、自分の勝手で家族に迷惑をかけたくない。だから息子には当時としては人並み以上の教育を与えずにはおられなかった。もちろん余裕はなく、だからこそ六畳一間に3人だったのである。家族に迷惑をかけないための、ぎりぎりのところでコントロールされた貧乏。場当たり的ではない、強い意志による貧乏だったのではないか。

 半田はかつて裕福な商家のお嬢さまであり、奥様だっただけに、金銭感覚にはゆるいところがあったようだ。が、生活に対して非常に前向きであり、意欲、決断力、実行力をもっていた。のちに見るように、2人の生活は、経済面を含めて、半田主導で成立していたようなのである。ただ、それだけ半田の負担や犠牲が大きかったということにもなる。

(注1)『日本女性新聞』1976年7月14日号
(注2)児玉隆也「一期一会の戦いを挑む 異端異相の生け花作家」『サンデー毎日』1973年1月21日号。 


(花女11 | ともに花の道に生きよう — 半田唄子と中川幸夫の結婚  おわり)


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