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花女14 | 半田唄子、六畳一間の生活に爽やかな風を招いた人

2025年9月24日/記 
(敬称略)

🔴半田唄子 最終回

(初出「日本女性新聞」2017/5/1 第42回)

半田唄子「とびうめ」ブンゴウメ 李朝白磁壺、1982年

 当初は半田唄子と中川幸夫の夫婦関係に深く立ち入るつもりはなかった。しかし、調べ始めると、半田という女性、とりわけ妻の立場から見えてくる風景が気になってきた。予想していた以上に彼女にとっての不合理や不利な状況が見えてきたからである。日本の夫婦はこんなものだと言ってしまえばそれまでだが、それでは半田の影が薄くなってしまうので惜しい。
 この連載で明らかにしたように、半田は中川幸夫と結婚する前から戦後いけばなの女性トップランナーであったし、中川とは別の個性をもっていた。それにしても、あの強烈な自我と忍耐力、中川以上の頑固な理想主義はどこから生まれたのだろうか。
 人は貧乏生活の中で健闘した中川に驚く。ならばその2倍とか3倍くらいは半田の忍耐と懸命な生き方に驚くべきである。六畳一間の東京生活を始めた時の中川は38歳だったが、半田はもう49歳なのだ。生活の辛さは彼女の方により強く響いたはず。それに未亡人だったとはいえ、裕福な商家に生まれ育ち、妻となった人である。その続きがこの生活、たいへんな決断であり、実行だったと思う。

 半田の九州時代のことがよくわかっていない。どうやら未亡人になるまでは、それほど個性的な生き方をしていたわけではなく、商家の奥様として女中さんにかしずかれ、何不自由なく暮らしていたようである。いけばなは趣味の範囲をこえるものではなかったと思われる。
 未亡人、そして戦争が彼女を変えたということか。日露戦争の頃に同様な境遇になった人に平一鶯がいた。日本の女性が個性的な生き方をするきっかけの一つとして、喜べる理由ではないが、未亡人や戦争というものがあったのかもしれない。半田を探るとまだまだ様々な問題や課題が出てきそうである。

 六畳一間の生活というと、当然ながら狭苦しく、鬱陶しいような光景を思い浮かべてしまうが、半田はそこに爽やかな風を招き入れていた。前衛いけばな仲間の下田尚利は、次のように回想する。〈 彼の家に行くと、いつも半田さんがおしぼりを竹で編んだ器にのせて出してくれるのだけど、そこにシャガの葉が添えてあったりして、それが何ともいいんだよね 〉(注1)。夫婦のアパートを訪れた雑誌記者なども同様なもてなしを受け、感動している。この爽やかなもてなしに、半田のいけばなの豊かさが滲み出ている。

 半田についての連載は今回でひとまず終える。当然ながら調査が足りないし、書き足りない。いつか、どこかで再挑戦したいと考えている。とはいえ私も高齢になってきたので、そう先延ばしするわけにもいかないのだが。最後に掲載作品《とびうめ》について触れておこう。
 これは1982年の作と思われる。そうだとすれば彼女が亡くなる2年前だ。当時はすでに病気がちだったと聞くが、そんなことは微塵も感じさせない、力強く、凛とした名作である。大宰府に左遷された菅原道真のもとに、都から飛んできたのが飛梅(とびうめ)である。半田の想いも九州の故郷に向かって飛ぼうとしていたのだろうか。半田は、上京以来の古びたアパート暮らしのまま、1984年10 月、77歳で亡くなった。

(注1)『いけばなと私 下田尚利作品集』求龍堂、2016年刊。


🔵追記 現実の壁の向こう側を見つめて

 先ほどの新聞連載の文で、私は半田唄子の「理想主義」について触れた。それに関連して追記しておきたいことがある。半田は、理想主義を重森三玲から受け継いだのではないかと思うのである。その三玲とは、どんな人だったのか。

 近現代いけばな史の中で、夢の実現にまっしぐらに走った人と言えば、まずは重森三玲であろう。そして、もっとも厳しい挫折を味わったのも三玲である。彼は書物に埋もれて生きる研究者だったが、それ以上に、批評を武器に現実を変えようとする評論家だった。いけばな人の中に分け入り、ためらうことなく正論を吐き、人に影響を与える。それゆえに成し遂げることも多いが、結局は排除されて挫折し、深く傷つく。
 太平洋戦争前の時期に起こした新興いけばな運動がそうだった。失敗し、絶望し(注1)、もう二度といけばな界に関わらないと決めるのだが、戦後になって再び前衛運動に手を染めた。若いいけばな人たちが三玲に教えを乞うて集まり、研究会「白東社」が生まれたことや、中川幸夫を発見したことが、三玲を本気にさせたのである。そして再び挫折した。

 次男の重森弘淹は、〈 親父は次善の策 〉という意識がない人だったと語る。〈 目的に行くために、妥協点としてこういうことをやろうという考え方 〉がまるでなかったというのである(注2)。ひたむきな芸術への信仰があり、いけばなをその次元にまで高めようとする情熱があった。〈 理念として美しい。純粋だ。純粋すぎて、ほとんど現実を無視した 〉(注3)と。その影響を真正面から受けてしまったのが半田唄子だったのではないか。

 半田は、戦後、いけばなの悩みを三玲に訴えた。どう生きるかといった人生の悩みをそこに重ねていたのかもしれない。そして、回答を与えられ、導かれ、夢を見た。年齢的にはずいぶんと遅い第二の誕生である。が、そこが原点となった。だから、そこに立ち返るかのように、半田はいつになっても三玲との出会いと指導を昨日のことのように語る。
 理想主義者である三玲の弟子は、中川ではなく、半田だったと思う。半田は、現実の生活や諸事情に阻まれながらも、いつもその壁の向こう側に目を凝らし、いけばな文化の価値を信じ続けた人である。

 さて、今日、前衛だとかアヴァンギャルドといった言葉は、もう失効したと私は考えている。そうした芸術現象よりも根っこの方が重要であり、人の心が根腐れを起こしていてはどうしょうもないからだ。だからこそ、半田を再評価したいのである。彼女は、現実の困難の中で、最後まで根腐れを起こさず、最後まで壁の向こう側を見続けていた。その意味では、挫折で絶望した師三玲を乗り越えていたのかもしれない。

(注1)予備校に通った浪人時代から京都の重森宅に下宿していたのが、のちに美術史家となる山根有三である。そんな山根は、1936(昭和11)、37年頃、三玲はいけばなに絶望していたのではないかと語る。〈花を一生懸命やってみたって駄目だ〉〈無駄な努力だ〉という話を、三玲から直接聞いたという。新興いけばな運動の挫折から、2年後、3年後といった時期のことである。以上は、(注2)(注3)と共に、「重森三玲追悼特集」『いけばな批評』1975年6月号、王立出版社刊による。

 今回が「半田唄子」の最終回である。新聞連載の文で、〈調査が足りないし、書き足りない〉〈どこかで再挑戦〉などと書いているが、すでに8年が過ぎた。先の予定も立たない。自分に対する約束違反だが、せめて半田唄子が近現代いけばな史上の重要な存在であることだけは、ここに記して、責任を逃れようという算段だ。そして、次回、「花女|15 あとがき」を書いて、『改訂版 女たちのいけばな」全体を終えるつもりである。



(花女14 | 半田唄子、六畳一間の生活に爽やかな風を招いた人 おわり)


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