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花女08|芸術と技芸をめぐって

2025年8月7日/記
(敬称略)

 戦後の女性いけばな人を代表するのが半田唄子であり、今後は半田を軸にしていけばなを語りたいと思う。ただ、その前に少しばかり道草をさせてもらおう。
 半田が登場する背景に、いけばなの前衛運動があった。戦前の「新興いけばな」と戦後の「前衛いけばな」である。こうした前衛運動の流れの中で、半田は活動の場をえたのである。ただし、今の私は、前衛運動に拍手喝采する気にはならない。あえてその偏向と限界をも視野に入れての評価が必要だと考えている。その方が、いけばな固有の特色や課題が見出されて、有意義だと判断する。
 また、前衛運動が目指した「芸術」という価値観も、もはや前提にする時代ではないと思っている。そうした思考を懐に忍ばせた上で、最初の2小論は書いたつもりである。
 最後の小論は、「遊歴」について書いた。江戸時代には、野心をもつ多くのいけばな師が、街道の道々を「商売」兼「修行」して、力をつけながら、江戸に向かったと思われる。一種の遊歴であり、江戸中期のいけばな隆盛は、その結果だと言えなくもない。
 彼らには、実力も必要だが、嘘やハッタリなどが混在していたかもしれない。源氏流を興した千葉龍卜の経歴には、江戸で一世を風靡する前に、法橋に叙せられたとある。立花の大成者である池坊二代専好がようやく手にした称号であり、無名時代の龍卜がえられたとは、常識的には考えにくい。要検証である。
 近代を見てみると、大正初期に怪しい家元が登場している。こんなこともあったのかと、きれい事でない歴史が垣間見えて、興味深いのである。


🔴新興いけばな宣言、芸術への渇望と矛盾

(初出「日本女性新聞」2016/4/15 第23回)

(図1)重森三玲(1896~1975) 今では作庭家-庭園研究者として有名であるが、実は戦前戦後と、いけばな評論家-研究者として重要な役割を果たした人である。中川幸夫や半田唄子らを指導した。

 この連載コラムもそろそろ戦後へ話を移そうと考えているのだが、その前に触れておきたいことが出てきた。それは「芸術」をめぐる問題である。明治以降の近代化のなかで、芸術は高い精神的価値があるものとして重要視されるようになった。だから「芸術」への転換におくれを取ったいけばなは、「新興いけばな宣言」が典型だが、芸術を渇望したのである。

 昭和8(1933)年に成立した「新興いけばな宣言」は、いけばな評論家であった重森三玲が主導して、同じく評論家の藤井好文、実作者の中山文甫、桑原宗慶(専渓)、柳本重甫、勅使河原蒼風と協議して生まれた。ただ何か事情があったらしく、未公表のまま封印されてしまった、いわば幻の宣言なわけである。戦後になって三玲が『いけばな芸術』誌に回想(注1)を書くことで、ようやく人の知るところとなった。したがって成立当時はいけばな界になんの影響も与えなかったわけだが、今では当時の進歩派の問題意識を知ることができる貴重な文献となっている。
   
 宣言には前文と本文があり、前文には〈 われわれの「いけばな」は極楽の島の上に、惨めにも取り残された運命的な敗残者 〉という、なんとも厳しい言葉が並んでいる。さらに、かつては〈 完成した芸術でありえた 〉いけばなが、現代では形骸になってしまったと嘆く。芸術ではなく、〈 婦人の身だしなみ 〉〈 閑人の芸事 〉でしかない、〈 かかる不幸と、かかる冒涜と、かかる堕落から 〉いけばなを救わなければならない、と宣言は訴える。この前文は三玲の個人色が出すぎているように思えるのだが、芸術を渇望する気持ちは他のメンバーも同様だったと推測される。
 本文ではより具体的にいけばなのあり方を問題にしている。〈 懐古的感情を斥ける 〉〈 型式的固定を斥ける 〉〈 道義的観念を斥ける 〉〈 植物学的制限を斥ける 〉などが本文の骨子である。そして非植物素材の使用を容認するなど、戦後の前衛いけばなを予兆する内容となっている。
 しかし時代ゆえの限界もある。家元制度にはまるで触れていないし、女性という点では、〈 婦人の身だしなみ 〉を批判している以上の言及がない。ここでは宣言の言うところの芸術について見ておきたい。

 芸術は、本文においても強調されている。〈 何よりこれは芸術 〉〈 芸術的良心 〉といった言葉から、何がなんでも芸術でなければならないとの主張が伝わってくる。しかし一方で、〈 現代の生活様式 〉に結びつけられるとか、〈 生活を逸脱した 〉ものではないといった言葉が添えられている。西洋を規範とした近代芸術を目指すのなら、生活を切り捨て、表現の自立を果たすのが本来なのだが。
 では宣言の内容に矛盾があるということか・・・。そう、矛盾がある。が、もともと高度な成熟を誇っていた日本文化、それをいくら西洋文化が強かったとはいえ、西洋の規範を隅々まで浸透させることなど無理だったのだ。矛盾が生まれるのは当然なのである。
 おそらく今も、その矛盾を解きほぐすことができないまま、課題として残されているのではないだろうか。

(注1)重森三玲「花道今昔ものがたり」『いけばな芸術』1951年3月号。宣言の成立や未発表の経緯等については、自著『前衛いけばなの時代』美学出版、2003年刊で触れているので、参照していただきたい。
(図1)出典 『いけばな批評』1975年6月号、王立出版社。


🔴諸芸諸術から芸術へ

 (初出「日本女性新聞」2016/5/1 第24回)

                  (図1) 高村光雲《老猿』明治26(1893)年 木彫

 時代とともに「芸術」という言葉の意味も大きく変わっていく。明治15年という時期に書かれた福沢諭吉の「帝室論」(注1)にこんな一文がある。

◆〈 日本の技芸に、書画あり、彫刻あり、剣槍術、馬術、弓術、柔術、相撲、水泳、諸礼式、音楽、能楽、囲碁将棋、挿花、茶の湯、薫香等、其他大工左官の術、盆栽植木屋の術、料理割烹の術、蒔絵塗物の術、織物染物の術、陶器銅器の術、刀剣鍛冶の術等 〉。

 今の私たちの感覚では、絵や彫刻の次に剣術や馬術が続くだけでも違和感があるが、福沢はさらにこれらを〈 芸術 〉と呼んでいる。〈 諸芸諸術 〉とも記しているので「芸」分野と「術」分野を総合した呼び名ということかもしれない。当時の芸術という言葉が指し示す範囲は相当に広かったと思われる。
 この帝室論では、文明開化の旗振り役のような福沢が、その文明開化によって危機に瀕している日本固有の諸芸術を心配し、保護する必要を訴えている。また挿花や茶の湯、薫香、書などを〈 我文明の富にして、外人に誇るべき 〉と評価しているのも面白い。彼の姿勢は文明開化一辺倒ではないのである。懐が深いと言うべきか。

 芸と術ということでは高村光雲(1852~1934)の話がなかなか興味深い。光雲は仏師・木彫家として活躍したのち東京美術学校の教授となり、近代彫刻の開拓者という位置をも占めた人である。木彫作品《老猿》や上野の銅像《西郷隆盛》が有名であるが、以下の話は、その光雲がまだ仏師の師匠のところに奉公していた明治初頭のことである。

 師匠が〈 お前も仕事ばかりに精出しているのはいいが、何か一つ遊芸といったようなもの 〉を稽古してみたらどうか、〈 人間は、何か一つ、義太夫とか常磐津とか 〉と言い出した。仕事ばかりでは〈 頭が固くなる 〉というわけである。師匠の言葉に心が動いた。しかし光雲は父親から声を出すタイプの芸事は厳しく止められていた。というのは芸事にまつわる祖父の一件があったからである。
 祖父の富五郎は、鰻屋や肴屋をやっていた人だが、当時大流行の富本節を嗜み、たいへん上手かった。彼が発表会に参加すると大評判で〈 富さんが出るなら聞きに行こう 〉というほどだった。ところがこれを妬む者があり、ある日密かに湯呑に水銀を入れて飲ませたのである。このため祖父は体を害し、家は没落。その時10歳にも満たなかった父が一家を支えることになったという(注2)。

 光雲はものづくりの「術」の人であり、当時の用語では彫刻師(ほりものし)だった。芸術世界からは遠く、むしろ産業世界に近い。だから師匠は仕事ばかりではいけないと、遊芸という心に関わる課題を持ち出したのである。芸が術を補完しているようで面白い。とはいえ芸には妖しい魔力があり、祖父の例のように、時には人を悲劇に導くこともある。

 明治42(1909)年、高村光太郎(1883~1956)が留学から帰国し、神戸に到着した。出迎えたのは父親の光雲である。東京へ向かう車中、光太郎は父親の〈 ひとつどうだろう、銅像会社というようなものを作って、お前をまんなかにして、弟子たちにもそれぞれ腕をふるわせて、手びろく、銅像の仕事をやったら 〉の言葉に驚く。光太郎は〈 ガンと頭をなぐられたような 〉気がして言葉が出なかった(注3)。
 父親の光雲の発想は芸術活動ではなく産業活動だった。新しい彫刻世界を切り開いた光雲だが、なお諸芸諸術の世界に立っていたと言ってよい。息子の光太郎の方は近代芸術の世界へまっしぐら。諸芸諸術から今日的な芸術へ、「芸術」の意味が大転換していく様を高村親子が見事に体現しているのである。

(注1)福沢諭吉「帝室論」『明治文学全集8 福沢諭吉集』筑摩書房、昭和41年刊。(初出は『時事新報』明治15年4月~5月の社説として掲載)。
(注2)『高村光雲懐古談』新人物往来社、昭和45年刊。(大正11年に田村松魚筆録)。
(注3)高村光太郎「父との関係」『作家の自伝9 高村光太郎』日本図書センター、1994年刊。(初出は『新潮』昭和29年5月号)。
(図1)出典 高村規全撮影『木彫 高村光雲』中教出版、1999年刊。


🔴いけばなの遊歴

(初出「日本女性新聞」2016/5/15 第25回)

(図1) 近代将棋の父と呼ばれる棋士、13世名人-関根金次郎(1868~1946)

 江戸時代の中期、江戸の繁栄に引き寄せられて京都や大阪からいけばな師たちが江戸に向かった。のちに江戸で一時代を築くことになる源氏流の千葉龍卜もその一人である。工藤昌伸は〈 龍卜は、江戸に下向する途次、遊歴を重ねて江戸に着到したのではないかということを想像する 〉(注1)と記している。
 この「遊歴」に注目したいのだが、江戸へ向かう場合以外にもありうる話だ。俳諧師や絵師なども各地の同好の士や有力者を訪ねて交流し、名作を残しているからである。残念ながら花は作品が残らないので追跡が難しい。

 明治以降の遊歴はどうだろうか。というのは以前読んだ『将棋百年』(注2)に、のちに13世名人となった関根金次郎の遊歴が書かれていたのを思い出したのだ。この本によると江戸時代の将棋は家元が3家あって、幕府の庇護を受けていたが、明治維新によって家元制は廃絶、それまで家元に継承されていた名人の名籍が一般の棋士に引き継がれていくことになったという。
 興味深いのは、関根が若い頃、修行のために〈 行手定めぬ将棋遊歴の旅に 〉出ていることである。東北、信州、大阪、四国、九州と強い棋士を訪ね、将棋関係者や愛好家などから一宿一飯の恩を受けながら旅をする。二、三日飲まず食わずということもあれば、夜道で野良犬30匹に襲われたことも。昔は野良犬が多かったようだ。
 明治24年頃、堺で2つ年下の坂田三吉と初めて指して勝ち、そのあと大阪では大阪名人と呼ばれる81歳の小林東伯斎に軽くいなされた。遊歴はまさに武者修行の如しである。いけばなにもこうした遊歴があったのでないかと思うのだが、残念ながら記録がない。ただ遊歴?詐欺?といった怪しげな話が残されている。

 工藤昌伸→下田尚利→私へとリレー紹介された木村如光『華に生きる』(注3)という本があって、この中に詐欺師のような遊歴の花道家が登場する。著者の木村(明治19年生まれ)は相阿弥流に学び、のち小原流の札幌支部創設に功があった人である。
 その木村によれば、大正5年〈 村上瑞甫なる者が京都から随心流家元と名乗り、花道、煎茶式の普及と称し単身札幌に 〉乗り込んできたという。〈 大兵肥満の男で歳50才位、泰然と構えて頭を下げず、人を眼下に見下すの態度 〉だったと。そして彼は「竹の水揚げの秘法」を会得していて、札幌の花道家たち個々に煎茶の弟子を斡旋してくれたら〈 秘法をお前1人だけに伝授する 〉と持ちかけた。かなりの数の花道家がこの話に乗ったらしいが、この時木村が間に割って入り、この話は詐欺に違いないと指摘し、巧みに立ち回って被害が出るのを食い止めたというのである。

 木村が大活躍する武勇伝のような思い出話なので、正確さには欠ける。あるいは事実とは大きく異なるかもしれない。ただ、もし、こうした無頼の花道家がそれなりの数いたとするなら、花道界の印象が大きく変わる。さらに私が注目するのは、胡散臭い「秘法」にまっとうな花道家が前のめりになっていたことだ。札幌の花道界の重鎮という人さえその1人だったというから当時は未知の花いけ技術に対する強い願望があったということなのか。翌年には前に触れた小原流の平一鶯が札幌に乗り込んでくる。良くも悪くも活気のある時代、この時代の北の大地はけっこう熱かったようである。

(注1)工藤昌伸『日本いけばな文化史2』同朋舎出版、1993年刊。
(注2)山本武雄『改定新版 将棋百年』時事通信社、昭和51年刊。
(注3)木村如光『華に生きる』「華に生きる」刊行会、昭和33年刊。
(図1)出典 前掲書『改定新版 将棋百年』。

(花女08|芸術と技芸をめぐって おわり)


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