花女03|芸者といけばな、他
2025年6月17日/記
(敬称略)
「女性」を強く意識しながら文化を考えると、従来の文化の常識とか価値観とかがぐらぐらになって、どこに焦点があるのか分からなくなる。そうなると、あとは勘で、あちこち掘ってみるほかない。しかし、実際に掘ってみれば、予想外な景色が見えてきて、面白い。
芸者遊びなど皆無の私が、「芸者」にたどり着いたのは、こうした流れによってであった。記録が少なく、いけばなとの関わりを実証的に語ることはできないものの、そこを想像力でおぎなえば、何かが見えてくる、といった感じだ。
芸者出身の「川上貞奴」は、たいへん数奇な運命の人だった。日本初の女優となった彼女の人生は、あまりにも劇的である。伝記の一部にはホントかと思うようなところもあるが、彼女を否定する材料にはならない。間違いなく巨人であり、いけばなとの関わりは薄いけども、思わず連載に取り込んでしまった。
「女師匠の収入」についても一言述べておこう。女性がいけばなに参入し、しかも職業化していったことは、近代いけばなの拡大に大きな役割を果たした。また、先回紹介した「未亡人たちのいけばな」に見られるとおり、お嬢さまたちのいけばなとは違った、ある種の緊張感を近代いけばなに付与したものと思われる。
🔴芸者といけばな
(初出「日本女性新聞」2015/04/15 第7回)

『都新聞』で明治41年の「華道名人投票」を調べていたら、芸者紹介が目に入った。この芸者シリーズは、同年1月から延々と続いていたのである。毎回、芸者の肖像写真が1枚のっていて、身につけた着物、人柄や得意とする芸などが紹介されている。得意芸で多いのは長唄、清元、踊りといった芸者の必須アイテム。いけばなという場合もかなりある。例えば新橋の梅勇は、〈 琴、二弦琴、活花の他、絵をかく事が上手 〉〈 林外相、西園寺首相などに贔屓 〉云々とある。横浜の浪子(図1)は、17歳、〈 踊り、清元の他、古流の生花が上手 〉で、読み書きも好きという。日本橋のぽんたは、〈 長唄は杵屋六左衛門、踊りは藤間勘右衛門、茶は表千家、活花は古流、清元は弥生太夫 〉等々。
本当に簡単な紹介しかないのだが、社会状況が読み取れるケースもある。新橋のかすみの場合、彼女は東京音楽学校を卒業していて、当時の女性としては大変な高学歴だった。〈 バイオリンの名手と承っては只々恐縮のほかこれなく、ある事情よりよんどころなく芸妓となれりとの述懐 〉。音楽を断念した苦しい胸の内を記者に漏らしたのかもしれない。
吉原仲の町のぽん太は、〈 高等科を卒業せしが、父が失敗の結果、覚えし芸が身を助けるというお酌の売れっ子、本年15歳 〉。日本橋の米子の場合、〈 花の蕾の13歳、父の病気で家政不如意な所から自ら進んで身を沈めた 〉という。さらに年少なのは横浜のとみ子である。彼女は、たった12歳、〈 長唄は杵屋佐吉、活花茶の湯は村口無庵に就いて修業中 〉と紹介されている。
花柳界とはいったい何なのか、これがけっこう難問である。もちろん上流や新中間層ではないが、庶民、下流とも違う。そのどれとも関わりがありながら、独立した世界である。この当時の芸者の多くが貧しい家か没落した家の出だろうから、その意味では下流層であり、前借(ぜんしゃく)によって雇い主に隷属する場合も多い。だが、芸者をしているかぎり、生活は保障され、貧困生活とは無縁だ。賤しい職業と呼ばれることもありながら、一国の首相をもてなす立場にある。教養も必要だし、芸が劣っていれば馬鹿にされる。もちろんピンからキリまであって、色を売るのに忙しい不見転(みずてん)芸者もいた。ところが高級芸者ともなると全男性のあこがれの的なのである。
谷崎潤一郎には、明治末から大正初頭の頃を回想した文がある。〈 何しろ当時の芸者というものは、上は貴顕搢紳(きけんしんしん)から下はわれわれのような文学青年に至るまで、士農工商あらゆる階級の男性の愛を惹きつける、唯一の浪漫的な存在 〉だったと。こうも言う。〈 名妓といわれる者の人気の素晴らしさと、見識の高さと、社会的地位とは、今の第一流のキネマ・スタアをもってきても遥かに及ばないであろう 〉(注1)。
色香だけでなく、芸、教養、気働き、それに人間的魅力がなければ名妓にはなれない。ならば花柳界に高い文化はあったのか、芸の一つであるいけばなの水準はどうだったのか。さすがに主力芸である音曲や踊りでは第2次世界大戦後に文化功労者や人間国宝になった人がいるが、戦前は正当に評価されなかったらしい。まして明治ではなおさらであろう。岩下尚史によると、〈 徳川幕府はもちろん、明治以降の政府も、芸能保持者としての芸者の存在に対しては頗る冷淡 〉(注2)だったという。明治こそ芸者の黄金時代だったのだが。
(注1)谷崎潤一郎『青春物語』中公文庫、1984年刊。(初版は中央公論社、昭和8年刊)。
(注2)岩下尚史『芸者論』文春文庫、2009年刊。(初版は『芸者論 神々に扮することを忘れた日本人』雄山閣、2006年刊)。
🔴貴婦人になった芸者たち
(初出『日本女性新聞』2015/05/01 第8回)

いけばなと花柳界の関わりを示す資料は乏しい。したがって状況証拠から推測するほかない。時代をさかのぼって江戸の遊女たちを見てみると、彼女たちの教養には歌舞音曲はもとより、和歌、俳句、碁、花、茶、香などがあった。太夫と呼ばれる上級遊女などは、色香あり芸ありといった存在だったと思われる。
しかし宝暦(1751~64)には太夫職が消え、入れ替わるように芸を表看板とする芸者が登場する。色と芸の分離である。ただし吉原芸者のような完全分離もあれば、深川芸者のような二枚看板もある。その後の遊女たちにも芸事の伝統は残ったと思われるが、歌舞音曲の主役は芸者の方に移っていったようだ。花はどうかだが、芸者が活躍した柳橋などの貸席では書画会や花会などが開かれていたから、花をたしなむ芸者がいたとしてもおかしくはない。
話を明治にもどそう。前回触れた谷崎潤一郎の回想のように、明治の芸者のステータスは驚くほど高かった。これは明治末から大正初頭の頃のことだが、もっと前はどうか。山川菊枝が母の明治5年頃の思い出を記録している。〈 そのころは芸者が流行のトップもきれば、若い町娘のあこがれの的 〉(注1)だったという。明治全体が芸者の時代だったのである。
貴婦人になった芸者や娼妓は異様なくらい多い。維新三傑の1人である木戸孝允(桂小五郎)の妻、松子。時代劇などでは小五郎を助ける芸者幾松として登場する。初代首相・伊藤博文の妻の梅子。第3代首相・山県有朋の事実上の正妻貞子。また、早大創立者で首相も務めた大隈重信の妻綾子は遊郭にいた時期があったという。鹿鳴館時代を先導した大臣井上馨の妻武子は、粋すじの出との説もあり、伊藤夫人の梅子らとともに日本初の社交する女性になった。外務大臣陸奥宗光の夫人の亮子は、元新橋の芸者であり、宗光とともに渡米した時は、ワシントン社交界の華と賞賛された。
日本では良家の女性ほど社会との接触を断たれていたから、社交を本業としていた彼女らの活躍は当然だろう。その他いろいろあるが、近代洋画の父と呼ばれる黒田清輝の妻も芸者であった。あの有名な作品《湖畔》のモデルである。
権妻(ごんさい)というのもあった。第2夫人のことで、明治初期には正妻に近い身分が法的に認められていた。近藤富枝によると、明治16年までの民法では〈 正妻は一等親、権妻は二等親 〉だったという(注2)。芸者を権妻にした人として西園寺公望などの名が見える。財界人にも触れたいが、きりがないのでやめておく。
貧困にあえいでいた娘たちが花柳界を中継することで社会のトップに躍り出る、なんとも奇妙な日本の光景である。また、芸者たちは普段から表社会に出没していたのも間違いないだろう。明治・大正期に活躍した演歌師・添田唖蝉坊の現代節に、
金持ちはえらいもの
芸者をつれて 自動車とばせる慈善会
アラ ほんとに現代的だわね~
という歌があった(注3)。そうした芸者の姿に庶民の娘たちがあこがれの眼差しを注いだのだろうか。しかし、芸者とは、その多くが花柳界の厳しい掟の世界に身を沈めた人たちであり、本来的には憧憬の対象ではない。
男たちにとってどうなのかだが、例外はあるにしても、やはり多くは嘘で固めた疑似恋愛の世界であり、谷崎的な賛美はどこかおかしい。女性の圧倒的な不利を前提にして成り立つ世界、男と女の歪んだ関係によって生み出されたあだ花が芸者であり花柳界だった。そして大正時代には芸者の栄光は過去のものになっていく。
ただ、あだ花であれ芸者たちの存在感は大きかったし、前回触れたように、諸芸の保存保護に花柳界が果たした役割も大きかったと思われる。いけばな史においても無視できない何かがあるに違いない。今回は状況証拠からそのことを示したかったのである。これまで、この方面のことは、あまりにも過小評価されてきたのではないか。
(注1)山川菊枝『おんな二代の記』岩波文庫、2014刊。(初版は日本評論新社、1956年刊)。
(注2)近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』講談社文庫、1983年刊。(初版は講談社、1980年刊)。
(注3)「YouTube」ototatchinuru18「添田唖蝉坊・現代節/土取利行(弾き唄い)2012,6,5」より、(2025,6,13視聴、添田知道の解説に大正4年の唄とある)。
(図1)出典は『レンズが撮らえた 幕末明治の女たち』山川出版社、2012年刊。
🔴お嬢さまから女工まで、そして川上貞奴とセーラー服の女工たち
(初出「日本女性新聞」2015,5,15 第9回)

女性という視点で明治のいけばなを観察してみると、様々な社会階層にいけばなの流れがあることに気づかされる。上流階級のなかにもいけばなは生きていたし、江戸の伝統を引き継ぐ庶民や花柳界においても同様である。とりわけ新中間層が見逃せない。
前にも触れたとおり、新中間層の娘さんたちの多くが女学校に通い、勉学と稽古事に励んだ。日露戦争あたりまでの高等女学校進学率はわずかだが、明治末には5%をこえ、大正末までに15%に上昇する。かなり裕福で教育にも熱心な家庭が想像できる。自由を謳歌できる女性たちが初めて一定の「層」として登場したのである。
しかし、時代を覆っていたのは良妻賢母主義であり、そのためにバッシングを受け、〈 虚栄心 〉〈 軽薄 〉〈 はねかえり 〉等々の言葉を投げつけられた。(図1)は、明治38年の『滑稽新聞』に掲載された風刺画である。当時の典型的な女学生ファッション、海老茶袴の女学生を、エビに見立てた図である。しおらしく新年の挨拶をしているが、いつでもエビのように「はねかえる」準備ができている、という意味らしい。
彼女たちによって独特の用語が生まれた。虫の好かない教師には〈 ナフタリン 〉というあだ名をつけ、頭の悪い人を〈 コンマ以下 〉、お転婆を〈 ヤンキー 〉と呼んだ。ヤンキーがこんなに古く、しかも女学生用語だったとは!
女学生文化の力を教えてくれるのが「造花」である。日露戦争後に盛んになった手芸産業に造花があるが、造花の流行を促す動機となったのは〈 女学生の髪の上の粧飾―花簪の変遷 〉(注1)だというのだ。女学生の流行が産業にまで影響したわけで、今も昔も女学生はあなどりがたい勢力なのである。ついでに記しておくと、明治35年頃に流行した「廂髪(ひさしがみ)」、明治40年頃に流行した「リボン」なども女学生の流行であった(注2)。
下流層「女工」についても触れておきたい。厳しい労働条件で働かされていたのが女工だが、明治40年頃になると、紡績工場などで女工の寄宿舎が整備され、〈 そこでお花の稽古や裁縫 〉などが教えられたという(注3)。労働運動の高まりに対処するためのアメとムチであり、労働条件は相変わらずひどかった。ただ、面白い例がある。

川上貞奴は、大正7年に絹布会社を設立した。社長である貞奴の生涯は波乱に満ちている。芸者の卵の時に岩崎桃介と恋をするが実らず、桃介は福沢諭吉の娘と結婚して福沢桃介となり、貞奴の方は伊藤博文が旦那となって一本立ち。その後、貞奴はオッペケペ節で知られる川上音二郎と結婚。川上一座の海外公演で女優デビューし、国際的な評価をえて、日本初の女優となった。音二郎の死後、再び桃介と愛し合い、彼の援護で会社を経営、それが川上絹布株式会社である。
女工はそろいのセーラー服に靴、昼休みはテニスに興じたし、プールもあった。勤務時間も夕方5時頃まで。そして全寮制なので夜は茶、花、和裁を習った(注4)。あの『女工哀史』の時代に、である。
特殊すぎる例だが、先ほどの紡績工場の例もあり、いけばなが女工にも浸透していったと見てよいのではないか。だとすると、お嬢さまから女工まで、女たちのいけばなの裾野は広い。
(注1)『女子の新職業』内外出版協会、1905年刊。
(注2)『20世紀のフォトドキュメント第3巻』ぎょうせい、1991年刊。
(注3)隅谷三喜男『日本の歴史22』中公文庫、2006年改版刊。(初版は1974年刊)
(注4)山口玲子『女優貞奴』朝日文庫、1993年刊。
(図1)出典は稲垣恭子『女学校と女学生』中公文庫、2007年刊。
(図2)出典は御荘金吾「ピカソが描いた川上貞奴」『毎日新聞』1979年2月28日夕刊。
川上一座の1900年(明治33)パリ万博公演で、貞奴はパリの一大センセーションとなった(『女優貞奴』)。
🔴女師匠の収入
(初出「日本女性新聞」2015,6,1 第10回)

明治38年刊の『女子の新職業』については前に触れた。それと同類の本『文化的婦人の職業』(注1)が、約20年後の大正13年に発行されている。この間にいろいろな変動があった。明治45年は天皇崩御によって途中から大正となり、大正3年には第1次世界大戦が始まり、日本経済は戦争景気に湧いて成金ブームが到来する。ただ戦争が終わると不況となり、大正12年には関東大震災に見舞われた。そうしたアップダウンはあるものの産業の近代化は確実に進み、日本は資本主義社会としての姿を鮮明にしていった。
それを反映して『文化的婦人の職業』には様々な職種が紹介されている。女工と呼ばれた女性労働者、看護婦、事務員、教員、店員、女中。電信や製図の技術員にも女性が進出しているし、婦人タイピストは2万人となった。医師、薬剤師、産婆、美容術師、裁縫師。さらには女囚看守、婦人探偵、婦人伝道師というものまである。この頃には女優もようやく職業化してきたようで、〈 3ヵ月修業女優月収3百円 〉といった誇大広告にだまされるな、そんな甘いものではない、といった忠告まで登場している。
茶花道の教授なども、〈 婦人に最も適応した仕事 〉として紹介されている。花の稽古はたいてい月6回がきまりで、初伝、中伝と進み、4年くらいで奥許をえて初めて職業とすることができるとしている。師匠の収入はどうかというと、都市と地方では違うし、上流家庭の多い地域とそうでないところでは大きく違うという。平均すると1人の月謝は3円、花代は門弟がもち、それに初伝20円、中伝30円、奥伝40円の許し料を払う仕組み。
だから〈 20人の弟子があれば女1人の生活には困りません 〉とある。60円+臨時収入が月収というわけである。ちなみに師範学校出の小学校女教師の初任給は45円(東京)で、当時最高の給料をもらっていた女教師の月俸は100円だった。だとすると門弟20人からえる収入はそれなりの金額だったのかもしれない。
門弟の側から見ると、仮に花材費や臨時出費を合わせて2円とするなら、月々5円くらいは必要であり、年間出費は60円となる。この頃の早稲田大学の授業料が年140円、東京帝国大学が100円である。1年花を習うお金で早大に約5ヵ月、帝大に約7ヵ月通える計算になる。はたして花の稽古代は高いのか安いのか?
門弟の数だけでは師匠の収入はわからない。出稽古というのがあって、こちらの方が高収入になったようなのだ。ある金持ちの家は、〈 月4回来る茶の道活花の師匠に、毎月50円 〉出していたとある。このような出稽古が4軒もあれば月収200円となる。これはかなりの金額である。
そういえば工藤昌伸が、自著『日本いけばな文化史2』所収の対談で、昭和初年代のこととして〈 出稽古先を5つもってたら左うちわ 〉だったと語っている。ある出稽古先は、〈 執事さんが人力車に乗って毎月のお手当を届けにくる。当時の物価と比較すると、一軒の家が買えるほど 〉だったと(注2)。この話は伝聞のようなので正確さを欠くが、出稽古の比重の大きさを象徴する話だ。
お金の話は嫌われることが多いが、大間違いである。女性の自立にとって大切なことであり、懸命に生きた女師匠たちの姿がそこから見えてくるはずである。
(注1)『文化的婦人の職業』自光社出版部、1924年刊。
(注2)江戸文化研究者の田中優子との対談。工藤昌伸『日本いけばな文化史2』同朋舎出版、1993年刊。
(注)大学の授業料などは、『値段史年表 明治-大正-昭和』朝日新聞社、1988年刊を参考とした。
(花女03|芸者といけばな、他 おわり)
