見出し画像

花女12 | 東京暮らしは何のためだったのか?

2025年9月10日/記 
(敬称略)

 女性の活動を見ようとすると、どうしても生活から目をそらすわけにはいかない。日本女性の多くは、生活に足を絡め取られて、思う存分な活動ができていないからである。半田唄子のような強烈な個性をもった人物でも、例外ではなかった。しかも「ともに花の道に」生きることを目指して中川と結婚したわけだから、創作を後回しにするような生活は耐え難いものだった、と推測する。
 私は半田とは一面識もないので、単に資料を読み込んでいっただけである。が、それでも、資料の行間から漏れ出てくる、半田の苦悶の声に気づかされる。だから、〈 中川幸夫は貧しい生活に甘んじながら、よく頑張った。それを半田唄子はよく支えた 〉といった、世間的美談で済ますわけにはいかないのである。まずは漏れ出てくる半田の声に耳を傾けてみよう。 


🔴中川幸夫の尻を叩いて

(初出「日本女性新聞」2016/12/15 第35回)

半田唄子《中空に立つ》 カヤ 李朝白磁壺 1974年

 前回、半田唄子と中川幸夫の六畳一間の生活に触れた。それに関連して追記しておきたいことがある。ある時から同じアパートにもう1室借りてアトリエにしているのである。この1室増は、単にアトリエを入手したという以上の意味がある。なにしろ個性の強い作家同士である。
 例の『日本女性新聞』のインタビュー(注1)によると、半田は〈 ダンナさまといったことは一度だってない 〉という。中川に言わせても〈 お前はハイといったことがない 〉〈 我の強いのにはテキながらあきれる 〉ということだ。以下、インタビュー記事を参考に2人の生活に迫ろう。

 狭い部屋での極度の緊張状態。だから1室増は、2人がせめぎ合う状態からほんの少し解放されたことを意味する。しかし、当然ながら、経済的にはより厳しくなった。そもそも2人はどのようにして食べていたのか。
 上京後の2人は経済的に苦しい生活をしていた。が、ある日〈 初めて仕事の依頼が中川に来たのです。渋谷のパウリスタという喫茶店に生けてほしい、というわけです。ところが、中川は「オレはダメだよ」というんですね。実は、戦後の私の体験がものをいったわけです 〉と、半田は回想している。前に触れたように、福岡時代からいけ込みに関して百戦錬磨の半田であった。  
 これ以後の2人の稼ぎの基本は喫茶店、バー、クラブ、料亭などの「いけ込み」であった。半田の記憶によると、その最初が喫茶店パウリスタだったことになる。この文面から、依頼に尻込みする中川、その尻を叩く半田の姿が浮かび上がってくる。
 では、パウリスタのいけ込みをいつ始めたのかだが、1973年まで17年間続けたと語っている。逆算すると1956年。半田は同年の11月に上京しているが、12月頃にもう依頼がきたということなのか(ちょっと早すぎるので、要検証)。それはともかく、どうやら東京暮らしの土台作りは、当初から半田のリードで始まったようである。

 一般的にいけばな人の収入の大半がいけばな教授である。中川も一時期教場をもったことがある。上京翌年の1957年のことで、下田尚利から聞いた話では、小原流の工藤和彦が世話をして渋谷の花屋の2階に教場を開いたという。ただ、すぐに閉じてしまった。教えることには不向きな人だったのである。
 中川と半田は、確かに孤立の道を選んだ。ただ、無援というわけではなかった。この工藤和彦もそうだが、その他の多くのいけばな関係者が中川らを気にかけ、前衛運動の衰退後も様々な形で支援を続けていたことが確認できる。こうしたことは忘れられがちだが、それらは中川の長い不遇時代にずっと続いた援護であり、大切なことだ。

 1966年、今度は半田が教場を開いた。「半田唄子のいけばなゼミナール」である。こちらは1年ほどで閉じた。半田の弟子だった千野に聞いた話では〈 人が集まらず、経費がかかる 〉ので止めたと半田が言っていたそうだ。小説『拈華微笑』(注2)では、「流派」「花型」「免状」のない教授法が理解されず、人が集まらない原因としている。おそらく小説の通りであろう。
 福岡では半田に弟子百人がいたはずだが、それは戦後復興期特有の「職場のいけばな」であった。そうした時代が終わり、高度成長期の豊かな、そして少し贅沢な文化は、「流派」「免状」など、わかりやすいステータス・シンボルを求めるようになったのではないか。1960年代の流派急成長の背景にはこうした流れがある。半田は流れに逆行したのである。では半田は教えることをあきらめたのか。否である。意外といえば意外だが、出稽古を始めるのである。

(注1)『日本女性新聞』1976年7月14日号。
(注2)佐藤和子『拈華微笑』『文学者』第16巻第2号、1973年2月刊。 


🔴大衆化時代に対抗する出稽古

(初出「日本女性新聞」2017/2/1 第36回)

 1960年代、いけばな界は活況のただ中にあった。未曾有のいけばな大衆化時代が出現したのである。そんなに景気がよいのなら1966年に立ち上げた半田唄子の教場だって賑わいそうなものだが、わずか1年で閉じた。この明暗は何だったのか。
 工藤昌伸の『日本いけばな文化史4』(注1)によると、当時の大手流派は、いけばな人口増大に対応するため「教授法の近代化」を図ったという。戦前に安達潮花が行っていたカリキュラムによる一斉教授などを取り込み、大衆化に対応したわけである。一方、60年代の大衆が求めたのは、前回触れたように、わかりやすいステータス・シンボルである「流派」「免状」、そして学びやすい「花型」や「カリキュラム」だった。大手はそうした時代の流れに沿って動き、半田は逆行した。

 しかし、半田の次の一手が興味深い。出稽古なのである。時代遅れの戦前的教授法を前衛の旗手である半田が行うわけで、奇妙な取り合わせである。『日本女性新聞』の例のインタビューで、〈 本当にハダカになっていけばなを勉強してみよう、という人に教えております 〉と半田は答えている。さらりと語られたこの言葉の意味を理解できたのは、お弟子さんの千野共美の話を聞いてからである。

 千野は1971年の『朝日新聞』で半田に関する記事を読み、半田の考え方に共鳴して、すぐに半田のもとに飛び込んだ。流派や免状は最初から論外であったし、カリキュラムに沿ってではなく、優れた師から直接すべてを学ぶ道を選んだのである。1人の弟子を密に教え、1人の師から密に学ぶ。師弟間に信頼関係があれば、出稽古は理想的な教授法である。
 ただ欠点もある。稽古代がネックなのだ。半田から〈 稽古代はお高いですよ 〉と念を押されたという。千野に具体的な金額を教えてもらった。最初は月4回で計1万2千円。花材費も自己負担である。『続・値段の風俗史』によると、1971年当時の国家公務員(上級職試験合格の大学卒)の初任給は月4万円余りである。やはり出稽古の代金は高い。出版社勤務の新米社員だった千野にとって相当な出費だったはずである。

 半田は出稽古の弟子を5人から10人ほど抱えていたらしい。増減があるので中を取って7人だとすると、8万4千円の月収。裕福とは言えないが、それなりの収入である。出稽古は教場を閉じた1967年以降であろう。これで夫婦の生活はかなり安定したものになったのではないか。ただ、住まいは六畳一間+アトリエ1室のままであった。

 なぜこんな生活の細部に立ち入るのかというと、夫婦の東京暮らしの土台がずっと半田の働きで維持されていたことを確認するためである。懸命に働いていた半田がそこに見える。では半田にとって東京暮らしは何のためだったのか。夫を支えるため? 自分のいけばなを追求するため? 、この基本的な事柄が微妙なのである。
 インタビューで〈 私は作家として有名になろうとは思ってもみないけど、中川には有名になってもらいたい、と思いますね。その意味で、中川の作品が悪いと悔いが残る 〉と語っている。まるで夫を支え見守るために生きているかのようだが、しかし、続く言葉で自らを叱咤する。〈 自分の作品が悪いとなお悔いが残るんです 〉と。この時の彼女は69歳、当時としてはかなり高齢の部類に入るが、いけばな追求の手を休めていない半田がいる。

(注1)『日本いけばな文化史4』同朋舎出版、1994年刊。 


🔴世間は夫唱婦随の姿を想像する、冗談じゃない!

(初出「日本女性新聞」2017/2/15 第37回)

『望星』1972年12月号の中川と半田の記事

 アトリエとして1室借りた時期についてだが、森山明子の『まっしぐらの花』によると、中川の手帳に1967年12月に借りた記載があるという。この1室増によって六畳一間に住む2人の緊張状態がいくらかやわらいだ。しかし、誰のアトリエなのかという疑問が湧く。
 共有なのかどうかだが、翌年の中川個展のためというのが直接の動機だったようであり、主に中川が使ったものと推測される。2人に密着取材した小説、佐藤和子の『拈華微笑』も、中川の仕事部屋という設定だ。そして、この小説のなかで半田が1室増について次のようにつぶやく(注1)。

◆〈 (六畳一間の生活は)彼に同化する以外に共存の道がないような日々の連続でした。上京以来の10年の歳月は、女のわたしが自分を無にして生活のすべてを彼に譲り、その仕事を育てるだけの結果になっていました。それだけに、彼が仕事部屋をもったことは、わたしにとっても大きな救いでした 〉。

 小説なのであくまでフィクションとして読まねばならない。が、なんともリアル感に満ちた内容である。

 『まっしぐらの花』によると、半田と中川は入籍しなかったそうだ。半田は上京前に戒名を決めていたとも。森山明子が中川から聞いたか、半田の福岡時代からのお弟子さんである久保幸枝に聞いた話であろう。入籍のことを千野共美に確認した。半田は〈 子供もいるから半田のままで 〉よいと語っていたという。また前夫が亡くなった時に〈 半田先生のお墓も作られたようです。戒名もその時に付けたのでは 〉とのことだ。事実、亡くなってから半田家の墓に埋葬されている。
 半田と中川の間に深い愛情や絆があったことは確かだと思う。でなければ続くはずのない東京生活だった。ただ通常の夫婦の枠内では理解できない人たちだ。2人とも懸命にいけばなを追求する作家であり、それが2人を結ぶ絆の一つとなり、同時に火花を散らす原因にもなっていたと思われる。
 
 1972年の『望星』12月号に2人のインタビュー記事が載っている(注2)。記事のテーマは、ずばり「夫婦とは何か」である。半田は語る。〈 私も流派を解消したのだと言うと、ほとんどの方が、夫である中川の流派解消にひかれて、妻である私が悩みに悩んだ上で解消 〉したかのように思い、〈 夫唱婦随の姿を勝手に想像 〉する。〈 冗談じゃない、私の方が二年も前に解消 〉したというのに。半田は夫唱婦随の通念にとらわれている世間に怒りを向ける。

 世間の通念を引きずった小説が芥川賞作家・芝木好子の『幻華』(注2)である。中川と半田をモデルにしているが、主人公である孤高の前衛華道家は、テレビドラマならイケメンの元アイドルが演じても似合いそうな設定である。2、3歳年上に設定されている妻は、流派に所属していて、退会するかどうか、くよくよと思い悩む。そして退会を決意した頃、主人公は自分を慕う若い華道家と過ちを犯し・・・。
 おいおい、これではあまりにも通俗的。あの苛烈な夫婦関係はどこ、時代に先んじた生き方をした半田の激しさはどこにいったのか。なるほど、この小説、いけばな関連のことをよく調べてはいる。が、各所で棘を抜いて、読者の口に合うように、甘口の描写になっている。
 フィクションであり、エンターテインメントだから、とやかく言うのも野暮かもしれないが、しかし、半田にとっては他人事ではない。先ほどのインタビュー記事より2年前に発表された小説である。半田は読んだはずだし、そしてその時、きっと叫んだであろう。〈 冗談じゃない! 〉と。

(注1)前掲書『拈華微笑』
(注2)インタビュアー児玉隆也「夫婦とは何か① せめぎあいの接点に花が」『望星』1972年12月号、東海教育研究所刊。
(注3)芝木好子「幻華」集英社文庫、1980年刊。(初出は『文学界』1970年11月号、翌年文芸春秋社が単行本化)。



(花女12 |東京暮らしは何のためだったのか?  おわり)


⇑ 目次


いいなと思ったら応援しよう!