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雑11| 再び地域から、岩田正人との出会い

2026年5月10日/記
(敬称略)

 生活圏である「地域」からものごとを始める。自分の人生の基本をそのように定めて、美術活動も地元の愛知県犬山市で開始した。1974年のことだ。気負って「犬山派」を名乗ったけども、現実無視の観念的な設定だったため目算が大幅に外れ、じきに撤退する。次に、地域を拡大解釈して、名古屋文化圏を地元と見なして活動を続けた。前にも書いたとおり、この頃の名古屋は現代美術の伸張期であり、その波に乗って、まもなく若手の美術評論家として認められるようになった。
 では、犬山での活動はどうしたかというと、〈 ここでは無理だ 〉と思い、一時は諦めた。しかし10年ほどのちに復帰する。岩田洗心館の館長の岩田正人(1945~2009)が私を待っていたからである。

地域に根づく旦那衆文化

 岩田正人との出会いがいつだったか、ハッキリとは思い出せない。記憶力のよい岩田なら憶えていただろうが、すでに故人であり、確かめようがない。たぶん、1980年代半ば頃だったと思う。
 岩田洗心館(以後、洗心館)の存在は、帰郷してすぐに知った。なにしろ名鉄犬山駅のホームから目の届く位置にあるのだから、気がつかない方がおかしい。ただ、〈 どうせ金持ちの道楽だろう 〉という先入観があって、足が向かなかった。帰郷後10年ほどしてから、なぜか出かけたのである。そして、いろいろ驚かされた。
 この洗心館、金持ちの道楽には違いないが、館長の岩田正人は、異端の、そしてよい意味での道楽人だった。私が出会った頃の正人は、ちょうど道楽をエスカレートさせるために、相棒を探していたようなのだ。私は待たれていたのである。

 正人の祖父岩田錦平は、裕福な商家であった岩田家の7代目で、市制前の犬山町時代に町長を勤めたこともある。錦平は、岩田家伝来の品々に自らの収集品を合わせて展示する美術館の設立を準備する。しかし、急逝したため遺族が志を引き継ぎ、1970年に財団法人岩田洗心館として正式発足した。前田青邨、村上華岳、河合玉堂らの絵画、楽茶碗などの茶道具類を所蔵展示する美術館である。
 正人に聞いた話では、錦平は絵描きを長期逗留させて絵を描かせたこともあるという。地方都市に根づく旦那衆文化の一例であり、興味深い。正人の代ではそこまでの財力はなかったが、そうした旦那衆の気質を濃厚に受け継いでいたと私は感じた。ただし、旦那衆文化には収まらない欲求が彼にはあった。そこが肝要である。

我が道をいく美術館

 移転のため当時の洗心館は現存しないが、展示室は長方形の単純な構造で、一室しかなかった。それでも一般的な画廊の数倍はあるし、天井も高い。そして、洗心館の周囲には岩田家所有の小ぶりの庭園があり、書院と東屋、小さな池があった。書院(鈍牛庵)は、幕末か明治初頭に犬山藩の城大工棟梁によって建てられたという。東屋の方は、明治村の古建築移築を半数以上手がけた名工、齋藤義隆の作である。

 駅周辺は再開発で急速に変化しつつあったが、この一角はそんな動きには背を向けて我が道をいく、といった佇まいだった。展示室の入り口に小部屋がある。もとはスタッフがここで受付番をしていたが、私が訪れた時にはスタッフは1人もいなくて、受付や事務所を兼ねた館長室に変わっていた。
 館長用の机と椅子、客が2人座れる程度の応接セット、茶箪笥、そして至る所に本や資料が積まれていた。だから空間に余裕はなく、狭い! あとはレコードプレーヤー1台だが、この密室で彼がクラシック音楽を流し、タクトを振るかのような仕草をしながら聞き入っていたのを思い出す。客はまばらだったから、それも許容範囲なのである。

財団法人岩田洗心館・館長 岩田正人  2005年頃

 彼の教養は多彩で、書画や茶道具などへの知識はもちろん、音楽、文学(とくに俳句)、料理、和洋の酒の嗜み方まで、さまざまである。ただ、彼の関心の本筋は哲学であり、若い時からフランスのラカンの研究を続けていた。著書に『ラカン派人間学論集 第1巻』(私家版、1998年)がある。
 私にはついていけない教養の広さだが、現代美術では話が弾んだ。彼は古典芸術を愛するとともに、現代への関心も高く、洗心館に現代美術を取り入れようとしていたのである。その方面での私の活動はすでに知っていたようであり、私はネギを背負ったカモのように歓待された。

議論を楽しむ

 岩田正人は、独特の個性をもった人物だった。陽気で話し好き、というか議論好きであり、彼の教養がほとばしり出るので、面白い。ただ、相手によっては議論から激論に発展して、関係悪化に至る場合もある。
 いつだったか、彼と共に犬山市の文化史料館の委員を頼まれ、会議に出席した。ある議題で、岩田はまっとうな理念を語ったが、同席した市民代表の委員は現実的な処置を提起してきた。岩田は理念を曲げない、どう言われても曲げない、ために口論となる。
 結局、その場は治まったが、行政は市民代表を守り、私たちは仲良くクビということになった。私自身は口論に加わっていないのだから、道連れである。
 彼には繊細な一面があり、口論を望んだわけではなく、むしろ避けたかったはずである。そんな性格だから、あまり外に出ず、洗心館に引きこもる生活をしていた。洗心館は美術館だから美の館だが、彼が生息することによって理念の館ともなり、館長室に入れば、議論を楽しめるのである。私は議論のために館長室に通うようになった。
 通い始めた頃の私は地方公務員をしていたし、名古屋を中心にした批評活動、展覧会の企画、さらに『美術読本(裸眼)』の発行準備などもしていたので、忙しかった。その合間をぬって出かけたのだから、よほど楽しかったのだろう。

(注) 理念を重要視していたのが岩田正人である。今生きていたら、苦痛で顔を歪めていただろう。今は理念が極端に衰退した時代であり、世界の指導者たちの利己的な妄想が世界を席巻している。人々は、まるで童話にあるように、最悪の笛吹き男に導かれ、破滅へ向かおうとしている。

伝統空間の中の現代美術展

 こうした流れで、1987年だったと思うが、ある日、洗心館での企画展を依頼された。当時の私は非ホワイトキューブ的な展覧会を模索していたので、庭園も含めた展覧会を提案し、彼も喜んで承諾した。この頃は、伝統的空間の中での現代美術展などは、まだ稀だったと思う。洗心館、企画者、そして作家にとっても、初めて試みることになるだろうし、いわば実験である。この企画展は、翌1988年に「鈍牛庵の冒険」展として実現した。私は案内文にこう記している。

◆〈 日本の伝統的空間が現代美術にとって生易しい相手ではないことは確かだ。(中略) 建築・空間が抱えている高度な技術や、練りに練られた感性の歴史的な集積を相手にしなければならない。それだけに、現代美術と伝統空間、その両者の対話や競合は興味深いし、現代美術にとってある種の冒険的要素も含まれるはずだ。伝統空間の側には迷惑なことかもしれないが、この際、伝統空間にも冒険してもらうつもりである 〉。

1988年 「鈍牛庵の冒険」展 案内状 
同展 案内状  

 この展覧会に取り組んだ美術家は、山口良臣、坪井昭憲、伊藤香要子、宇佐美智恵丸の4名であった。私が批評活動の中で知り合った美術家たちで、残念ながら犬山在住作家はいない。けれども犬山が現代美術の創造や発信の場になりえることを示した展覧会との自負はある。2年後の1990年には、安里マコト、大野左紀子、椿原章代、廣田綠の女性4人による「鈍牛庵の四姉妹」展を企画開催した。
 この2展覧会が私の犬山復帰の基礎となり、名古屋での活動と並行して、その後も実験的な展覧会を開催し続けた。そればかりではなく、のちには『裸眼』主催による「壱金講座」の重要拠点にもなった。そのことについては別に記そう。
 展覧会を岩田正人館長は、大いに喜び、本気で楽しんだ。なにしろ彼の目の前に好物が並んだわけだし、全作家がそれぞれの新しい挑戦に取り組んでいるから、これらの好物は新鮮である。会期中、彼は、私や美術家、観客らと、入れ替わり立ち替わり、議論に花を咲かせた。 

1990年 「鈍牛庵の四姉妹」展 案内状

洗心館の現代いけばな展

 多くの場合、文化は中央から下方に流れる。上流にあった創造の熱気も下流に流れ至っていればよいのだが、それは簡単なことではない。日本文化の体質的な問題がまとわりついているからである。その点について、犬山復帰の前に書いた小論文があるので、付録として再録しておこう。その論文では、外来文化の日本化の体質、とくに明治以降の〈 性急な近代化 〉の中に潜在する問題を語った。文化の先進性と後進性についても触れているが、それは国内における上流と下流の構造を意識して書いたつもりである。

 私は若い頃から日本文化の体質を問題視していた。今から考えると、それがいけばなに関心をもつ理由の一つだったようだ。そして、いろいろな段階をへて、いけばなへの関心を深めていくのであるが、展覧会を開催したのは1992年の「鈍牛庵の華」展が初めてである。これは鈍牛庵シリーズの第3弾として開催した。

 当時の私は、まだいけばな界事情に疎かったので、愛知県豊田市在住の現代いけばな作家かとうさとるに協力を依頼し、かとうを企画者に立て、私がプロデューサー役を担う形で取り組んだ。関東を中心に活躍していた新鋭現代いけばな作家の假屋崎省吾と坂田純に加えて、中部の若手であるアマノエリカ、佐伯千佳、柴田善弘、水谷俊之が参加した。
 そして、この展覧会について、『新美術新聞』の恒例アンケート特集に以下の文を書いた。現代いけばなに対する当時の私の考えがよく出ていると思う。
 
◆〈 表現の自由、表現方法の自由という意味で、現代美術と現代いけばなは区別のつかないところにきている。だが、それでいて、西洋造形とは全く異なる造形の在り方を、現代いけばなが今も抱えもっていることに注目させられた。現代化に足踏みをしている日本画をのりこえ、いけばなが日本美術の現代化に先導的な役割を果たすかもしれない。また、拡散と錯綜の中で日本の現代美術が「根」の弱さを露呈し始めているだけに、日本的伝統と現代を交差させる現代いけばなの動向は興味深いのである 〉。
  (『新美術新聞』「1992年の美術界」1992年12月11・21日号)

1992年 「鈍牛庵の華」展 案内状

 この展覧会以後は、私自身が企画者となり、中部の野畑光風、関西の松井清志、田中美智甫らに取り組んでもらった。ずっとのち、移転後の洗心館では上野雄次の花いけライブ‣パフォーマンスも企画した。

知る人ぞ知る秘湯―創造の源泉

 洗心館で開催した現代いけばな展のもっとも熱心な観客は、私と岩田館長だった。美術の文脈では理解できない作品が目の前に現れるので、2人で驚き、騒いだ。作家に〈 どうしてこんな造形になるの? 〉と聞いても、〈 さあ、どうしてでしょうね 〉と答えるだけだ。器にいけるなどの、一般的ないけばなに携わってきた手の経験がベースになっているものと思われる。新しい造形を自分で生み出しながら、言語化するのがむずかしいらしく、彼らはあまり理屈を語らない。
 理屈好きの岩田と私は、困惑した。現代美術の影響が認められはするものの、それだけではないものがあり、現代美術の文脈では語れないのである。手本となる理論がないと言ったらよいだろうか、それがかえって私たち2人を刺激し、あれこれ理屈をこねることになった。
 現代いけばなの活動は東京中心に展開されているが、そこから遠く離れた犬山で、いけばな議論が局地的に盛り上がったのである。大理論には至らないものの、小さな理論の源泉であり、ポコポコと湧き出す熱湯議論に私たちは心地よく浸った。
 関心をもつ美術関係者はいなかった。この頃は、世間を騒がせた前衛いけばな時代は遠い過去の話だったし、中川幸夫が著名になったり、假屋崎がマスコミに登場したりする前の時期だった。世間的な意味では、いわば凪いだ状態だったのである。関心をもつ人がここに集まればミニ温泉街くらいにはなったかもしれないが、ついに知る人ぞ知る秘湯にとどまった。
 居心地はよいのだが、これだけではいかんと、私は源泉の熱湯を、その熱さを必要としていた東京に運んだ。ちょうどこの頃、前衛いけばなの残党、下田尚利と親交を結んだ。下田と出会うことで私は本格的に現代いけばなに関わることになったし、下田には洗心館でのシンポジウムに出席してもらったこともある。中川幸夫にも講演を頼もうと岩田と計画したが、その頃には中川が有名になりすぎて招きづらくなり、断念した。
 いろいろあったが、ミニ温泉街にはならなかった。私にはそうした仕掛けをつくる能力に欠け、努力もしてこなかったからである。もともと温泉街の賑わいよりも秘湯の味わいの方に愛着がある。だからその結果だと言えそうな気もする。
 それはともかく、秘湯での議論が私のいけばな批評や研究の基礎の一部になっていることを、ここに明記しておきたい。 

その後

 岩田のような才人は地域外でも活躍できるはずだと思い、外に引っぱり出そうとしたこともあるが、残念ながらすぐに引きこもってしまう。もちろん、岩田と洗心館は、その後も秘湯の役割を担い続けた。岩田には『裸眼』のメンバーになってもらったし、先述した「壱金講座」の会場として洗心館を提供してもらった。また、講座の常連だった若手現代美術家の有馬かおるに岩田家所有のアパートを貸し、有馬運営の「キワマリ荘」や「ART DRUG CENTER」創設への道を開いた。有馬に対して精神的な相談役といった役割も果たし、大きな影響を与えている。その辺りについては別に記したい。

  晩年の岩田はなぜか数学に凝り始めた。私は学生時代には工学部に在籍していたことがあるが、数学の専門的な話などは理解不能で、まるで議論の相手にはなれなかった。そんな中、予想外の急死である。享年64歳、少し急ぎ過ぎた死であった。
 今も生きていれば、と思う。そうしたら、老人2人が、老化した頭と体で訳のわからない議論をしている姿が見られたはずなのだが。


(雑11| 再び地域から、岩田正人との出会い おわり)



🔴  付 録 

この小論文は、東京の若手美術関係者による批評誌『象通信』(編集ー北澤憲昭)に書いたと記憶している。「記憶」としたのは、表紙や奥付を紛失したからで、号数は不明だが、1983年秋頃の発行だったと思われる。

「サロメはサロメ」

                                        三頭谷鷹史

 欧米の都市→東京→名古屋、美術のニュー・ウェイヴが私の手元まで届くには、どうやらかなりの時間が必要のようだ。欧米から東京までに数年、東京から名古屋までに半年から1年、おおよその目算でその程度に見ておけばよかろう。そして私の住む人口6万余りの犬山市へ届く前に、波は消えている。誤解されてると困るからおことわりしておきたいが、単純に情報らしきものが入らないというほど私の住むところは僻地ではない。情報らしきものや美術のニュー・ウェイヴといわれるものが実際に人々をひきつけ、感受性にうったえかけ、根づくこと、そうした文脈の中で見ておきたいのである。そして地方という視点から見た場合、美術がいかに動きの鈍いものであるかを知ってもらいたいのだ。

● 外来文化の日本化

 中小都市で毎年開催される市民美術展などを一見すれば、美術の緩慢な動きがよくわかる。明治以来のさまざまな美術の波が、ここでは仲よく共存し、いくぶん淀む気味はあるにしても、ゆったりと流れている。教科書的な美術史とはまるで別物のようだ。現代美術といった特定領域にこだわらずに美術の全体を眺めれば、誰しもこの流れが日本美術の根幹を流れる大河であることを納得するだろう。古代から綿々と続く文化受容の歴史の中できたえられてきた外来文化の日本化の体質、日本の隅々まで血肉化したこの体質が、日本美術のゆったりとした流れをつくったと言ってもよい。
 岡倉天心にアジア文明の博物館と言わしめる多様な豊かさは日本文化の美しい特質である。明治期の優れた感性が、天心にしても漱石にしても、文明開化のような性急な近代化に対して抱いていた違和感は、日本文化の根幹に根ざしているように思える。決して前進を拒んだわけではないが、進み方によっては失うものの大きいことを知っていたからだ。ある意味では、確かに美術は性急な歩み方をしていない。海外からの波を日本的風土の中に解消しながら、日本美術の体質的変化を最小限に食い止めたとも言える。海外遊学から帰国した美術家の悩みの種はこの日本的体質とのズレにあったようだ。帰国した彼らは、たとえば黒田清輝のように、海外時代の延長でもって創作することの困難を思い知らされる。そして日本的変質・折衷をせまられている。
 なによりも天心ら明治期の良質な感性が新しい時代の波にさらされながら、安易に前へ進むことも後へ退くこともできなかった事実に注目しておかねばならないだろう。戦後美術がこのやっかいな問題に解答を見出したとは思えないからだ。

● 文化の南北

 名古屋には欧米からの直輸入型の画廊、むしろ小さな商社とでも言った方がわかりのいい画廊がある。ここにはビジネスがある! いつもそんな感じを抱きながら入っていくオフィース、すなわちアキライケダ・ギャラリーの今回の商品見本はサロメ(新表現主義の現代美術家)。そして今、問題にしたいのはサロメのうけとられ方と日本への根づき方である。二つの批評文の印象からそれをあぶり出してみようと思う。
 一つは『美術手帖』1983年9月号の早見堯のサロメ評である。しばしば見かけるタイプ、批評のようで実質は紹介文と見なせば、特に早見だからというわけではない輸入美術の構造があらわれている。思い込みのなさと判断保留がそうだ。なぜ早見がサロメを批評しなければならないのか、彼のサロメへの思い込みが文章から感じとれない。何度か読みなおすうちに、むしろサロメとの違和感や反発が行間から匂うような気がしたが、どうだろう。もしそうなら明確に書いてほしい。このままでは彼自身の視点が不明なまま、従来の海外論調の輸入と、そのじゅずつなぎのような批評に終わってしまい、結局は彼自身の判断保留につながるのではないだろうか。だからあえて素朴な問い掛けをしてみたくなったのだ。なぜ彼はこんな書き方をするのだろうか。なぜ『美術手帖』はこれで用がたり、なぜ私たちはこれで了解するのだろうか。このことは私たち共同の責任として問われるべきだと思う。
 この判断保留は本当の保留ではなく、実は欧米の美術と批評の成熟を待つという姿勢、欧米のもっともオイシイところをいただこうとする日本の産業界と同じ姿勢を隠しもっている。しかも、たとえ欧米の成熟が未完成であっても、たえずその成熟を期待し続けることによって、私たちはなにがしかの幻想を手にすることができる。サロメへの判断を保留しながら、なおサロメへの期待は充分に手にすることができるのだ。私たちは文化における南北問題を悪用しているのではないだろうか。南(後進性)の不幸からはまぬがれながら北(先進性)の責任を回避し、北よりは少し低目の位置をいつも確保する。そして北への「あこがれ」をバネにして幻想の文化で身を包むのだ。日本におけるサロメはこうして判断保留のまま期待され続け、輝くのである。

● 旅人の眼

 もう一つの批評文、『EOS』3号の高橋信也の文章の方が私には納得しやすかった。パリからの報告だが、ていねいな説明のうえで加えられた報告者のメッセージ、すなわち批評は、何も知らない私にもどうにか了解できる。もちろん早見の文章と比べて二倍弱の量、サロメの平面作品とパフォーマンスの両方に立ち合っているといった事情の違い、それらは勘定に入れておかねばならないだろう。それにしても、読む側の視点の関わるチャンスが多い批評を、やはり選びたいのだ。いかに国際化が進もうと、まだまだ海外美術の現場性を手にとることができるのは特権的位置にあると考えておいた方がよい。だから現場を知らない私などは親切な報告を要求したいのである。ほとんど初歩的な問題と思われるかも知れないが、初歩をかえりみないがために何度となく私たちの美術はあやまちを繰り返してきたのではないか。
 そこでもう一度踏み込んで考えてみよう。早見や高橋の批評文は、その対象とするものが在日作品であれ海外にあるものであれ、広い意味での紀行文ではないかと思うのだ。その作品が生まれた歴史的背景や風土、作品の日常的な生産と享受をささえる文化的土壌、そうした作品の血縁とは別の関わり方が彼らの文法ではないだろうか。旅人の眼である。異邦の地を旅しながらときおり写しとってくる風景写真のように、一瞬の鮮烈な記憶であったり、美しい思い出であったりするが、その異邦の地がそれぞれ抱えているであろう日常の重みまでは写しとれない。これもまた初歩的な問題である。しかし現代美術が紀行文批評によって活力を得てきたこと、今も刺激を受け続けていることを認めるなら、この初歩的な問題は主要な問題として生きている。
 紀行文批評が悪いと言っているのではない。その限界を充分に見積もっておくならば、異邦の地のたった一枚の写真さえ私たちの現実にとって必要な刺激的材料となるし、私たちの現実を確かめるよい道具にもなる。ただその有効範囲を越えるほど一枚の写真が権威化され、逆にその写真を尺度にして日本の現実を切りとっていくような現代美術の構造が、紀行文批評を悪文にしているのだ。また現代美術の連続性のなさ、まるで写真で切りとられたかのようだが、先行する美術とニュー・ウェイヴとの間の深すぎる「みぞ」に、欧米美術の展開とは違う事情の反映を予想しておくべきだろう。

● サロメはサロメ

 さらにもう半歩くらい踏み込もう。現代美術の不連続な展開は美術全体の連続性に対して本質的な変化を与え得るだろうか。冒頭で述べた日本美術のゆったりとした流れを変えるだろうか。今日の美術で目立つ変化といえば、交通と情報の加速にともなって現代美術の不連続な波が小きざみになったことだが、美術全体への影響はそれほどでもないだろう。しかし、もう一つの変化は重要だ。かつて明治期の良質な感性が新しい波にさらされながらどう進むか深く悩んだ問題を、今日では不連続と連続との二重性に解消してしまった。かつての緊張が今日の構造にすりかわってしまったのである。構造化によって、現代美術の不連続な波と日本美術全体のゆったりとした連続性とは、相補的な安定関係を約束し合うのである。
 ニュー・ウェイヴの華やかな動きは小きざみな波紋を見せてはくれるだろう。だが緊張を失った日本美術から何が生まれるというのか。日本文化の特質である多様な豊かさは、外来文化の刺激とともに、たいていは日本独自の努力がなされた時代に生まれていることを忘れてはならないのである。サロメはサロメ、それでいいではないか。そして私たちが自分自身の現実の中に主題を見出した時、あるいはサロメを参照する必要があるかも知れない。その時はサロメ論を書いてみよう。決して遅くはないのである。この日本美術のゆったりとした流れの中では。

(付録 「サロメはサロメ」 おわり)


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