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君の名は 第8回 大弐三位

大弐三位って?

平安時代藤原彰子に仕えた、宮廷女房で歌人としても有名です。といってもわからないですよね。小倉百人一首にその歌が採られてもいるのですが、かるたが得意な方でも、素性を知らないかもしれません。

平安時代の女流歌人といえば、和泉式部赤染衛門そしてもちろん、紫式部清少納言

大弐三位は、この時代のキサキでもない身分で、諱のわかっている稀有な存在。実は紫式部の娘です。対して、上述の女性たちは、諱が知られていません。

では、大弐三位について、お話ししましょう。

両親

母は、まだ宮廷に出仕していなかったころの紫式部、父はその夫藤原宣孝です。2024年のNHK大河ドラマ光る君へ」でご存知の方も多いでしょう。

父とは、紫式部の他にも妻があり、ときどき訪ねてくるような関係でした。家庭において、祖父・藤原為時のほうが近しいかんけいだったかもしれません。

紫式部は、父の越前国赴任い同行したことから、都でも同居していた可能性がとても高いので、大弐三位も同居していたはずです。紫式部の兄弟、惟規とも幼いころは同居していたかもしれません。

そして諱は、賢子。祖父か父の命名でしょう。なぜ諱がわかっているのか、おいおい説明いたします。

父を早くに亡くし、母のもとで賢子は育ちます。祖父為時は長命であったことが確認できるので、同居していたでしょう。

大河ドラマでは、この家庭が極めて貧しているように描かれていました。しかし、受領層一般と考えると、使用人が10人くらいはいたはずです。

また、式部を含めて「姫」と呼ばれる女性たちが、日の当たる軒下まで出てくることはなかったはず。仮に、紫式部が例外だったとしても、藤原道長の嫡妻、源倫子のようなお姫様はあれはあり得ない。

源氏物語」でも、女三宮が御簾の揺れで姿をよその男(柏木)に見られる。それが、軽々しい行いととがめられるような時代です。

それこそ「深窓の令嬢」。夫・藤原道長でさえ、ちゃんと顔を見ることができたのは、寝室の灯のもとでだけです。

紫式部の父は受領層ではありますが、学者・漢詩人とし有名な人でした。世渡り上手でなかったことは、官位の変遷を見ればわかります。けれども、漢詩の会などには招かれて、上流貴族とも交流がありました。

また、私見ですが、藤原道長の家あるいは兼家(道長父)の家の「家人」的存在だったのではないかと思います。「家人」というのは上級貴族と私的に臣従関係を結んでいる人を指します。

はっきりと「家人」とされていなくとも、ゆるい関係はあったのではないかな、と思っています。紫式部源倫子の女房だったという説があります。

そうすると、親娘同時に、ときの左大臣源雅信で倫子の父の館・土御門第に居た道長と、そうした関係は想定できないこともありません。

また「尊卑分脈」に藤原道長妾とあるのも、本当に男女の関係にあったかどうかはともかく、同じ館に暮らしていた時期があったとすれば自然です。

話を賢子に戻しましょう。祖父の館にあるとき、母はもう「姫」とは呼ばれません。なので、家族からも使用人からも「姫」と呼ばれてはずです。姉妹がいれば「一姫(いちのひめ)」ですが、ひとりっこです。

そして、本来「姫」ならば、外出もしないので同居しているひとびと以外は噂しかしらない、という普通の状態であったでしょう。これは一般論ですが。

裳着・出仕

18歳くらいまでに、裳着を済ませていたようです。あるいは、諱はこのときつけられたのかもしれません。

1017(長和6年)、既に夫・一条天皇を亡くし、落飾して上東門院となっていた藤原彰子のもとに出仕します。このころ「源氏物語」は、まだ完成していなかったはず。

母、紫式部も同時に出仕していた可能性は高いでしょう。藤原実資は、聡明な式部を信頼して、上東門院に用があるとき、式部を頼っていたふしがあります。「小右記」

恋と結婚

紫式部は、宮廷女房としては浮いた噂のきわめて少ない人でした。一方、賢子はなかなか奔放だったようです。関係があったと噂される公卿は何人もいます。

正式な結婚(といっても、同居するわけではなく、公表された関係という程度)は2度。藤原道長の甥で藤原道兼の息子・藤原兼隆がひとりめ、高階為家がふたりめです。

そして、ふたりの夫との間にそれぞれ一女・一男一女をもうけました。

なお、賢子が出仕した初期は「越後弁」と呼ばれていたようです。父は既になかったのですが「弁官」にあったことがあり、祖父の前職「越後守」と合わせて、その名となったのでしょう。

後冷泉天皇


御所の桜

賢子が出仕したころ、皇位にあったのは上東門院の長子・後一条天皇でした。けれども、この方には男子を得ないまま崩御されます。

皇位にあるまま崩御というのは異常事態だったのですが、皇太子に立てられていた同母弟・後朱雀天皇に位は移りました。

御朱雀天皇は、叔母にあたる上東門院の同母妹、嬉子東宮のころに結婚していました。ふたりの間に、第一皇子となる親仁親王(親王宣下は少しあと)が誕生します。

しかし、母は産褥か流行病かで、出産2日後に亡くなる。そのためこの親王は上東門院のもとで養育されることになりました。

後見も血筋も格別のプリンス・親仁親王次代皇太子の有力候補。この方の乳母賢子はなりました。上東門院の信頼が厚かったのでしょう。

直接乳を差し上げたかどうかは確証はありませんが、最初の結婚での出産とタイミングは合います。

このころ、賢子は「弁乳母(べんのめのと)」と呼ばれていたようです。

1054(万寿2)年、重篤な病(悪性腫瘍といわれる)の床にあった父帝からの譲位を受け、親仁親王は即位しました。後冷泉天皇です。

このとき「天皇の乳母」の資格で、賢子は自身の血筋を数代遡らなければみつけることのできない「三位」の位を与えられました。

このころ、夫はふたりめの高階為家。彼は東宮(のちの後冷泉天皇)に付属する役所の官人でした。かれは妻が三位となったとき、大宰府の大弐(弐はカミに次ぐ地位・スケと同意)に任命されています。

ここで、賢子は夫の官名と自身の位記により「大弐三位」となりました。また「三位乳母(さんみのめのと)」とも称されています。

賢子は長生きをしました。80歳くらいと思われる時期に歌合に参加したことがわかっています。このころ皇位にあったのは白河天皇。院政期をスタートさせる方です。

摂関期全盛期から、院政期の直前までを生きたことになりますね。

おわりに

いかがでしたでしょうか。大弐三位。天皇のキサキではない女性でなくとも乳母となると、高い位を得ることができるということを知っていただけたと思います。

鎌倉時代の「卿局」や「北条政子」も、この地位にありました。源平争乱期の有名な僧・信西の妻も夫を差し置いて、三位にやがて二位に位を上げています。信西は僧なので、位記とは無関係なのです。

今日は、あまり長くならずに済みました。明後日5月15日から、ちょっとお休みするかもしれません。

今日も、ありがとうございました。


参考文献

「尊卑分脈」   国書データベース
「小右記」    国書データベース
「紫式部日記」  角川ソフィア文庫
「紫式部」    吉川弘文館
「女たちの平安後期」 中公新書
「大鏡」     国書データベース
「栄花物語」   国書データベース



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