大婆様の実務と権威─口承から見える“もうひとつの日本女性史”|シリーズ 日本におけるジェンダー 1
戦前の日本社会における女性の姿は、戦後に輸入された「サラリーマンと専業主婦」という家族像によって大きく歪められてきました。法の上では無能力とされながらも、実際には家の実務を担い、地域を動かし、ときに当主以上の権威を持つ女性たちが確かに存在しました。私は、幼い頃から母に聞かされてきた物語を手がかりに、庄屋の家に生きた高祖母を中心とした記憶を再構成し、語り部として戦前女性の実像を描き出していきます。
草津温泉日記 2026年6月2日
今日は、曇って少し寒い草津温泉の街です。応仁の乱を追っていくうちに、日本の女性の地位について考えていました。日野富子は、応仁の乱の原因を作った、とか、乱で大儲けした、とか。
これらのナラティブは、明治期からの男性史家によって提示され、司馬遼太郎が「歴史の事実」にしてしまったものです。
中世の女性は、つまり自律的に行動できたと読み替えましょう。今日から不定期「日本歴史時代の女性の地位」を書いていきます。歴史を古代から始めてもよいのですが、今日は、戦前の女性の話。
私も還暦を過ぎました。今日は、語り部として振る舞います。
序

今年、間もなく91歳になる母は、とても話し好きな人物です。端的にお喋り。現在は足腰は弱って、外出も難しく、認知症もそれなりに。ただ、昔のことはよく覚えています。
この母から、幼い頃から様々なことを聞かされてきました。現在でも、今日の論考のような思考をする際、わからない点を尋ねれば答えてくれます。
母から聞いたきた物語を、現代の「語り部」として、高祖母を中心に再構成していきます。
庄屋
庄屋・規模
数代前、維新前たぶん、に、大庄屋から別れた分家でした。が、分家といっても広大な農地を保有し、作人を多く抱えていました。私の父方は山間の土地で廻船問屋をしていましたが、その地域全部の田地と、母方の庄屋が支配した田地がほぼ同じ規模だったそうです。
名字帯刀を許された家系であり、武田氏と血縁であるとの伝承もありました。
庄屋の家督
私が知る限り、つまり、明治期以降、養子が入ったことはなく長男が家督相続をしています。
祖父の代に限ると、その時々の家産が許す限り、高等教育を受けることができました。ちなみに、祖父は師範学校、祖父の弟は商船学校を出ています。ひとり、アメリカへ行った人がいた、これはもしかしたら祖母の家かもしれません。
庄屋の婚姻
ほぼほぼ、同じ階級で婚姻は行われたようです。今日の主人公・大婆様は「絹の家」から、嫁入りしたと聞かされてきました。
母の両親は、まずあり得ない大恋愛の末の結婚でしたが、それでも祖母の家は小規模の庄屋でした。
食事風景
親族が集まると、高祖母・曽祖父・曾祖母が上座に、以下、男子が座敷に坐ります。ひとりひとりに膳がつく。祖父には姉妹がいません。男子のみの6人兄弟。姉妹いたら、どうなっていたのかは、だからわかりません。
わかっているのは、座敷は男子でほぼ埋まり、次の板の間に嫁たちの膳。高い地位の使用人が続き、末座は土間だったようです。
大婆様

家の中心 庄屋どの
当主曽祖父は、庄屋その人であり、もちろんひとつの中心です。多くの作人を差配し、高額納税者。これら男系は「村長」的な役割も持っていました。
支配地に揉め事があれば、裁判官ともなります。米作に関しては、税を納められる側でもあり、納める側でもあります。金貸しの一面もありました。蔵に「借用書」がたくさんあったと、これは伯父から聞きました。
ただ「借用書」が残っている、つまり返済はされていないのです。ということは、金貸しというより、その形をとった慈善家でもあったのでしょう。
庄屋同士の関係・土地の差配・村の顔役。公的な面では庄屋に家の中心はこの庄屋どの本人にありました。
大婆様と婆様
もうひとつの中心は、当主の母である大婆様=私の高祖母にありました。いずれは、曾祖母に譲られる地位でした。終戦までは、曾祖母が同じ仕事をしていたのかもしれません。
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