『中指夫』 10話:ナイヌはナイな
借金のことは、佳奈の前では言わなかった。
けれど、麻子の心は、もう何度も崩れていた。
「花玉信用金庫からのご連絡です」
無機質な留守電の声。
スマホの画面には、見慣れない“残高不足通知”と、新たな数字の羅列。
見覚えのない借入れ先の名前に、背筋が冷えた。
——また、増えてる。借金が。
麻子の知らないうちに。
そして、春男からのLINEはこうだ。
「ちょっと貸してくれたら立て直るんだけど」
「前みたいに、2万だけ」
「月末には必ず返すから」
——既視感、ある。
月末に返されたことなど一度もないのに、よく言えるなと、もはや感心すらしてしまう。貸した金で飲みに行って、酔って帰ってきて、
麻子に「わかってほしい」と泣きついた夜のことを、まだ忘れていないのに。
しかも今回は、少し違った。電気代だけじゃない。携帯も、NHKも。
なぜかクレジットカードの明細に、**“カードローンのご利用明細”**の文字まで。
(は? いつの間に? また借金、増えてんじゃん……)
生活の隙間に、じわじわと染み出す“負債”という染み。
見なかったことには、もうできなかった。
リビングの明かりの下、通知書を見つめたまま、麻子は固まっていた。
電気は、止まらないうちに払う。払えるうちは、まだ大丈夫。
……そう繰り返しながら、真夜中の静けさに身を沈めた。
冷蔵庫の唸る音だけが、暮らしの底を鳴らしていた。
麻子の目に、知らぬ間に涙が浮かんでいた。
そのとき、LINEの通知がポンと鳴った。麻美だった。
「ちょっと!アマプラで『私の夫と結婚して』観て!マジでナイヌやばい!世界にこんな男いない!!」
ナイヌ? 誰それ。
画面のリンクを開き、イヤホンを片耳に差す。
佳奈の寝息を聞きながら、再生ボタンを押す。
韓国ドラマの画面に現れたのは、
完璧なヒーロー——ナイヌこと、ユ・ジヒョク。
温厚で、寡黙で、誠実で、強くて、優しい。
ヒロインのトラウマごと受け止め、最悪の状況でも味方でいてくれる。
「……はぁ。こんな男、ほんとに世界に存在すんの?」
画面越しに、ときめきの波が押し寄せる。
心臓がふっと跳ねて、視界が潤む。——久しぶりの感覚だった。
(もし、タイムリープできるなら)
白無垢姿の自分の前に立って、こう叫びたい。
「ねぇ、お願い!この男(ナイヌ)を夫にしてーーーっ!!!」
けれど——現実は、そう簡単に変わらない。
冷蔵庫を開ける。中にあるのは、魚肉ソーセージの5本セット。
昨日と同じ、今日と同じ。たぶん、明日も。
床に転がった佳奈のスニーカー。つま先には、小さな穴。
スマホがまた震える。春男から。
「今週、給料入ったけどちょっと足りん。実家戻るわ」
「あいつ、ナイヌの0.7%もねぇな」
リープしてやり直したとしても、お前だけは“そのまま”なんだろうな。
画面の中ではナイヌが、深い声で語る。
「君のこと、何度でも選びたい」
「……いや、こっちは一度で十分だったんだけど」
麻子は布団に仰向けになり、天井を見上げる。
「ナイヌ、お願いだから、うちの魚肉ソーセージと夫、交換してくれませんか……」
一瞬、本気で祈った。でもすぐに、苦笑いが漏れる。
「……やっぱ信じねぇ。ナイヌはナイな」
冷蔵庫の魚肉ソーセージに、そっと中指を立てた。
静かな深夜2時。麻子は、吹き出すように笑った。
「私もタイムリープさせてください。
中指を立てなかった世界線の私に会いたいです」
その笑いには、もう涙が混じっていなかった。
ナイヌはナイ。でも、私はここにいる。
冷蔵庫の扉を閉めると、佳奈の予定表が目に入った。
その下に、小さくにじんだ文字。
「運動靴 買ってください」
(あ……そうだ。あの靴、もう穴空いてたっけ)
ごめん、佳奈。
母は今、ナイヌに浮かれていたよ。
自分にツッコミを入れながら、麻子は笑った。でもその笑いは、どこか涙に近かった。
アマプラを閉じ、ChatGPTを開いた。
思わず、指が動く。
「ねぇAIさん。春男って……ナイヌの真逆だよね?」
💬 ChatGPT:
ご指摘の通り、春男さんはナイヌとは対極的な存在かもしれません。
ですが、フィクションのキャラクターと現実の人物は比較するものではなく、それぞれが教えてくれることがあります。
ナイヌが“理想”をくれるとしたら、春男さんは“現実”を教えてくれるのかもしれませんね。
「うまいこと言いやがって……」
でも、その言葉に少しだけ救われた。
少なくとも、春男はナイヌとは違う意味で、麻子の“中指”を育てた男だ。
この怒り、この笑い、このネタ。すべて、春男という存在がくれたもの。
“中指夫”の名付け親はAIだけど——その本体は、まちがいなく春男。
もうすぐ、ボーナスの時期。
春男はまた、「立て直す」と言うだろう。
でも、その前に。佳奈の靴を買おう。春男のスーツが汚れても、関係ない。
中指は、今日もグーで包んだまま。
それでも——
「ナイヌみたいな男を、この手で書いてやろうか」
麻子はスマホのメモ帳を開いた。
中指夫の物語は、ナイヌとの比較から、ますます“味”が増していく。
リアルな地獄の中で生き延びるヒロインは、今日も生きて、笑って、書いている。
——ナイヌはナイな。でも、それでいいのかもしれない。
そして、最後にAIはそっとこう言った。
📣「ナイヌにはなれないけど、AIはあなたの相棒だよ」
麻子は笑った。ひとりじゃない気がした。
——第二章、ここにて終了。
……が、中指はまだグーのまま。
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