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昭和、男もつらかった 209 下の子も「てんがらもん」②病院

 昭和初期の鹿児島で農家の一人息子として生れ、戦時中は陸軍特別幹部候補生として内外地で戦闘機の整備に当たるも、復員後はふるさとで農に生きた二夫(つぎお。父)の物語。

 二人の子供の昭和40年代の様子を綴っている。昭和35(1960)年生れの長男・カズアキは友達と外を走り回るのが好きな「てんがらもん」(いたずらっ子)だったが、二つ下の女の子・二三四(わたし)はお利口さんのほうの意味の「てんがらもん」だった。(より続く)

 その二三四は手がかからずカズアキよりも丈夫で、たまに具合が悪ければ腹痛だったこともで述べた。

 二夫の明治生まれの両親(祖父母)、とくに父親の吉太郎は医者にかかるのを嫌がった。明治の農村には医者自体おらず、医者にかかる習慣も経験もほとんどなかったからだが、カネがかかるというのがいちばんの理由だったと言っていい。

 が、カズアキは跡取りだから何か不調があれば病院へ連れていった。かかりつけは温泉街のある隣町のY医院。のちに妻となるミヨ子(母)が、戦後の娘盛りに佐賀の紡績工場で働いたとき結核に罹り、帰郷後入院して治してもらったのもここのY医院だ。一家、ことにミヨ子はY先生に絶大な信頼を寄せていた。〈373〉

 当然、子供たちの具合が悪いときもY先生に診てもらう。カズアキは発熱などの症状が多かった。たいてはミヨ子がバスで連れて行き、帰りには温泉街の食堂で家では食べられないようなものを食べさせることもあった。その話を聞いて二三四は「あたぃも食堂で何(ない)か食もろごちゃ…」(あたしも食堂で何か食べたい…)と思うのだった。

 その二三四もY病院に行くことがあるが、前述したようにたいては腹痛である。Y先生はミヨ子から症状を聞いたあと、二三四を診察台に寝かせて「ぽんぽんを出してみやい」(お腹を出してごらん)と言い、3本そろえた指であちこち叩いた。そしてたいていは
「何か良(ゆ)ぅなかもんを食もったとでしょう。薬を出しちょっで、ごはんはおかゆにしなさい」
(何かよくないものを食べたんでしょう。薬を出しておくから、ごはんはおかゆにしなさい)
と言うのだった。ちなみにインテリのY先生の鹿児島弁はかなり標準語寄りで、二夫たちの地域の人びとのそれと比べるとはるかに「都会的」だった。

 いつもどおりの見立てにミヨ子はほっとし、二三四はがっかりした。それを見て取ってか、Y先生は付け加えた。「ヤクルトは、飲んでいいですよ」

 温泉街を通り抜けてバス停へ向かう道すがら「ヤクルトはよか、ち先生も言(ゆ)やったでね」(ヤクルトはいいって、先生もおっしゃったからね)とミヨ子は言いながら食料品店に入り、まだガラス瓶入りだったヤクルトを買った。

 おかゆ時々ヤクルト。これが二三四の、具合が悪くなったときの記憶である。

〈373〉結核を患い帰郷したミヨ子がY先生の医院で療養したことについては、ミヨ子の来し方を綴った「文字を持たなかった昭和」の「二十五 恩人、Y先生」で述べた。

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