昭和、男もつらかった 38 教科
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
近所のいとこたちと遊びまわり、地域の「兄(あん)さん」たちにくっついてしきたりや礼儀を学んできた二夫は、昭和9(1934)年の春尋常小学校(以下、小学校)へ上がった。
当時すでに小学校は義務教育。義務だからこそ、庶民とくに地方の農山漁村の親たちには負担もあった。「35 父親は、といえば…」で述べたとおり、帳面(ノート)やえんぴつなどの学用品を揃える以前に教科書そのものが有償だったのだ。
となると教科書は新しく買うか、誰かの「お下がり」をもらうかせねばならない。二夫には、きょうだい同様に育った年上のいとこがたくさんいたのでお下がりをもらった可能性もあるが、いとこたちが順繰りに使った教科書はかなりボロボロで、一人息子のためにハルが新しい教科書を奮発した可能性のほうが高い。
ではどんな科目があったのか。これについては、これまでnoteに昭和や明治の物語を綴る中で調べたことがないのに気づいた。再び文部科学省の「学制百年史」のサイトから、尋常小学校の学科に関する記述を探すと、次のとおりだ。
「修身・読書・作文・習字・算術・体操とし、土地の状況によっては図画と唱歌を加えることができるとした。」
いまふうに言えば、道徳・国語(読書と作文)・書道・算数・体育、といったところか。江戸時代の「読み、書き、そろばん」に武芸を加えたかと思わせるシンプルさである。
上述の「学制百年史」には1週間の教科目別授時数も表として紹介されているので転載してみる。表中の「年」は、小学校令が発布された明治19年か、改正された明治24年を指す。昭和初期の小学校は「尋常小学校(24年)」を見ればいいはずだ。

唱歌・体操を加えても週に27時限。土曜日は「半ドン」(! 昭和までの人にしかわからないだろう。つまり午前のみの半日稼働で午後は休み)なので平均で1日5時限といったところだろうか。8時頃登校して午前中に4時限、昼ご飯を食べて1時限授業を受けたら2時過ぎには下校、というスタイルだったのかもしれない。
こんなスケジュールだと、子供たちは午後の早い時間に帰るから、農山漁村部なら下校後田畑の手伝いをしたり、女の子なら子守りはもちろん炊事をする時間もあっただろう。
ちなみに当時は授業の1コマを「科目」と呼んでいたらしい。
《出所》文部科学省>学制百年史>四 学科課程の整備
