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昭和、男もつらかった 186 ちまき、ではなく「あく巻き」

 昭和初期、鹿児島の農村で農家の一人息子として生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語。目下昭和30年代後半から40年代前半を書いている。
 
 前々項前項と、昭和35(1960)年に生まれた長男(兄)のための端午の節句について述べた。端午の節句の行事食と言えば柏もちやちまきだろう。鹿児島の場合は圧倒的にちまきである。正しくは「あく巻き」。あく巻きの「あく」は「灰汁」、書いて字のごとく灰を水に浸してとった汁のことだ。

 あく巻きについては、二夫の妻・ミヨ子(母)の来し方を綴った「文字を持たなかった昭和」の「あく巻き――月遅れの端午の節句」(その一)で詳しく述べているので、その由来や作り方などは繰り返さない。ごく簡単に言うと、灰汁に浸したもち米を孟宗竹などの大きな竹皮で筒状に包み茹でて作る。

 いま鹿児島の土産物店や道の駅で売っている、菓子メーカーや個人の事業者が作ったあく巻きはせいぜい長さ10数㎝、もっと短いミニサイズもある(メーカー製の多くは真空パックされてもいる)。

 しかし、二夫たちが働き盛りだった頃のあく巻きはほぼ全てが各家庭の手作りで、太さが10㎝近く、長さは20㎝以上あった。毎年作るものながら(逆に毎年作るものゆえ)娘の二三四(わたし)は重さを計った記憶はないがずっしり重く、1本で700g以上はしたはずだ。竹の皮以外はすべてもち米の重さである。

 灰汁に浸けておいたもち米は茹であがると琥珀色になり、ぷるぷるもっちりした食感だった。味付けはしないので特段味はないが、灰汁によるえぐみのようなものがうっすら残る。竹皮をはいだあとのあく巻きは、包丁ではベタベタして切りづらいので、もめん糸や、竹皮を括るのにヒモ代わりに使った割いた棕櫚の葉を、あく巻きの胴体に回すようにして置き、両方から絞るようにして切るのが定番の切り方である。

 そうやって、一切れを厚さ3~4㎝にしたものに、砂糖に少しの塩を入れたきな粉や黒砂糖をかけて食べるのだ。きな粉がないときは白砂糖をそのままかけることもあった。しょっぱくして食べることは絶対なかったのは、あくまで「甘い行事食」だったからだろう。

 厚さ3~4㎝と言ってももち米がみっちり詰まっているので、一切れが100gほどはあったはずだ。カロリーにすればごはん1膳分より多いくらいだったかもしれない。

 それを、子供のおやつとしても2切れは食べたが、田畑にお茶請けとして持って行くときは、もっとたくさん用意した。二夫たちのような、農作業で体力を使う男衆だったら、1回に3切れくらいぺろりと食べたのである。

 ところで、季節の話題として鯉のぼりに続きあく巻きについて書いているが、菱餅を搗いた月遅れの桃の節句同様、あくまきも月遅れで作るものだった。ただ、鯉のぼりのほうは法定休日となったこどもの日に合わせていた、ということだったのではないか。

 あく巻きを作るのは、当時なら田植えの時期でもあった。灰汁は殺菌効果がある。高温多湿な鹿児島の、まだ冷蔵庫が十分普及していなかった農村でも、あく巻きはそう簡単には腐敗せず、おやつに、農作業のお茶請けにと何日もかけて消費された。

※あく巻きの写真は「かごしまの食>あくまき」より。

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