文字を持たなかった昭和 二十九(縁談相手)

 「二十八(縁談先)」に続ける。

 ミヨ子の縁談相手の青年は二夫、「ふたお」ではなく「つぎお」と読む。二夫で「つぎお」なら次男坊と思われがちだが、当時では稀な一人っ子だった。

 父・吉太郎と母・ハルは再婚どうしだった。吉太郎の最初の妻はお産が重くて亡くなった。なんとか生まれてきた女の子も、飲ませる乳やそれに代わるものが手当てできず、この世の空気を数日吸っただけではかない命を閉じた。

 一方のハルは、最初の嫁ぎ先で「子を成す」ことができなかった。明治の終わりから大正の地方の農村のこと、子供を産めない女性は嫁としての立場がなかったことは容易に察せされる。そのため実家に帰った、いわば正真正銘の出戻りである。そのハルが住んでいた集落も吉太郎と同じ町の同じ農村地区にあり、それぞれの集落は数キロ離れていた。

 もちろん恋愛結婚ではない。どういうご縁かこの二人を結び付けた人があり、どちらも2回目の結婚をした。

 結婚が遅かったため、昭和3(1928)年に二夫の出生届を出したとき(※40)吉太郎は45歳、ハルは39歳になっていた(※41)。父親もけっこうな年だが、母親のほうは当時とすれば相当な高齢出産である。ただし当時のこととて戸籍上の記載が正確だったとは限らず、とくにハルについては姉の戸籍を引き継いでいるという話もあり、だとすれば「高齢度」は多少割引されるだろう。

 それでも30歳を過ぎての初産となればかなりのリスクだっただろう。両親の年齢、その先の寿命からして、子供を授かるのは最初で最後と考えたとしても不思議ではない。

 二人は一粒種となる可能性が高い跡継ぎに「不二夫(ふじお)」と名づけたかったらしい。「二人といない大事な男の子」のつもりだったのだろうか。富士山と同じ音なのも縁起が良い。ところが、当時まだまだあった話として、二人はあまり字を書けなかった(※42)。そのため、近隣の同じような人々と同じように、役所の手続きなどは多少学がある人に頼んでおり、息子の出生届もお願いした。

 結果、どこで誤って伝わったのか「不二夫」は「二夫」になり、「ふじお」は「つぎお」になった。人の子供の大事な名前を、と憤りたくなるような話も、当時の教育水準と人間関係の中では、わざわざ言い立てるほどでもないと考えたのかもしれない。

 名前はともかく、二夫は一人っ子として寵愛を受けた。――と書きたいところだが、そうとも言えなかったようだ。

※40 二夫もミヨ子同様、出生届は誕生より1年遅い。「ひと休み(戦前の出生届)」に記載。
※41 没年から逆算すると、吉太郎は明治16(1883)年生まれ、ハルは明治22年(1889)年生まれのはずだが、いずれ戸籍を確認したい。
※42 文字を書けなかったため届出が滞ったことについても、「ひと休み(戦前の出生届)」で触れている。

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