昭和、男もつらかった 211 昭和40年代① 生活の変化
昭和初期の鹿児島で農家の一人息子として生れ、戦時中は陸軍特別幹部候補生として内外地で戦闘機の整備に当たるも、復員後はふるさとで農に生きた二夫(つぎお。父)の物語に戻る。
昭和40年代のエピソードとして二人の子供たちの様子を述べてきた。この頃には、耕運機はもちろん田植え機も導入し、二夫一家はいわば「近代的農業」の、最先端とまではいかなくてもかなり前の方のグループにいた。「銭(ぜん)が要っとこぇ」(カネがかかるのに)と機械化には一貫して乗り気でなかった父親の吉太郎(祖父)も90歳近くになり――なにぶん両親は再婚どうしの晩婚で、二夫は吉太郎が40代後半で生まれた――、だいぶ前から二夫のやり方に口を出すことは減っていた。
二夫は二夫で、裸一貫から土地を買い広げた父親を尊敬もし遠慮もしていたから、父親のやり方をがらりと変えることはなかったが、時代の波は鹿児島の農村のひとつの家庭にも遠慮なく押し寄せてきていた。
それは消費を含む、いわゆるライフスタイルのみならず、農機や農業用資材などの面でも徐々に変化を迫るものだった。
生活で言えば「買う」ものが増えていった。母親のハル(祖母)がずっとしてきたような、自給自足、味噌や梅干しなどの保存食品はもちろん自家製、日用品もできるだけ手作りする、買うと言えば最低限の衣類と道具、服は仕立て直したりツギを当てたりしながら長く着る、壊れたら修理したり補強したりして使う、農具は金属部分以外――たとえば鍬や鎌の柄など――は自分でこしらえる、といった生活から、なににつけ新品を買うことが増えた。
それでも、暮らし方がある時点からきっちり切り替わるわけではなく、古い道具ややり方と新しいものが混在しながら、気がつけば新しいものが増えている、という状況になっていった。
二夫の顔の広さも変化の大きさに影響した。農協や地域のいろいろな「役」を頼まれることが多く、話好き、人好きの本人もそれを断らないため、さまざまな場で新しいやり方に触れる機会が多かった。しぜん、「それをやってみましょう」「取り入れましょう」という方向になる。相手の顔を立てたい、自分もいい顔をしたい、という気持ちが入っていたことも否めない。
ことに営農については、40歳過ぎの働き盛りということもあって、「二夫さん、やってみませんか」と言われることが多い。二夫は特段新しもの好きというわけではなかったが、好奇心は強いほうだったので、技術的興味から試してみたいと考えてしまう。
この頃にはもう両親は農作業の主戦力からは退き、せいぜい手伝いに来てもらうぐらいだったのに、そこそこの広さの農地――田畑、それにミカン山――を回せたのは、二夫が若かったからだろう。
それにつきあわされる妻のミヨ子(母)は大変だったが、「あたぃがきばればいけんかなっじゃろ」(あたしが我慢すればなんとかなるでしょ)と半ばあきらめ気分で二夫の決定に従った。5人きょうだいの長女で何につけがまんが習い性になっていたせいもある。
二人の子供の手伝いは半人前にも足りなかったが、忙しい時季の週末や休日は、言わなくても田畑についてきた(もっとも土曜日はまだ「半ドン」で午後のみ休みである)。いちばん忙しいときは、放課後畑にかけつけたりもした。「親が忙しいときは手伝う」のは暗黙の了解以前の、家族として当たり前のことだったのだ。この時代の多くの農家や自営業の家庭ではそうだったはずだ。(「昭和40年代②」へ続く)
